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エルサレム(2) パウロのあかし

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37. エルサレム(1) パウロのあかし

【聖書箇所】 22章1節~30節

ベレーシート

  • 22章はパウロが大勢の群衆の前で、弁明の機会が与えられて、自分のあかしをします。自分の素性とナザレのイエスと出会って回心したあかしをします。
  • 使徒の働きでは、3箇所においてパウロの回心の記事があります。最初は9章、次に今回の22章、そしてもう一つは26章で、共通している情報とその箇所にしかない情報が記されています。今回の22章で、この箇所にしか記されていない情報として、しかも重要な箇所は10節にあるパウロのことばです。それは回心したパウロが初めて祈ったことばです。今回はこのパウロの最初の祈りに注目してみたいと思います。

1. 回心後の最初のパウロの祈り

  • パウロは熱心なユダヤ教徒であり、律法にも精通していた青年です。当然の、定められた祈りを毎日ささげていたに違いありません。しかしその彼がキリストと出会って、最初のした祈りはきわめてシンプルなものでした。しかし、そのパウロの祈りはパウロが新しく生まれ変わった最初の祈りであり、きわめて重要な祈りだと言えます。それは、それまでの自分に完全に死んだことを意味すると同時に、新しく生まれ変わった者の祈りであることを意味します。

    画像の説明

    【新改訳改訂第3版】使 22章10 節
    私が、『主よ。私はどうしたらよいのでしょうか』と尋ねると、主は私に、『起きて、ダマスコに行きなさい。あなたがするように決められていることはみな、そこで告げられる』と言われました。

    【口語訳】
    わたしが『主よ、わたしは何をしたらよいでしょうか』と尋ねたところ、主は言われた、『起きあがってダマスコに行きなさい。そうすれば、あなたがするように決めてある事が、すべてそこで告げられるであろう』。

    【新共同訳】
    主よ、どうしたらよいでしょうか』と申しますと、主は、『立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる』と言われました。

    【岩波訳】
    私は言いました。『主よ、どうすればよいのでしょうか。』すると主は私に言われました。『立って、ダマスコへ行け。お前に行うように決められているすべてのことが、そこで告げられるであろう。』

  • これまで自分がしていることに堅い信念と確信を持って、しかも全力でやって来た者が、自分の過ちに気づかされた時、パウロのように簡単に立ち直ることはできません。建て直しには多くの時間を要するはずです。そう考えると、パウロが「主よ。わたしのすべきことは何ですか」と、その主導権を譲り、自分のなすべきオリエンテーションを主にゆだねて祈っているのはまさに奇蹟的なことです。
  • 回心以後のパウロの歩みにおいて、この祈りこそ、パウロの新しい生き方の原点だということを知らされます。短い祈りですが、きわめて重い祈りです。そんなパウロに対して、主は、まず彼に「起きて」「置き上って」「立って」「立ち上って」と呼びかけます。これは「アニステーミー」(ανιστημι)の命令形で復活用語です。パウロの生涯には何とも繰り返し、苦難と迫害の中においても、「起き上がって」行くパウロの姿を見ます。その背景には、主が彼に対して持っておられたご計画があること、そして偉大な召命があることを知らされたからです。
  • パウロは諸教会に宛てた手紙で、自分のことを「キリストのしもべ」と呼んでいますが、それはこの最初の祈りから始っていると言えます。このパウロの祈りを私たちも自分の祈りとする必要があるのではないかと思わされます。

2. むち打ちの拷問の危機にさらされたパウロ

  • パウロが自分の回心と召命のあかしを人々が聞いていた時、話の内容が、「異邦人に遣わす」という使命を主から受けたことを耳した時、人々は声を張り上げて、大変な騒動となってしまいました。ヘブル語の知らない千人隊長はおそらくパウロの話す内容は分からなかったと思われます。しかし、これほどの騒動を起こす人物を捕えて、その真相を聞き出さなければ、自分の責任が問われると思ったのか、パウロからそれを聞きだすために、むち打って取り調べるようにと部下に命じました。
  • ここで「むち打つ」という語彙について注目したいと思います。聖書には「むちで打つ」ことに関する語彙が四つほどあります。新改訳ではすべて「むち打たれ」と訳されていますが、その原語は異なっており、ニュアンスも実際は以下のように異なっています。

