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インプットとアウトプットのバランス

13. インプットとアウトプットのバランス

【聖書箇所】 4章31~44節

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はじめに

  • イエスが自分の故郷において、福音宣教の宣言をしてから最初の活動の記録が記されています。イエスの初期の働きはカリラヤ湖の北岸にある「カペナウム」を中心に行われます。
  • 今回の聖書箇所にもイエスの公生涯を要約するような事柄か示唆されています。

1. イエスの霊的な力の源泉

  • ルカの福音書4章31~44節において、きわめて対象的な事柄は働きとしての「アウトプット」と、静まりによる「インプット」とのバランスです。「インプット」の記述は4:42の「朝になって、イエスは寂しい所へ出て行かれた。」という1節のみですが、この1節がすべての働きーここでは「悪霊の追い出し」、いろいろな「病気のいやし」を支えているのです。
  • ルカとマルコはイエスの「インプット」を次のようにしるしています。

    ルカ4:42
    「朝になって、イエスは寂しい所へ出て行かれた。」
    マルコ1:35
    「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」

  • ルカはイエスが朝になって、寂しい所へ出て行かれた目的については特に記しておりませんが、それは当然、御父と共に過ごす祈りのためでことが含まれています。マルコの「祈っておられた」の原語は、「プロセウコマイ」προσεύχομαιの未完了過去、中態、直接法です。未完了過去は、過去の動作の継続、または反復を意味します。それゆえここでのニュアンスは「イエスは朝早く、寂しい所へ出かけていき、そこで自分のために(中態)祈ることを習慣としていた。」ということになります。ルカ5:16ではそのニュアンスを「イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。」と記しており、イエスの祈りの生活が継続的であったことを伝えています。
  • 「寂しい所」も「荒野」も、あるいは「人里離れた所」も原語はすべて同一で「エレーモス」ερημοςです。人気のない、静かな場所です。そうした場所を持つことは霊的にきわめて重要です。一人になれる場所で、神と過ごす時をイエスは自分の生活において何にも優って優先されていたのです。しかも十分な霊的「インプット」によって、4章31節以降に記されている忙しい働きをすることができたと言えます。
  • イエスの祈りの生活は、「神の国の福音を宣べ伝える」働きをするために、自らの霊的装備として必要不可欠なものでした。忙しければ忙しいほど霊的な装備は多く要求されます。ですから、「忙しいから祈りができない」というのは何の理由にもならないのです。神の子どもは聖霊によって導かれなければなりません。聖霊は祈りの霊です。神の子どもとして生きるための必要を満たすべくその源泉に導く方です。
  • イエスの祈りの内容については神秘の中に包まれています。だれもそれを覗き見ることができません。神秘に満ちていますが、その祈りの内容について垣間見ることはできます。それは、後にイエスの働きの力の源泉が祈りにあることを気づいた弟子たちが、自分たちにも祈りを教えてほしいと願ったときに教えられた「主の祈り」にあります。しかし、そのシンプルな祈りはあくまでも祈りのアウトライン(概要)に過ぎず、その内容はきわめて奥深いものがあります。ですから、単に、「主の祈り」を通り一遍唱えて終わりというような祈りではなかったのです。
  • 霊的な「インプット」と「アウトプット」。祈りと働き。隠遁と公現。静寂と活動。そのバランスを正しく保てていないことが今日の多くのクリスチャンの現実ではないかと思います。イエスの場合、御父との親しい交わりしての祈りのあふれが、具体的な働きとなって現わされたのです。多くの人々の問題に深くかかわるその中心に、ひとり退く時が必要なのです。
  • それゆえ私たちは祈りの祭壇を建て上げなければなりません。それは単に祈りの課題を祈るということではありません。聖書は神とのかかわりのすべてを「祈り」と言い表しているからです。

