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ウジヤ王が死んでイザヤが召命を受けた頃の世界情勢

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ウジヤ王が死んでイザヤが召命を受けた頃の世界情勢


ウジヤ王が死んだ年にイザヤは預言者としての召命を受けています。もしすでにイザヤが預言者としての働きを始めていたとするならば、6章に記されている召命は再召命ということになります。いずれにしても、その年はB.C.740年です。その頃の生かい最強国はアッシリヤでした。しかし、その東南には新バビロニア帝国があり、西には大国エジプトがあり、この三つの国が微妙な均衡を保っていました。この三国に挟まれた中東の国々は安泰でいられたのです。ウジヤ王の治世もそうした時代でした。

ところが、ウジヤが死ぬ数年前、つまり、B.C.645年頃にアッシリヤにティグラテ・ピレセル三世という非常に征服欲の旺盛な人物が王となったあたりから、世界の勢力図の均衡が崩れはじめたのです。世界中が騒然となったことは言うまでもありません。

このアッシリヤに対して親アッシリヤ政策を取るか、反アッシリヤ政策を取るか、それぞれの国々の政治的判断が求めるられることになりました。アハズが王座に着いていたとき、北イスラエルとアラムは反アッシリヤ政策を取って同盟関係を結びました。そしてその同盟にユダ王国も加わるように要求して来ました。ところが、ユダ王国のアハズは、南エジプトに対する恐れを持っていたため、アハズはアッシリヤに貢物を送って手を結ぼうと考えていたのです。そのために、アラムと北イスラエルの連合軍はユダ王国を攻めることになったのです。

アハズは宮の宝物蔵から大金を出してアッシリヤに貢いでアラムを攻撃することを要請し、アッシリヤもその要請に従ってアラムを攻撃し、B.C.732年にアラムを滅ぼしました。B.C.722年には北イスラエルも滅ぼし、多くの住民をアッシリヤに捕虜として連れて行ったのです。このようにして、イスラエルにおける北10部族が捕囚の身となり、雑婚を余儀なくされて、民族としてのアイデンティティが崩壊させられたのです。

画像の説明

●北イスラエルのがアッシリヤによって滅ぼされるという事件を目の当たりにしたアハズ王の息子ヒゼキヤは、預言者イザヤの助言に従い、アッシリヤとの同盟関係を破棄します。また、エジプトに頼ることも捨てて、ただ信仰に立って、神にのみ拠り頼む道を決断したため、当然のことながら、アッシリヤの王(この時のアッシリヤの王はセナケリブ)の怒りを買うこととなったのです。

●B.C.702年、アッシリヤのセナケリブはエジプトを攻略するための手始めとして、ユダ王国に攻め入り、ほとんどの町を滅ぼして、エルサレムを包囲しました。それに対抗する術のないヒゼキヤは民たちに呼びかけ、断食を布告して神に祈りました。神はその祈りに答えられ、一夜にしてアッシリヤ軍18万5千人が滅ぼされました。このことでセナ家リブは撤退を余儀なされたのです。

●アッシリヤは国力を失い、それに代わって台頭してきたのが、新バビロニア帝国の創始者ナボポラツサルです。彼はB.C.605年にエジプトとの戦いにおいて急死したため、彼の息子のネブカデネザルが王座に着き、エジプトの戦いにおいて大勝利をもたらしました。このネブカデネザルこそ、B.C.587年にエルサレムを完全に崩壊させ、ユダの民をバビロンへ捕囚として連れて行ったのです。


2014.8.11


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