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エルサレムの心に語りかけよ

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40. 「エルサレムの心に語りかけよ」

【聖書箇所】 イザヤ書40章2節前半

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【読み】
ダブー アル ーヴ イェルーシャーライム  ヴェキウー エレーハー

【文法】
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【翻訳】

【新改訳改訂3】
「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。」
【口語訳】
「ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、」
【新共同訳】
「エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/」
【岩波訳】
「語りかけよ、エルサレムの心に、呼びかけよ。彼女に。」
【NKJV】
"Speak comfort to Jerusalem, and cry out to her,


アル レーヴ.PNG
  • 新共同訳と岩波訳は直訳で訳しています。しかし、新改訳と口語訳は「優しく語りかけよ」「ねんごろに語り」と訳しています。ヘブル語の前置詞「アル」עַלは「~の上に、~のために、~に」という意味ですが、動詞の「ダーヴァル」דָּבַר(しかも強意形のピエル態と結びつくとき)、そのニュアンスが尋常ではなくなります。「ダーヴァル」の後に「アル・レーヴ」と続く例を取り上げながら、この慣用句がどのように訳されているか見、そのニュアンスを味わってみたいと思います。

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  • 主がご自身の民の心の上に、その心に対して語りかけるニュアンスは、まさに「優しく、ねんごろに、心に触れるように」語る励ましなのだということがうなずけます。
  • ただ、心と訳された「レーヴ」(לֵב)は、日本語の「心」のように必ずしも感情や情緒を意味するものではありません。むしろ理解力を意味します。イザヤ書6章に「この民の心を肥え鈍らせ(かたくなにし)、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。」(10節)とあるように、ヘブル語の「心」(レーヴ)の働きは理解力や悟る力を意味しています。したがって「慰めよ」とは決してセンチメンタルな呼びかけではなく、悟りが開かれること、理解力が与えられることを意味するのです。ですから40章12節以降では、神がどのような方であるかを知らないのか、聞いていないのか、と「エルサレムの心」に問いかけているのです。
  • ちなみに、40章11節に「主は羊飼いのように・・・乳を飲ませる羊を優しく導く」(新改訳)とあります。口語訳、新共同訳、バルバロ訳も「優しく導く」と訳していますが、岩波訳、関根訳は「優しく」がありません。原語の「ナーハル」נָהַלの意味は、「導く、伴う、養う、支える」で、基本形では使われず、常にピエル態で使われています。詩篇23篇2節の「主は・・いこいの水のほとりに伴われます」の「伴われる」が「ナーハル」です。果たしてイザヤ40章11節の「優しく」という訳語はどこから来ているのでしょうか。2節の「~の心に語りかける」という慣用句とは異なり、11節では語義的な面からではなく、良い羊飼いにある「優しさのイメージ」によって訳されているように思えます。

【瞑想】

「エルサレムに優しく語りかけよ」ーの「優しく」とはどういう意味なのか。私たちの多くが「優しさ」に敏感であり、そうした言葉や行為を求めています。しかし、聖書のいう「優しさ」とはどういう意味かを考えると、なかなか言葉で説明するのが難しく感じます。

日本語で訳された「優しい」という言葉を原語を調べると戸惑ってしまいます。というのは、その原語がまちまちだからです。

詩篇45篇2節に「あなたのくちびるからは優しさが流れ出る」(新改訳)とあります。新共同訳は「優雅」と訳しています。この言葉の原語は「ヘーン」חֵןです。「(人の)好意を得るような優雅さ」という意味の名詞です。

ヨブ記15章11節の「あなたに優しく話しかけられたことば」の「優しく」の原語は「アト」אַטという副詞で、「穏やかに、ゆっくり」というニュアンスをもった「優しく」です。また同じヨブ記の41章3節の「優しいことば」(新改訳)の「優しい」の言語は形容詞の「ラフ」רַךְです。「柔らかな、少し弱気な」ニュアンスをもった優しさです。

さらに、
箴言27章9節の新共同訳には「友人の優しさは自分の考えにまさる」とあります。新改訳では「友の慰めはたましいを力づける」と訳されています。一方では「優しさ」と訳し、他方は「慰め」と訳しています。どちらも原語は「メテク」מֶתֶקで、本来「快いこと」を意味します。「甘い、快い、楽します」という意味の動詞「マートク」מָתֹקに由来しています。まさにスイートな、快いといったニュアンスを持つ感覚用語で、そこには多くの語彙が含まれています。

最後に、
「主はあわれみ深く、情け深い神、怒るにおそく、恵みとまことに富み、」(出エジプト34:6)ーこのフレーズには多くの形容詞が使われています。
①「あわれみ深い」ー「ラーフーム」רָחוּם
②「情け深い」-「ハンヌーン」חַנּוּן
③「(怒るに)遅い」ー「エレフ」אֶרֶךְ
④「恵み(ヘセド)とまこと(エメス)に富む」-「ラヴ」רַב
これらすべてを含めて、神の「優しさ」と言えるかもしれません。

日本語の「優しさ」という語彙は、ヘブル語では一語には絞ることができないニュアンスをもったことばのようです。したがって、日本語の「優しさ」のイメージでみことばを瞑想すると、真の意味するところからズレてしまうかもしれません。

今日、頻繁にやりとりされる携帯メールやツィッター、フェイスブックなどは、他者からの承認を渇望する欲求の表われであり、誰かがコメントしてくれることで、自分が承認されているという充足感を得ようとしています。自分が承認してもらいたから、他人をも承認する。そのために、お互いにソフトな言葉で慰め合ったり、浅くゆるく励まし合ったりすることでわずかな安堵感を得ようとします。つまりそこには「存在の承認互助会」のような関係が成立している、と齋藤孝氏は語っています。どうしたら相手に自分の存在を承認してもらえるか、そればかりを求め合う関係としての「承認欲求過剰社会」ーこうした傾向は今や世の中全体にあって、ゆるやかな励まし全盛の時代となっています。そこではすべてが「ソフトに」「優しく」の方向に流れていて、友だち関係も、基本的に励まし合い、癒し合いばかりで、いろいろなことを話しているようでも、互いに決して深い所には立ち入らない関係です。厳しいことや攻撃的なことを言う人、あるいは嫌な人はすぐに関係を切ることができますし、そんな関係性が前提となっている「励まし社会」です。このような「承認欲求過剰社会」の「なでるような関係」は、果たして幸せなのだろうかと問いかけながら、むしろそのような関係は不安を助長するだけだと、斉藤氏は警鐘を鳴らしています。

聖書のいう「優しさ」は、ソフトなことばによる「なでるような関係」ではありません。むしろ、神の民が神とのかかわりにおいて自らのアイデンティティを確立させていく上できわめて重要なものです。ですから、かかわりにおける厳しさも当然有ります。しかしその厳しさは愛から出ています。人からではなく、天地を造られた神がこの私をどのように見、そして承認してくださっているのか、そのことを知ることによって、私たちは自分のアイデンティティを確立することができるのです。

【付記】
楽譜「ナハムー ナハムー アンミー」


2013.3.26


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