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エルサレムの悲惨な姿

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1. エルサレムの悲惨な姿

【聖書箇所】1章1節~11節

ベレーシート

  • 1章は22節から成っていますが、ちょうど半分ずつ(1~11節、12~22節)、語っている人称が異なっています。それゆえ二回に分けて1章を瞑想したいと思います。
  • 「哀歌」には「嘆きの用語」があふれています。それゆえ、詩篇と共通するものがあります。詩篇の多くがバビロンの捕囚の経験を通過してまとめらてきているので、「哀歌」で使われている用語を深く学ぶことで、詩篇の世界をより深く理解することができるかもしれません。苦悩と悲嘆のどん底の経験の中でしか見ることのできない光へと導く何かが隠されているからです。詩篇を理解する上で、神の民が経験した「バビロン捕囚」という憂き目を理解しておくことはきわめて重要です。それは神の民が「嘆き」が「嘆き」で終わらず、そこから神を見出して「たたえ」へとよみがえるからです。

1. 「エーハー」という語彙

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  • 「ああ」「なにゆえ」「なんと」と訳される「エーハー」אֵיכָהという間投詞は、旧約で17回使われています。その意味合いとしては、たとえば、アラムの馬と戦車が町を包囲しているのを見たエリシャの召使が「ああ、ご主人さま。どうしたらようのでしょう」といった「驚きと困惑を示す」もの(列王記下6:15)や、「哀歌」のように「悲しみの叫び」を表わす意味合いがあります。ちなみに「哀歌」では4回使われています(1:1/2:1/4:1,2)。左近淑氏は「エーハー」を「ああ、何としたことか」と訳しています。「哀歌」の冒頭にあるこの「エーハー」は、「哀歌」全体にかかっていると言えます。

2. 「ひとり座っているこの町(エルサレム)」

  • 1節。新改訳では「ああ、人の群がっていたこの町は。ひとり寂しくすわっている」と訳されています。新共同訳は「なにゆえ、独りで座っているのか。人に溢れていたこの都が。」と訳し、関根訳は「ああ、かつては人が満ちみちていたこの都 今や人数も数えるばかりになった」と訳しています。それぞれニュアンスが異なっています。
  • 原文直訳では「ああ、座している、独り、その町が、多い、民の」とあります。特に、「ひとり(独り)」ということばは「バーダード」בָּדָדという名詞です。この「ひとり」が意味するのは、完全な孤立です。ひとりが好きだという人がいますが、ここでの「ひとり」とはそれまでかかわっていたものが完全に見捨てられ、切り離され、分離されることを意味しています。それゆえ、「慰める者がだれひとりして彼女(エルサレム)にはいない」という表現が第一章の中に五回も出てきます(1:2, 9, 16, 17, 21)。ただし新改訳では「だれも慰めてくれない」と訳されています。
  • 自分を支えてくれる者がだれひとりとしていないということを信じてしまったときに、人は絶望し、自殺をします。支え合ってしか生きられない存在が、その支えとなるものを喪失する時、それは「死」を意味するのです。単に、「ひとり寂しい」という状態ではなく、自分を支えてくれた夫の保護を失った「やもめ」の悲惨な姿です。かつてエルサレムは、神を王とする王妃でした。しかし今やそうした高貴な存在として認めてくれる法的な権利の支えを失い、完全な孤独の中に陥ったのです。
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  • ここの名詞の「バーダード」בָּדָדは、神によって見捨てられ、神に切り離されて孤立した「ひとり」を意味しますが、その真意は、詩篇4篇8節にあるように、「主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます」と告白させるためです。
    あなただけが」(「アッター(אַתָּה)・レヴァーダード(לְבָדָד)」という信仰的祝福を得るための父性的な懲罰です。つまり、「主よ。あなただけが・・」という信仰に立つために、あえて神は懲罰的な訓練を与えられるのです。
  • エレミヤが言うように、エルサレムの陥落、神殿の崩壊、そしてバヒロンの捕囚の経験はすべて「わざわいではなく、希望と将来を与えるもの」なのです。しかしこの神の目線で見ることができるまでには、多くの嘆きの時が必要なのです。
  • 哀歌の3章28節には「若いときに、くびきを負わされたなら、ひとり、黙ってすわっているがよい」とあります。ここでは、「ひとり」ということばと「黙って」ということばが結びついています。「黙って」と訳されたヘブル語動詞は「ダーマム」
    דָּמַםは、何も言わず黙するということではなく、神がどこまでも「トーヴ」טוֹבなお方として信頼し、神にのみ期待することを意味します。このことによって、神とのかかわりにおいて、多くの良い実りが結ばれるからです。その実りのあかしは、詩篇1篇や119篇を見ることで理解することができます。神のトーラーを愛するライフスタイルに至らせるプロセスとして、神はご自身の民を過酷なほどに「孤立」させたのです。
  • 日本は第二次世界大戦において無条件降伏して完全な敗北を経験しました。ユダの民のように、敗戦した日本人を米国は自国に移住させることもなく、また多くの米国民を日本に移住させることもありませんでした。たとえそうされても致し方なかったはずです。しかしそうはなりませんでした。幸いにも、戦勝国がキリスト教国であったために日本は救われたのです。とはいえ、果たして敗戦の経験から私たち日本人はいったい何を学んだのでしょうか。歴史から学ぶことが必要です。なぜなら、神は歴史を通してご自身を啓示される方だからです。

2012.12.14


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