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カイザリヤ(1) この世を象徴する総督ペリクス

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39. カイザリヤ(1) この世を象徴する総督ペリクス

【聖書箇所】 24章1節~27節

ベレーシート

  • パウロに対する殺害の陰謀を知らされた千人隊長クラオデオ・ルシヤは、急遽、護衛付でパウロをローマ総督のいるカイザリヤへと送りました。パウロがユダヤ人から訴えられているのは、ユダヤ人の律法に関することで、ローマの法律ではなんら死罪や投獄に当たる罪はないというのが千人隊長の判断でしたが、彼はこの件を最終的な権威を持つローマ総督にゆだねるために、パウロをペリクスのもとへ護送したのです。パウロがローマ市民であるということが、パウロを守っている形です。
  • ところで、結審をゆだねられた総督ペリクスがこの問題をどのように扱うかが使徒の働き24章が記すところです。この世の象徴とも言うべき総督ペリクスの姿が浮き彫りにされています。

1. まことに奇妙な告訴

  • パウロがカイザリヤへと護送されたことを知ったユダヤ当局は、大祭司アナニヤ(ユダヤの最高の宗教的権威者)と長老たち、および弁護士がわざわざカイザリヤへ赴いて、パウロを告訴しようとします。この告訴が実に奇妙なのは、訴える側のユダヤ当局が弁護士を連れて行っていることです。弁護士が必要なのはパウロの方ですが、パウロは弁護士なしで彼らの訴えに応戦しているのです。
  • パウロを訴えるために雇われた弁護士の名前をルカがわざわざ記しているのも不思議です。この「テルトロという弁護士」がなぜ雇われたかといえば、彼が人一倍口達者だったからだと考えられます。それが確かな証拠を持たないユダヤ当局がパウロを訴えるための唯一の手段でした。何とかしてパウロを罪に定め、亡き者にしたいという下心が丸見えです。

2. 総督ペリクスの「意図的保留」という結審

  • こうしして総督ペリクスの前で裁判が行われますが、弁護士テルトロの告訴の理由としてはあまりにおそまつです。自分たちが訴えている事柄について、すべて総督自身が調べるならば理解できるという内容でした。それに対してパウロの弁明は事実を淡々と語り、理になかった内容でした。
  • この裁判において、総督ペリクスは結審しようとはせず、裁判を意図的保留(延期)という形で結審したのでした。そこには総督の自己保身的な判断が働いたからです。つまりこの問題を法的に結審して、パウロを無罪とすればユダヤ人たちから嫌われ、パウロを有罪とすればローマ市民に対する正しい裁判をなさなかったという非難を後で問われることになるかもしれないというジレンマの中に置かれたからです。総督ペリクスのこの裁判に対する結審は、自己保身のために、公には延期、つまり結審しないというのが彼の結論だったのです。
  • 総督ペリクスにとってこの裁判は、まことに不都合な裁判だったのです。このことはパウロの目にもはっきりしていたために、後に、パウロが彼の前で「正義と節制とやがて来る審判」を論じたとき、ペリクスは「恐れを感じて」います。

3. パウロが拘束された二年間

  • 意図的な結審の延期のために、パウロは二年間拘束されてしまいます。新改訳では「監禁する」と訳されていますが、ここではある程度の自由が保障された拘束状態を意味します。パウロの友人たちの出入りが許され、パウロを世話ができたようです。パウロにとって、この不条理とも言える二年間という期間はどんな意味を持ったのでしょうか。
  • 「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。・・神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道者の書3:1~11)というみことばがあるように、パウロにとってのこの二年t間は、きわめて有意義な時であったろうと思われます。これまでは、さまざまな所を移動しながら、忙しく神の福音を伝えてきたパウロ。その彼が、ここではローマの監視下ではあっても、安心して過ごすことが出来ています。「動」から「静」へ。この静まりの中で、パウロはゆっくりと瞑想する時がはからずも与えられたと言えます。主がパウロの傍らに立って、「勇気を出しなさい。あなたはエルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない」と言われたことの下準備の期間であったかもしれません。この時期にはパウロは一つも各地の教会への手紙は書いていませんが、それなりに思索を深める機会となったはずです。

4. パウロの生き方とペリクスの生き方

  • パウロが弁明する言葉の中に、彼がいつもどのような意識をもって生きていたのかを示すことばがあります。それは「いつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしている」というパウロの生き方」です。この生き方はやがて神の前に立つという信仰がなければ生まれてきません。特に、復活を信じないサドカイ派(大祭司の系譜の者たち)は、神の前に立つという意識が欠落しています。その意味ではペリクスと何ら変わりません。
  • 使徒24章22節以降では、ルカはペリクスの言動に注意を向けさせるような書き方をしています。原文での主語と主動詞をつなぐことによって、ペリクスの自己保身的な生き方が如実に見えてきます。


2013.10.3


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