カイザリヤ(2) カイザルに上訴したパウロ
「使徒の働き」を味わうの目次
40. カイザリヤ(2) カイザルに上訴したパウロ
【聖書箇所】 25章1節~27節
ベレーシート
- 新しく赴任したユダヤの総督フェストの下で、ユダヤ当局が再度パウロに対する告発をしたため、そのための法廷がカイザリヤで開かれました。その流れの中でパウロが、「私はカイザルに上訴します」(使徒25:11)と言ったことが特に目を引きます。
- 時代状況を把握するために、以下の図を参照してください。
- 使徒パウロがカイザリヤに入獄されていた時期に、ユダヤの総督はペリクスからフェストに変わり(実際のところは、ペリクスが罷免されたようです)、その時のローマ皇帝はネロであったことが分かります。
1. パウロがカイザルに上訴したその背景
(1) 執拗なユダヤ当局のパウロに対する告発
- ユダヤ当局のパウロに対する告発の目的は、彼を死刑にすることでした。しかし当時のユダヤはローマの属国であったため、人を死刑にする場合には、どうしてもローマの法に従い、ローマの法廷で裁かれなければなりませんでした。そのため、ユダヤ当局は目的を果たすため、いろいろと多くの重い罪状を申し立てますが、パウロの死刑に値するような決定的な証拠を上げる事ができませんでした。そのためにユダヤの総督ペリクスも、また後任のフェストも同様に、裁判の判決(結審)を延期するという形を取らざるを得ませんでした。
- 死罪に当たるような罪がないのだとしたら、即刻、無罪放免となるあるはずですが、そうもいかない政治的な事情があったのです。それはペリクスにしても、フェストにしても、自分がこの職を全うするためには、ユダヤ当局とうまく折り合っていかなければならなかったからです。
- ぺリクスとフェストの二人に共通するものがあります。新約聖書では2回しか使われていない言葉ですが、いずれも「使徒の働き」において、それぞれの総督に使われてます。
●〔ペリクス〕・・「・ぺリクスはユダヤ人に恩を売ろうとして、パウロを牢につないだままにしておいた。」(24:27)
●〔フェスト〕・・「・・ユダヤ人の歓心を買おうとしたフェストは、パウロを向かって、『あなたはエルサレムに上り、この事件について、私の前で裁判を受ける事を願うか。』と尋ねた。」(25:9)
- 黄色い部分のことばは「恵み、好意」を意味する「カリス」(χάρις)と「授ける、与える」を意味する「カタティセーミ」(κατατίθημι)を結び合わせて、意図的に、「(相手に)恩を売る」「(相手の)歓心を買う」「(相手に対して)機嫌を取る」という意味で使われています。このように、ユダヤ人たちのご機嫌を取っていないとユダヤでの支配が難しかったことを伺わせます。そうした状況の中でパウロの身柄は拘束されているのです。しかし、ある面からは見れば、パウロの身柄はローマの権威の下で保護されているとも言えるのです。
- そうした関わりにおいて、総督フェストがユダヤ側に立った形で、ユダヤ当局の陣営であるエルサレムで再度、裁判を行うことを願うかどうかをパウロに尋ねたとき、パウロはすかさず「カイザルに上訴する」というローマ市民にのみ与えられている特権を用いたのでした。パウロにとってエルサレムへ行くということは、それだけでも身の危険がありました(事実、パウロ暗殺が計画されていました)。フェストにとっては単に「ユダヤ人の歓心を買うため」でしかありませんでした。
- 「カイザルへの上訴」は、パウロが初めからの意図していたことではなく、あくまでも事態の推移の中で判断せざるを得なかった選択でした。この選択ができたのも、パウロがローマ市民権をもっていたからでした。ユダヤ当局を手こずらせていた主な要因は、ローマの市民権を持つパウロには公正な裁判を受ける資格をもっていたからです。ユダヤ当局をして、彼らが自分たちの思惑どおりに事が運ばなかった背景には、こうした神の配剤があったのです。
2. カイザルへの上訴の背後に隠れているもの
- パウロが「カイザルに上訴」してくれたことで、フェストは安堵したに違いありません。このやっかいな問題を自分が采配せずにすむからです。ところが、しばらくして、それも心配の種となってきました。上訴するにもその理由がないために、訴状が書けないというジレンマがあったからです。しかし折しも、ちょうどそこへアグリッパ王とその妻ベルニケが、フェストに敬意を表するためにカイザリヤに来て滞在していました。フェストは彼らにパウロの一件を持ち出すと、アグリッパが非常な関心を持ち、ぜひパウロの話を聞きたいということになり、翌日、パウロの弁明を聞くことになったのです。フェストとしては、カイザルへの上訴に当たって、何らかの訴えの個条を書き送る情報が、彼らから得られるかもしれないという人間的な思惑がありました。
- ところで、「カイザル」(正しくは、「カイサル」Καίσαρ)は「皇帝」の別称です。「カイサル」は、ユリアス・カイザル・シーザーとその養子であった後継者のオクタヴィアヌスの姓でしたが、それがそのまま「皇帝」の称号となったのです。福音書で使われている「カイザル」はすべてオクタヴィアヌスの後継者ティベリウスのことです。
- いずれにしても、「皇帝」、すなわち「カイザル」はローマ帝国の最高の権威者です。しかし次第に、この「皇帝」を意味するギリシア語は冠詞付の「ホ・セバストス」(ό σεβαστος)となっていきます。
- 使徒の働き25章の当時のローマの皇帝(「ホ・セバストス」ό σεβαστος)は、アウグストスから第五代目のネロでした。このネロに対してフェストは、いみじくも「わが君」と言っています(25:26)。「君」とは「キュリオス」(κυριος)で、いわば神を意味する称号です。キリスト者はみな、イエスを「主」(キュリオス)と呼んでいたのです。
- 初代のローマ皇帝であったオクタヴィアヌスと二代目のティベリウスは、自分たちが「キュリオス」と呼ばれることを常に拒んだようです。しかし、三代目のカリグラからずっと(その間、一人の皇帝を除いては)、みなこの「キュリオス」という称号で呼ばれることを許したようです。パウロの時代はすでにネロ皇帝でしたから、自分が「キュリオス」と呼ばれることを当然のように求めるネロのいるローマでイエスが主であることをあかしすることは、やがてローマのクリスチャンがどのような立場に立たせられるか容易に察せられます。実際、A.D.60年の「ローマの大火」によって、イエスを「主」(キュリオス)と告白するキリスト者に対する迫害が火ぶたを切ります。そのようなローマに、予め神によってパウロが遣わされて、そこでも主イエス・キリストをあかしすることは、深い神の摂理が隠されていたのです。
- 使徒の働き25章、26章はなにも事が進んでいないように見えます。しかし、神のご計画は見えないところで着々と進んでいるのです。そのことを知ることは私たちにとっても励ましです。一見、目には状況が何も変わっていないように見えたとしても、あるいは、進むべき道が何もないように思える時でも、新しい明日に向かって、着実に、主はそのみこころを進めておられるのです。
2013.10.10
a:8972 t:6 y:7