****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

エルサレムでの教会会議

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22. エルサレムでの教会会議

【聖書箇所】 15章1節~29節

ベレーシート

  • 第一次伝道旅行がどのくらいの期間であったのか聖書は記していませんが、少なくとも二年はかかったと思われます。この旅行において、異邦人に対する神の摂理はさらに明らかとなりました。つまり、ペンテコステ(五旬節)に注がれた聖霊によって生まれた教会、それはこの例祭において神殿にささげられる象徴的な「二つのパン」の啓示がよりいっそう明らかにされることとなったのです。
  • アンテオケに帰ってきたパウロとバルナバは、人々を集めて、「神が彼らとともにいて行なわれたすべてのことと、神が異邦人に信仰の門を開いてくださったこととを報告しました。」(使徒14:27)
  • ところが、アンテオケにいる主にある兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ救われない」と教える者たちがやって来たのです。このことは重大な問題を引き起こしました。この問題が意味することは、「異邦人が救われるためには、割礼を受けてユダヤ教に改宗しなければならない」ということでした。神の真理をめぐっての激しい対立と論証が生じました。その問題を話し合い、解決するために、パウロとバルナバとその仲間のうちの幾人かがエルサレムに行くことになりました。そして、最初の教会会議がもたられたのです。

1. エルサレムでの教会会議

  • エルサレムにいた使徒たちと長老たちは彼らを迎え入れ、「この問題」を検討するために会議をもったのです。「この問題」とは「異邦人が救われるために割礼は不可欠なものか、否か」ということでした。

(1) ペテロの「立ち上がり」(アニステーミー)

  • 激しい論争があって後に、ルカはここで「立ち上がって」語ったペテロの意見を記しています(11節)。ここでの「立ち上がって」の語彙はこれまでもしばしば登場した復活用語の「アニステーミー」(ανιστημι)です。なぜペテロだけに「立ち上がって」ということばが使われているのでしょうか。思うに、ここでのニュアンスは、単なる動作としての「立ち上がり」だけでなく、より重要な意味合いとしての「立ち上がり」として、ルカはこの語彙を意識的に使っているように思います。つまり、神の力、神の知恵に支えられての確信的な「立ち上がり」とみなすことができるように思います。ここでのペテロの発言によって「全会衆は沈黙してしまった」(12節)という記述がそのことをよく表わしています。

(2) ペテロの「この問題」に対する見解

  • エルサレム会議は使徒ペテロが語ったことばによって解決をみることができた印象を与えます。続いて語ったバルナバとパウロの話も、ペテロが語った事柄をサポートするものでした。ところで、ペテロの語った話とはどういう内容のものでしようか。

    【新改訳改訂第3版】使徒15章7~11節

    7 兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。
    8 そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、
    9 私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。
    10 それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの父祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。
    11 私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」

  • ペテロが語ったことばの中で最も重要なことは、11節にある「主イエスの恵みによって救われた」という事実です。このことばが意味することは
    (1) 「主イエス」ということば
    「ナザレのイエス」ではなく、「主イエス」と表現されています。この表現はイエスが死からよみがえられ、御父の右に着座されたことを裏付けています。ペテロはその御座から遣われされた「御霊」が、今や、ユダヤ人にも異邦人にも何ら差別されることなく賦与されたあかしを報告しています。「主イエス」とは、すべての権能・権威を授けられた「王である神」その方なのです。

(2) 「恵みによる救い」
最高の賜物としての「聖霊」は、神からの一方的な無条件に恵みによるものです。それは福音(イエスの事実)を聞いて信じた者に例外なく与えられるのです。ユダヤ人も異邦人もこの「ひとつの御霊」によって神に近づくことができるのです。

  • 五旬節に神殿にささげられる「二つのパン」は種を入れて焼いたパンでした。それはユダヤ人と異邦人を象徴する「二つのパン」が、今やキリスト・イエスにあって、共に罪あるままで、共にあるがままに神の前に受け入れられ、救われることを表わしています。
  • 使徒ペテロの語ることばには、かつてヨッパで見た幻の経験のゆえに説得力をがあります。かつてはペテロ自身も自分の枠に入らないものを受け入れることができなかったのです。「きよくない物や汚れた物を食べることができない」と言うペテロに対して、主は三度、「ペテロよ。さあ、ほふって食べよ」と迫ったからです。そうした過ちから私たちも守られなければなりません。
  • ギリシャ神話の中に「プロクラスタスの寝台」という話があるそうです。プラクラスタスという盗賊が人間を捕えて来ては、鉄の寝台の上に寝かせ、その寝台よりも身体の短い者は引っ張って伸ばし、寝台よりはみ出してしまう大きい人間の場合には、出た分だけ切ってしまい、どうしても寝台と同じ長さにしなけば承知しなかったということです。プロクラスタスは私たち自身です。プロクラスタスがすべての人間を寝台と同じ長さに合わせなければ承知しなかったように、私たちも他の人々を自分の計りでさばいたり、自分の枠の中にはめ込もうとする誘惑があるのです。

2. 議長のヤコブの発言

  • 議長を務めていた長老のヤコブ(イエスの弟)は、使徒ペテロの発言を裏付ける聖書的根拠を与えました。それは「倒れたダビデの幕屋を建て直す」という神の約束です。ここでの「ダビデの幕屋」とは何でしょう。モーセの幕屋と決定的に異なる「ダビデの幕屋むの特徴は、神の臨在を表わす「至聖所」(契約の箱)がむき出しの状態で置かれたことです。モーセの幕屋の場合には大祭司のみがそこへ入ることができ、契約の箱の前に立つことができました。しかしダビデの幕屋においては契約の箱はだれもが近づくことができます。これはやがてキリストにあってどんな人々にその前に近づくことができることの啓示だったのです。
  • 神はその「倒れたダビデの幕屋を建て直す」と約束されましたが、今や、天の御座から遣わされた御霊によってそれが実現する道が備えられたのです。つまり、「わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになる」ということが実現したとヤコブは解釈したのです。
  • しかし、ヤコブは真理とは別の事柄の問題として以下のことを提言しました。

    【新改訳改訂第3版】使徒15章19~20節
    19 そこで、私の判断では、神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません。
    20 ただ、偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように書き送るべきだと思います。

  • このヤコブの提言は、異邦人がユダヤ人をつまずかせて、主の教会の一体化が損なわれないための上からの知恵です。「救い」の問題ではありません。とはいえ、長い間、ユダヤ的背景、律法の教育の下で育って来たユダヤ人にとって、上記に記した事柄を異邦人が避けなければ、共に歩み寄ることが出来ないことをヤコブは知っていたのです。したがって、ヤコブの提案は「上からの知恵」としての愛の配慮だったと言えます。
  • キリスト教の歴史を知るならば、ユダヤ人と異邦人が共に歩むことは決して容易ではなかったのです。人間のすべての分裂の問題、隔ての問題のルーツは「ユダヤ人と異邦人の間」にあるのです。この問題を解決することのできる方こそ真のメシア、真の救い主なのです。

2013.5.23


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