2. イエスの働きに対する驚きの反応

(1) 悪霊たち
イエスの権威に対していち早く応答したのは、悪例たちでした。彼らはイエスが何ものであるかを正しく認識したのです。4:41には「彼らはイエスがキリストであることを知っていた」とあります。多くの群衆はイエスの教えに驚きを示しました。しかし、悪霊たちのように、「彼らはイエスがキリストであることを知る」には至りませでした。イエスの生涯の終わりまで人々(指導者も群衆も)は、イエスがキリストであることを悟ることはできませんでした。常にスレ違いが起こるのです。このスレ違いは今日においても同じく起こり得ます。

(2) 多くの人々

イエスは神の国の支配の現われとして、霊的な束縛にある者たち、病に苦しむ者たちを解放するために、悪霊を追い出し、多くの病をいやされました。それゆえ瞬く間にイエスの評判は広がったのです。ルカはイエスに対する「驚き」をいろいろな語彙で表しています。すでに12歳のイエスに対する驚きを取り上げました。⇒参照「12歳のイエスに対する驚き」

  • しかしそれは驚くことには当たりません。なぜなら日本語にも「驚き」を表わす語彙が数多くあるからです。たとえば、

    動詞の語彙として
    驚く、驚き入る、舌を巻く、驚嘆する、驚愕する、びっくりする、どっきりする、仰天する、跳び上がる、肝を潰す、肝を冷やす、腰を抜かす、息を飲む、耳を疑う、意表を突かれる、度肝を抜かれる、呆れれる、呆気に取られる、目が点になる・・など。

    名詞の語彙として
    驚き、驚異、衝撃、ショック、インパクト、奇蹟、晴天の霹靂、寝耳に水、驚天動地、震天動地・・など。

  • ルカが4章で使っている驚きの語彙を拾ってみます。

    (1) 4:22
    「みなイエスをほめ、その口から出てくる恵みのことばに驚いた。」
    「驚いた」は「サウマゾウ」θαυμαζω 新約で43回。非常に驚くこと、はなはだしく驚き怪しむ、不思議がる。ルカでは1:21/1:63/2:18/4:22/7:9/8:25/9:43/11:14/11:38/20:26/24:12/24:41/


    (2) 4:32
    「人々はその教えに驚いた。」
    ここでの「驚いた」の原語は「エクプレーッソウ」εκπλησσω 新約では13回。ルカ文書では、福音書2:48/4:32/9:43、使徒13:12。

    (3) 4:36
    「人々はみな驚いて、互いに話し合って・・」
    ここでの「驚いて」は名詞使われています。「サムボス」θαμβοςが使われています。ルカ文書では3回。福音書では4:36/5:9、使徒3:10。驚き恐れること、びっくり仰天すること、驚愕を意味します。

  • 人々はイエスの教えや奇蹟に対して「驚き」の反応を示しました。かなりのインパクトをイエスは与ええたのです。そのためにすぐにイエスの評判は広がり、イエスのもとに来ていやしを求めました。イエスは神の国の福音の祝福としての解放をひとりひとりに与えました。しかし、それは直ちにイエスがメシアであるという正しい理解につながったとはいえなかったのです。自分たちの利益のためにイエスを自分たちのところにとどまるようとしましたが、イエスはひとつの所にとどまることなく、他の町々を訪ねました。そしてユダヤの諸会堂で福音を告げ知らせておられたのです。
  • 今回の4:31~44の箇所において、その最初の節と最後の節には、Be動詞の未完了過去と分詞が結びついています。つまり、継続的な繰り返しの行為を意味しています。

最初の節31節では「イエスは・・安息日ごとに、人々を教えられた。」―正確には「教え続けておられた」

最後の節44節では「(イエスは)・・ユダヤの会堂で、福音を告げ知らせておられた。」

  • ひとたび始められたことをイエスは継続してなされていかれたのです。働きをやめることなく、ひとつの場所で、あるいは他の場所で、継続した働きを続けて行かれたのです。

2011.6.30


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