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エルサレム(1) 危機の中でパウロに与えられたもの

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36. エルサレム(1) 危機の中でパウロに与えられたもの

【聖書箇所】 21章17節~40節

ベレーシート

  • ツロで聖霊によって示された預言-つまり「エルサレムで苦しみが待っている」ということ-は、カイザリヤのピリポの家でもアガボという預言者によっても再度、告げられました。人々はパウロにエルサレム行きを取りやめるよう進言しましたが、当のパウロは「主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟している」と答えて聞き入れようとはしませんでした。
  • 使徒パウロの一行は、エルサレムに着くと、兄弟たちが彼らを喜んで歓迎しました。「喜んで歓迎する」と訳されたギリシア語は「アポデコマイ」(άποδέχομαι)で、これはルカ文書にのみ使われている動詞で、「喜んで迎える、受け入れる、歓迎する、認める」の意。ルカ8:40/9:11、 使徒2:41/18:27/21:17/24:3/28:30の7回。
  • 翌日、彼らはヤコブの家に行きました。そこには長老たちがみな集まっていました。パウロは彼らに神が異邦人たちの中でなされたことを、順を追って一つずつ詳しく報告しました。聞いた人々は主を繰り返しあがめました。ちなみに、ヤコブは主イエスの兄弟であり、エルサレム会議での議長を務め、ユダヤ人と異邦人の仲介をしたエルサレム教会の最高指導者でした。彼らは、パウロに対する不穏な空気があることを伝え、パウロの身を守るためにひとつの進言をしたのでした。

1. 守られるために長老たちから進言されたパウロ(17~26節)

  • 弟子たちがエルサレム行きを取りやめるよう進言した時には受け入れようとしなかったパウロが、エルサレムでは長老たちの進言を素直に聞き入れています。その進言はパウロの身を守るためでした。その内容は、主に誓願を立てている(脚注)他の四人の者たちを連れてパウロ自身も一緒に身をきよめだけでなく、その費用を出すことで、パウロが律法を守って正しく歩んでいることを公に証しするようにというものでした。
  • エルサレム教会の長老たちはエルサレム会議の決定事項を知っていましたが、パウロに対しての進言はある者たちの誤解と偏見によって、無益な争いとならないための知恵でした。パウロは長老たちの進言をすなおに受け入れたのです。これは健全な判断です。良識といえるものです。誤解に基づく無益な争いを起こさないための知恵です。
  • しかし神のご計画は、不思議にも、人間の健全な判断や人の誤解をも用いて進められていきます。聖霊が示した預言は必ず起こることだからです。パウロの場合、すべては主のご計画の中に置かれていて、どんな些細な事柄でも、着実に主のみこころのままになされていくのを見ます。

2. 千人隊長を通して神の保護が与えられたパウロ(27~33節)

  • 預言どおり、アジアから来たユダヤ人たちの誤解と扇動によって、パウロは捕えられ、彼を殺そうとしていたとき、主はパウロを助けるために、ローマの千人隊長を用いられたのです。パウロ、ローマの兵士たちに捕えられて鎖につながれたゆえに、殺されずに済んだと言えます。まさに危機一髪でしたが、これこそ預言者アガボが預言的行為を示したことでした。
  • アガボは、パウロの帯を取り、自分の両手と両足を縛って、「『この帯の持ち主は、エルサレムでユダヤ人に、こんなふうに縛られ、異邦人の手に渡される。』と聖霊がお告げになっています」と言いましたが、まさにその通りのことが起ったのです。異邦人とは「ローマの兵士たち」のことです。
  • 人の目には意外に思えることを用いて、神はご自身のご計画を進めて行かれるのです。導きの妙と言えます。したがって、私たちはどんなささいなことでも、あるいは身に起こる出来事でも、その背後に神がおられることを意識している必要があります。また、誤解や偏見や悪意によってどんなに不条理な立場に追い込まれたとしても、決して落胆する必要はないのです。そこに神のご計画があるならば、必ず、必要な助けや保護が備えられているからです。

3. 自分のあかしを語る機会が与えられたパウロ(37~40節)

  • パウロが兵営の中に連れ込まれようとした時、パウロに思わぬひらめきが与えられました。パウロは千人隊長に「一言お話ししてもよろしいでしょうか。」とギリシア語で尋ねると、千人隊長は驚き、パウロの素性を知ることになります。そしてパウロは群衆に向かって、自分のあかしをする機会が与えられました。
  • 危機の最中で、とっさの知恵、とっさの思いつきがパウロに与えられました。つまり、パウロは千人隊長の許可のもとで、エルサレムの群衆に対して自分のあかしをヘブル語で語る機会を与えられたのでした。危機をチャンスに変える知恵です。
  • あとになってはじめて、自分のとった行動や態度、あるいは語った言葉が、自分自身から出たものではないことに気づかされることがしばしばあります。イエスは言われました。「捕えられ、引き渡されるとき、何を言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です」(マルコ13:11)。このことがパウロにも起こっています。

最後に

  • 今回の箇所で学んだパウロのように、自分に頼らず、神に信頼をおいて歩むとき、人からの進言を受け入れる柔軟さ、突然の神の保護、そしてとっさの知恵が与えられるのだと信じます。パウロの場合、パウロの身に起こったひとつひとつの出来事が、やがてローマでも福音を伝えて主をあかしすることになる布石となっています。私たちの目には見えずとも、主はいつもみこころにそって、私たちをコーディネイトされる方であることを心に留めたいと思います。



脚注

●「誓願を立てる」とは、ユダヤ人の間に行われていた一つの儀式で、神にどうしても自分の願い事を叶えてほしいというときに、あるいは自分自身を神さまの前に聖別する必要があると決意を持ったときに「誓いを立てる」ということをしました。旧約聖書には、それらに関して明確な規定が、民数記6章1~5節に記されています。

1「主はモーセに告げて仰せられた」。
2「『イスラエル人に告げて言え。男または女が主のものとして身を聖別するため特別な誓いをして、ナジル人の誓願を立てる場合、」
3「ぶどう酒や強い酒を断たなければならない。ぶどう酒の酢や強い酒の酢を飲んではならない。ぶどう汁をいっさい飲んではならない。ぶどうの実の生のものも干したものも食べてはならない。」
4「彼のナジル人としての聖別の期間には、ぶどうの木から生じるものはすべて、種も皮も食べてはならない。」
5「彼がナジル人としての聖別の誓願を立てている間、頭にかみそりを当ててはならない。主のものとして身を聖別している期間が満ちるまで、彼は聖なるものであって、頭の髪の毛をのばしておかねばならない」。

●ナジル人とは、特別な願い事を主の御前にしている人、あるいは何かのために自分自身をもっぱら神のために聖別しているときに、男でも女でも頭にカミソリを当ててはいけない、つまり、散髪せずに髪の毛を伸ばしたままにしておきなさいという教えです。クリスチャンはこういう習慣はありませんが、律法に熱心なユダヤ人にはあったのです。

●「誓願」と訳されたギリシア語は「ユーケー」(εύχη)で、新約聖書では3回しか使われていません(使徒の働き18:18、21:23、そしてヤコブ書の5:15です)。

●使徒18章18節で、パウロがケンクレヤで髪を剃ったというのは、髪を剃るということで、自分の誓願を解いたのです。つまりパウロの第二次伝道旅行は、コリントで、あるいはケンクレヤで終わったことを意味しています。


2013.9.12


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