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エジプトへ逃れた者たちへのさばきの預言

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45. エジプトへ逃れた者たちへのさばきの預言

【聖書箇所】 43章8節~44章30節

ベレーシート 

  • 44章には、「ユダにとどまれ」というエレミヤを通して告げられた主の御告げを無視して、エジプトへ逃れた者たちに対する主のさばきの預言が記されています。ここではそのさばきの預言がエルサレムに対する預言と同様のものであったことと、44章の中にしばしばくりかえして出で来る「ユダの残りの者」というフレ―ズに注目し、聖書における「残りの者(レムナント)」の思想にも触れてみたいと思います。
  • ちなみに、この章はエレミヤが語った最後の預言(その可能性が高い)と考えられています。

1. 大きな石をパロの宮殿の入り口の敷石の中に隠すという象徴的預言行為 

  • エレミヤ書においては、ひとつの行為がある預言的意味をもつ実物教材として用いられる例が多く見られますが、43章8~13節の場合には、主の御告げに背いてエジプトに逃れた「ユダの残りの者」たちに対するさばきとして、ユダの残された人々が見ている前で、パロの宮殿の入り口の敷居のしっくいの中に大きな石を隠すことがそれでした。その行為が意味することは、やがて主がバビロンの王ネブカデレザルを連れて来て、その王座を隠された石の上に据えるという預言的なしるしだったのです。
  • 石が隠された場所はパロの宮殿のある「タフパヌヘス」という場所で、エジプトの中心的な場所(要害都市)でした。
  • 44章では、「ユダの残りの者たち」に対するエジプトで被る災いはエルサレムを罰したものと同じであり、その災いの原因も、彼らが「天の女王」を礼拝した罰であるということでした。ところが、エジプトに難を逃れた「ユダの残りの者たち」は、エルサレムの陥落とバビロンへの捕囚という災いの原因は、主に対する不従順ではなく、「天の女王」を礼拝しなかったことだと全くエレミヤの見解と逆の見解をもっていたという事実です。後者の見解は、神の教育的矯正としての災いの目的を完全に反故にするものでした。それゆえ、神は彼らを彼らの思いに引き渡されたのです。

2. 「残りの者」(レムナント)という思想 

  • エレミヤ書の44章の中で4回(7, 12, 14, 28節)繰り返し使われている「フレーズ」があります。それは「ユダの残れる者」というフレーズです。原語は「シェエーリート」שְׁאֵרִיתで、旧約では66回、エレミヤ書はそのうちの24回で特愛用語です。ただしそこでは、旧約聖書の重要な思想の一つである「残りの者(レムナント)」の意味で使われてはいません。そこでの「ユダの残りの者」の意味は、ユダとエレサレムの惨事を逃れ、バビロンへの捕囚も逃れた人々であり、「ユダにとどまれ」との主の命令を無視して、エジプトに難を逃れた人々のことです。彼らは「滅び絶える」運命にある者たちでした。その中のごく少数の「のがれる者(「パーリート」פָּלִיט」たちだけが、エジプトからユダに帰還するとあります。
  • 「残りの者」の思想において重要な箇所は、エレミヤ書においては終末における全イスラエルの回復を預言した箇所です。

(1) 23章3節 【新改訳改訂第3版】
しかし、わたしは、わたしの群れの残りの者を、わたしが追い散らしたすべての国から集め、もとの牧場に帰らせる。彼らは多くの子を生んでふえよう。

(2) 31章7節
まことに【主】はこう仰せられる。「ヤコブのために喜び歌え。国々のかしらのために叫べ。告げ知らせ、賛美して、言え。『【主】よ。あなたの民を救ってください。イスラエルの残りの者を。』

  • 神のさばきをくぐり抜けて、神の民の霊的な核として、新しい神の民を形成する者となる「残りの者」がいるのです。その者たちは主なる神を自らの神として認め、神の律法に従って生き、聖なる者となる者たちです。この「残りの者」たちのことを「シェアール」שְׁאָרと言います。エレミヤ書にはない語彙です。旧約で26回使われていますが、そのうちイザヤ書が12回で特愛用語となっています。特に、以下に示す箇所(10:19~22/11:11/28:5)はきわめて重要です。神のきびしいさばきの中にもかかわらず、潜り抜ける「残りの者」の存在です。

【新改訳改訂第3版】イザヤ書10章
19 その林の木の残りは数えるほどになり、子どもでもそれらを書き留められる。
20 その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家ののがれた者は、もう再び、自分を打つ者にたよらず、イスラエルの聖なる方、【主】に、まことをもって、たよる。
21 残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。
22 たとい、あなたの民イスラエルが海辺の砂のようであっても、その中の残りの者だけが立ち返る。壊滅は定められており、義があふれようとしている。

イザヤ書 11章11節
その日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りを買い取られる。残っている者をアッシリヤ、エジプト、パテロス、クシュ、エラム、シヌアル、ハマテ、海の島々から買い取られる。

イザヤ書 28章5節
その日、万軍の【主】は、民の残りの者にとって、美しい冠、栄えの飾り輪となり、


3. 神のご計画と「残りの者」の存在 

【新改訳改訂第3版】イザヤ書 6章13節
そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株。」

  • イザヤ書6章13節には、神の民に対する厳しいさばきの中にわずかに残される者の中に「聖なる切り株(単数)」があるとあります。この「聖なる切り株」はメシアを指しています。ヘブル語では「マッツェヴェト」מַצֶּבֶתです。「柱」という意味もありますが、「切り株」という意味ではイザヤ書6章13節だけに使われている語彙です。それは「残れる者」の最も中核的な存在なのです。
  • イスラエルの民全体と「残れる者」の関係をメシアニック・ジューを代表するラビの一人、アーノルド・フルクテンバウム博士は次のように述べています(ドット・モアヘッド著「聖書で学ぶ『約束の地』という小冊子17~18頁より引用、2012.8発行、イーグレープ出版)。
画像の説明

「ユダヤ人全体の中には、いつの時代も信仰ある者が必ずいる。その人々をイスラエルの残れる者(レムナント)という。つまり、全体としてのイスラエルと、残れる者としてのイスラエルと、二種類のイスラエルがあるのだ。両者は民族的には同一だが、霊的には異なる。過去の歴史において、人数の多少はあったとしても、残れる者がいなかったことは決してない・・」

使徒パウロもで、イスラエルには二種類あると指摘しています(ローマ書9:6参照)。すなわち、全体としてのイスラエル(民族的なイスラエル)と残れる者であるイスラエル(信仰あるイスラエル)です。また、9章27節ではイザヤ書を引用して「たといイスラエルの子どもたちの数は砂のようであっても、救われるのは、残された者である」とあり、「それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。」(11:5)と述べています。

ですから、現在の「残れる者」であるイエスをメシアと信じ従うユダヤ人(メシアニック・ジュー)が、ユダヤ人の1%しかいないとしても、神がユダヤ人全体を捨てられたことにはなりません。決してなくなることはないのです。


2013.4.9


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