****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

カナンでの戦いを知らない新しい世代

士師記の目次

2. カナンでの戦いを知らない新しい世代

【聖書箇所】 2章1節~3章6節

はじめに

  • 士師記の1章1節~3章6節までは構造的には士師記の序文的部分です。3章7節からは各部族において神に立てられた士師たちの物語が記されています。

1. 変化した事柄と変化しない事柄

  • イスラエルの民が約束の地に侵入し、占領して、そこを12の部族の相続地として割り当てた後、変化した事柄と変化しない事柄があります。変化した事柄は外的な変化であり、その第一は統治形態の変化です。イスラエルにおいての統治者は神である主ですが、その代理としてモーセやヨシュアが民を実際に率いる指導者として立てられました。しかしカナンの地においては、12の各部族に分かれてからはヨシュアのような全体を統括する指導者は立てられませんでした。各部族がそれぞれが主なる神に仕え、神との契約を守ることによって、神からの嗣業としての地が保証されることが求められました。
  • 第二の変化としては生活様式の変化です。カナン以前の遊牧生活から、農耕による定住生活の変化は最も大きな変化と言えます。
  • 変わらない事柄とは内的なものです。つまり神と民とのかかわりです。神の選びの民であるイスラエルに対し、神を信頼するようにという神の要求を満たすことこそ、神の民がこの世において神を示す唯一の存在目的です。
  • 変わらない事柄の内的なもうひとつの面は、人間そのものが持っている本性です。その本性は人間が「ネフェシュ」として造られた存在であることに由来します。常に渇きを持つ存在として造られた「ネフェシュ」という存在であるがゆえに、その渇きを満たそうとする衝動をいつもかかえています。しかもその渇きは自らの生存と防衛を保障してくれる存在に対して信頼しようとする(依存しようする)傾向を持っています。そのため、その保障を満たしてくれるものを神として拝し、仕えようとするのです。これが「ネフェシュ」が抱え持っている変わることのない本性であり、「弱さ」なのです。まことの神によってすべての渇きが満たされることを証しする存在としてイスラエルの民は神によって選ばれたのでした。
  • 不変であるべき神と神の民の事柄が、変化する事柄の中でいかに容易に翻弄されていくか、それに対して神はいかに訓練していこうとされるか、そのからみ合いの現実を私たちに教えているのが「士師記」なのです。

2. 戦いを知らない世代のための神の教育的訓練

岩波訳
3:1 イスラエルを試し、カナン人との戦いを全く知らないすべての者たちを試みにあわせるためにヤハウェが残した一連の国民は、以下の通りである。
3:2 ただそれは、以前は何も知らなかったイスラエルの子らの続く世代が、戦いについて学ぶべきことを知るためである。

  • ここには、戦いを知らない新しい世代の神の民に対して、神を信頼することを試みるために、またそれを教えるために、神はあえてカナンの地から完全に敵を追い払わず、そこに残したと記されています。士師記1章では敵を追い払うという課題に対して、その課題を十分に果たせなかったことが記されていますが、3章では神の民の教育的観点からあえて敵(カナンの住民)を残したと記述されています。
  • 3章1節~6節において、神の民の教育的配慮における二つの語彙(動詞)を用いています。一つは「試す」と訳された「ナーサー」נָסָה 、もうひとつは「教える」と訳される「ラーマド」לָמַדです。重要なことはこの二つの動詞が強意形のピエル態で使われているということです(いずれも不定詞です)。つまり神のなされる目的が明確だということです。

(1) 「ナーサー」נָסָה

  • 旧約では36回。最初に使われているのは創世記22章1節で「神はアブラハムを試練に会わせられた」とあります。アブラハムも自分がどの程度に神を信頼しているのか、テストがなければ分からなかったはずですが、このテストでアブラハムの神に対する信頼度は合格点に達していたことが証明されました。エジプトから出たイスラエルの民は荒野で水やパンのことで神から試みられました。たとえば、マナは一日に必要な分だけしか与えられましセんでした。それは民が神を信頼するかどうか神が試みたからです。

(2) 「ラーマド」לָמַד

  • 旧約では86回。士師記では3:2のみ。「ラーマド」は「教える」とも「学ぶ」とも訳されます。詩篇119篇では13回使われていますがそのうちの2回は「学ぶ」と訳されます。7節「あなたの義を学ぶとき」、71節の「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。わたしはそれであなたのおきてを学びました。」を参照。
  • 「教えられたこと」を「自分のものにする」とき、それが「学ぶ」という意味になります。バビロンの捕囚となった民たち、その境遇の中で神の教え(トーラー)のすばらしさを知り、それを身につけるライフスタイルを形づくりました。頭ではなく、経験として「学」んだのです。私たちもこうした「学び」が必要なのです。そして、学んだ者こそはじめて教える者となれるのです。
  • カナンの地において戦いを知らない新しい世代のために、神はあえてカナンの住民を滅ぼさず、残して置かれました。このことは、現代の主を信じる者にとっても同じくあります。神を信じたらなんの問題もなくなるということはないのです。次から次へと神を信頼するためのテストとなる問題が起こってきます。それは神が私たちのうちに神を信頼することを教えるためです。そしてその教えが身に着いたとき、はじめて「学んだ」ということになるのです。
  • いつの時代においても、人間の本性は変わりません。常に、同じ問題を抱えているのです。それゆえ、神は新しい世代になったても神を信頼する訓練として試練を与え、学ばせるのです。このことは神の愛による教育的配慮であり、神の子(民)としての成長には必要不可欠なのです。

2012.4.13


a:3073 t:2 y:2

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional