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イスラエルに対する神のラブ・コール

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34. イスラエルに対する神の永遠のラブ・コール

【聖書箇所】42章18節~43章13節

ベレーシート

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  • 今回の聖書箇所には、主ご自身が自ら「わたしはあなたを愛している」とイスラエルの民に語ったフレーズのある有名な箇所(43:4)です。英語でいうなら、I love you です。こんなに明白に語っている箇所は他にはないからです。しかし、このフレーズだけが取り上げられますが、その前後関係(コンテキスト)はほとんど無視されているかもしれません。このフレーズは本来「主の道に歩むことを望まず、そのおしえに聞き従わなかった」(42:24)主の民に対して、主が語っている一方的なラブ・コールなのです。いわば片思いの愛です。
  • イザヤ書43章1節には「だが、今、ヤコブよ」から始っており、それは前から続いていることを示唆しています。関根訳は42章18節~43章13節を一区切りしていますが、私もそれが内容的に自然だと思います。その区分に従って神の変わることのないコンスタントな愛に目を留めてみたいと思います。

1. 盲目で、耳の聞こえないイスラエルに対する神の呼びかけ

【新改訳改訂第3版】イザヤ書42章18~21節
18 耳の聞こえない者たちよ、聞け。目の見えない者たちよ、目をこらして見よ。
19 わたしのしもべほどの盲目の者が、だれかほかにいようか。わたしの送る使者のような耳の聞こえない者が、ほかにいようか。わたしに買い取られた者のような盲目の者、【主】のしもべのような盲目の者が、だれかほかにいようか。
20 あなたは多くのことを見ながら、心に留めず、耳を開きながら、聞こうとしない。
21 【主】は、ご自分の義のために、みおしえを広め、これを輝かすことを望まれた。

  • イザヤ書1章3節でも「牛はその飼い主を、ろばも持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」とあったように、ここでも「わたしのしもべほどの盲目の者がいようか。・・耳の聞こえない者が、ほかにいようか」と反語的に問いかけています。それは皮肉と言うよりは、主にとって悲しみのことばです。
  • 20節には神のしもであるイスラエルに対して、「あなたは多くのことを見ながら、心に留めず、耳を開きながら、聞こうとはしない。」と言っています。見えているのに見えていない。聞ていているのに聞こえていない。これはイェシュアが来臨された時にも全く同じ状況が見られました。「見る」「聞く」ことは主とのかかわりにおいてきわめて重要なことです。詩篇119篇の作者はバビロンの捕囚の苦しみの経験を通してその意味することを悟った人ですが、「わたしの目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。」(119:18)と祈った者は実に少ないのです。
  • 共観福音書の中には「ダビデの子よ(メシア的称号)。・・あわれんでください。」と叫びながらイェシュアのもとに近づき、イェシュアによって盲人の「目が開かれる」という奇蹟が記されています(マタイ9:27~30、マルコ10:46~52、ルカ18:35~43)。ヨハネの福音書にも盲人の開眼の奇蹟が記されていま(9章)。それほどに盲人の目が開かれるということは神において重要な事柄であり、神の栄光を現わす出来事なのです。しかも、開眼、および開耳の奇蹟はメシアによってしかなされない奇蹟であることが旧約において預言されているのです。イザヤ書では35章5節に「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳あく。」とあります。
    (イザヤ29:18/32:3/42:7/マタイ11:5/12:22/15:30/ルカ7:22/ヨハネ9:6, 7/を参照)。
  • 21節の「【主】は、ご自分の義のために、みおしえを広め、これを輝かすことを望まれた」は、神のイスラエルに対する深いみこころが示唆されています。
    ①「望まれた」は「喜ぶ」を意味する「ハーフェーツ」(חָפֵץ)。
    ②「みおしえ」は「トーラー」(תּוֹרָה)であり、これはリビングトーラーであるイェシュアを指し示しています。
    ③「広める」と訳された語彙は「ガ-ダル」(גָּדַל)の使役で、新共同訳は「偉大なものとする」と訳しています。
    ④トーラー(=イェシュア)を「広める」(「偉大なものとする」)ことで、それが全地に「輝かす」(「アーラル」אָרַר)ことが神のご計画のみこころであると語られています。


2. 主の慰めの言葉(43章1節)とその説明

主の慰め.JPG

A. 「あなたは 恐れるな אַל־תִּרַאֲךָ
 
43:2 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。
43:5a 恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。

長期の捕囚の中にあっても決して滅びることはない。なぜなら、主の御手によってしっかりと守られているからです。ここでの「水」や「火」は困難を意味する象徴です。その中にあっても「押し流され」たり、「焼かれ」たりすることはありません。なぜなら、「わたしがあなたとともにいるからだ」との臨在が約束されています。


B.「わたしがあなたを 贖った גְאַלְתִּיךָ

43:3 わたしが、あなたの神、【主】、イスラエルの聖なる者、
あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。
43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。
43:5bわたしは東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。
43:6 わたしは、北に向かって『引き渡せ』と言い、南に向かって『引き止めるな』と言う。わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ。

「贖う」(「ガーアル」גָּאַל)は救いの歴史において重要な役割を果たす語彙です。親族の中の誰かが死んだとき、その人に主から割り当てられた土地や家族が人手にわたらないように、親族の中で最も近い身内の者がそれを買い取るという義務が律法によって定められていました。すでに人の手に渡った場合、「買い戻す」ことになります。この権利を有する者を「ゴーエール」(גֹּאֵל)と言います。神はバヒロンの手に渡ったご自身の民を最も近い身内の者となって買い戻すことを約束しています。その「買い戻し」をするための代金(身代金)は、エジプト、クシュ(エチオピア)、セバをバビロンを倒すペルシャに支払うという意味です。事実、ペルシャはB.C.525年にエジプトを征服しています。

イザヤ41章14節にも「あなたを贖う者」という表現があり、44章12節には「わたしはあなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐいさった。わたしに帰れ。わたしはあなたを贖ったからだ。」と感動的に語っています。

主が「贖った」ことで、離散していた神の民たちは、東から、西から、北から、南から、つまり全世界から、世界各地から集められることが預言されています。今日、世界各地に離散している神の民(失われた10部族も含めて)の帰還と集合は、神のわざの神秘に属することです。私たちが信じようと信じまいと、必ずやそのことは実現するのです。それほどに神が彼らを選んだ真実は私たちの思いや考えを超越した神秘的な事柄なのです。


C. わたしはあなたの名を 呼んだ קָרָאתִי בְשִׁמְךָ

43:7 わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し(בָּרָא)、これを形造り(יָצָר)、これを造った(עָשָׂה)。
43:9b彼らのうちのだれが、このことを告げ、先の事をわれわれに聞かせることができようか。彼らの証人を出して証言させ、それを聞く者に『ほんとうだ』と言わせよ。
43:10 あなたがたはわたしの証人、──【主】の御告げ──わたしが選んだわたしのしもべである。これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者であることを悟るためだ。わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない。
43:11 わたし、このわたしが、【主】であって、わたしのほかに救い主はいない。

「名を呼ぶ」という行為はイスラエルを神ご自身のものとして召されることを意味します。つまり、特別な存在だということです。イスラエルの民は神ご自身の栄光のために選び出された神の所有の民であり、彼らが選ばれた目的は主のすばらしさを証しする証人となるためでした。


2014.10.8


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