    (1) マスティゴー
    ●動詞「マスティゴー」(μαστιγόω) 新約7回。あるいは、「マスティゾー」(μαστίζω)新約1回。これらのことばは、上半身を裸にされ、手足を縛られた状態で、拷問的な道具でむち打たれることを意味します(マタイ23:34、マルコ10:34、ルカ18:33、ヨハネ19:1)。使徒の働き22章25節では、パウロはまさにこの種のむちを受けようとしていたのです。

    マスティクス.JPG

    ●イエスの十字架の前の「むち打ち」(「フラゲッロー」φραγελλόω)は恐るべき拷問で、頑丈な木製の取手に取り付けられた革紐の先に金属片や骨片で重みをつけた鞭でした。この鞭を受けた者は自白することなく死ぬか、あるいは死ななくても、一生かたわになるほどのものでした。

    ●ちなみに、名詞の「マスティクス」(μάστιξ)は、比喩的に神の愛による鞭、神から与えられる懲罰的訓練としての苦痛や病気などを意味しています(ヘブル12:6)。

    (2) デロー
    ●動詞「デロー」(δέρω)は「打ちたたく」という意味です。新約では15回。使徒の働きでは5:40、16:37、22:19を参照のこと。特に、5:40では、使徒たちがユダヤ当局からイエスの御名によって語ってはならないことの警告的、懲罰的見せしめとして,打ちたたかれています。

    ●もともとこの言葉は「皮膚」を意味する「デルマ」(δέρμα)から派生した語で、体の一部を打ちたたいて痛みを与えることを意味します。パウロは回心前にそうした苦しみを、イエスを信じる者たちに対して与える側にいましたが、回心後はその痛みを受ける者となりました。それがピリピでの出来事です(16:37)。

    (3) ラブディゾー
    ●動詞「ラブディゾー」(ραβδίζω)は、木でできた棒や皮の鞭で打ちたたくことを意味します。名詞の「ラブドス」は杖を意味します。イエスは弟子たちに旅行に出かけるときにはこの「ラブドス」1本を持って出かけるよう示唆しています。
    ●使徒パウロはシラスとともに、ピリピで着物をはがされて、何度も牢に入れられました。Ⅱコリント11章25節でパウロが「むち打たれたことが三度」と言っているのは、棒のむちでした。

    (4) プレーゲー
    ●「プレーゲー」(πρηγη)は名詞で、打撲、打ち傷を意味します。この語は使徒16:23, 33、およびⅡコリント11:23に使われています。


3. この世の社会的身分が自分を救う

  • 使徒パウロがイエスのような拷問的なむち打ちが留められたのは、自分がローマ市民権をもっていることを主張したからでした。パウロ自身はいつみ自分の社会的な地位や身分や特権を誇ることはありませんでしたが、生まれつき彼がローマ市民権をもっていたことが幸いしました。ローマ市民権はおそらく彼の両親が手に入れたものだと考えられます。
  • ピリピの町では、その権利を主張することなく、捕らえられ、牢獄に入れられました。つまり、ローマ市民をパウロが持っているならば、決して牢に入ることはなかった思われますが、そのことで看守が救われ、またピリピでの教会がルデヤと共に家族総出で始まったことを考えるなら、不思議な導きであったと思います。
  • 22章での拷問的なむち打ちを免れたのは、自分に与えられた使命があったためだと考えられます。いずれにしても、危機一髪でパウロは主に守られて、やがて、神のご計画(みこころ)であるローマでのあかしが可能となる道にそって導かれていくのです。それはまさに主の主権的導きと守りによるものです。


2013.9.19


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