****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

カナン人の女の信仰

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66. カナン人の女の信仰

【聖書箇所】マタイの福音書15章21~28節

ベレーシート

●マタイの福音書15章21節~39節には、異邦人に対するイェシュアの三つの出来事が記されています。(1)カナン人の女の信仰(15:21~28)、(2)異邦人のいやし(15:29~31)、(3)異邦人に対するパンの給食(15:32~39) ―この中から、今回は、「カナン人の女の信仰」(21~28節)について取り上げます。

【新改訳2017】マタイの福音書15章21~28節
21 イエスはそこを去ってツロとシドンの地方に退かれた。
22 すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。
23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。弟子たちはみもとに来て、イエスに願った。「あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます。」
24 イエスは答えられた。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」
25 しかし彼女は来て、イエスの前にひれ伏して言った。「主よ、私をお助けください。」
26 すると、イエスは答えられた。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」
27 しかし、彼女は言った。「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はくいただきます。」
28 そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。


1. 新たな展開の予感

●マタイ15章21節に「イエスはそこを去ってツロとシドンの地方に退かれた」とあります。「そこ」とはイェシュアの活動拠点であったカペナウムの町です。その場所を去って、「ツロ(=ティルス)とシドンの地方に退かれた」のです。21節の「去って」と訳された「エクセルコマイ」(ἐξέρχομαι)は「出て行く」(「ヤーツァー」יָצָא)という意味で、イェシュアの働きにおいて神のご計画の新たな展開が待ち受けていることを想起させます。「退かれた」(第三版では「立ちのかれた」)という訳の原語「アナコーレオー」(ἀναχωρεω) ですが、マタイ4章12節の「イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた」でも使われています。「退かれた」という訳が適当であるかは疑問です。むしろ、内容的には「エクセルコマイ」(ἐξέρχομαι)と同様、「出て行かれた」の意味だからです。なぜならイェシュアがメシアとして本格的な活動を開始されたことを記しているからです。

【新改訳2017】マタイの福音書4章12~16節
12 イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた。
13 そしてナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある、湖のほとりの町カペナウムに来て住まわれた。
14 これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。
15 「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ
16 闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」

●これはイザヤ書9章1~2節の引用ですが、この預言の中にすでに異邦人に対する救いの恵みが語られています。イザヤ書には他にも異邦人の救いを示す箇所があります(49:6、56:6~7)。「ゼブルンの地」「ナフタリの地」「海沿いの(アシェルの)道」「ヨルダンの川向こう」(=ガリラヤ湖の東側)―これらはみなガリラヤ地方です。なぜそこが「異邦人のガリラヤ」と言われるのかといえば、この地域はアッシリアが侵入して来た時に、真っ先に滅んだ地域です。そのガリラヤから神はイスラエルの栄光を回復しようとしてくださるというのがこの預言です。イェシュアの時代、この地域には多くの異邦人が住んでいたため、ユダヤ人から軽蔑されていました。しかし神は恵みと真実に満ちた方であるゆえに、不信仰なイスラエルを滅ぼし尽くさず、恵みをもって栄光を回復してくださるために、イェシュアがそこから活動を開始することが預言されていたのです。これは神のご計画です。

●「闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る」は、同義的パラレリズムです。本来、「闇の中に住んでいた民」の行き着くところは「死」です。しかし、死に定められたガリラヤの上に「光が昇り」、そこに住む人々は「大きな光を見る」とあります。この「光」は「救い」と同義であり、イェシュアによってもたらされます。まさに創世記1章3節の「光」(「オール」אוֹר)が照らされたことで、ガリラヤに「夕があり、朝があった」(創1:3)が成り立つのです。これこそ神の救いの不変のパターンです。その現われこそが今回の異邦人の「カナン人の女」(15:21~28)の出来事なのです。

●ただ、マタイの福音書は異邦人の救いの重要性を示しつつも、それをユダヤ領域内に設定しているところに特徴があります。イェシュアが言われた「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません」という発言がそうです。このイェシュアのことばは、ユダヤ人向けに書かれたマタイの福音書だけが記しているものです。今回のテキストでは、「イエスはそこを去ってツロとシドンの地方に退かれた」とありますが、ツロもシドンもガリラヤの地域を越えた地中海沿岸の町です。シドンはツロ(=ティルス)よりもさらに北方の港町です。ですから、イェシュアがその町に訪れたとすれば、そこはユダヤの領域からはるかに超えた異邦人の地域です。しかし、テキストの「ツロとシドンの地方に」は、「ツロとシドンの方向へ」とも解釈できます。しかも、「すると見よ(=「ヴェ・ヒンネー」וְהִנֵּהも新たな展開を予想させます)。その地方のカナン人の女が出て来て」イェシュアに懇願していることから、話の舞台は依然としてユダヤ領地内に設定されていると言えます。つまり、マタイの福音書では、ユダヤ領内にとどまりながら、イェシュアは宣教やいやしの活動をし、同時に異邦人にも語りかけているということです。福音がユダヤの領域から超えて行くのは、イェシュアの復活後のことで、それは使徒パウロにゆだねられることになります。

2. 「カナン人の女の信仰」と「百人隊長の信仰」の共通点と相違点

●「カナン人の女」の話と似た話がマタイの福音書にあります。それはマタイ8章5~13節にある「カペナウムの百人隊長」の話です。両者の共通点を列挙しつつ、異なる点についても考えてみたいと思います。

【新改訳2017】マタイの福音書8章5~13節
5 イエスがカペナウムに入られると、一人の百人隊長がみもとに来て懇願し、
6 「主よ、私のしもべが中風のために家で寝込んでいます。ひどく苦しんでいます」と言った。
7 イエスは彼に「行って彼を治そう」と言われた。
8 しかし、百人隊長は答えた。「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。
9 と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」
10 イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。」
13 それからイエスは百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどそのとき、そのしもべは癒やされた。

【新改訳2017】マタイの福音書15章21~25節
21 イエスはそこを去ってツロとシドンの地方に退かれた。
22 すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。
23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。弟子たちはみもとに来て、イエスに願った。「あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます。」
24 イエスは答えられた。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」
25 しかし彼女は来て、イエスの前にひれ伏して言った。「主よ、私をお助けください。」
26 すると、イエスは答えられた。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」
27 しかし、彼女は言った。「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」
28 そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。

共通点
①いずれも異邦人。
②自分の親しい者のために。百人隊長の場合は自分のしもべ。カナン人の女の場合は自分の娘。
③いずれも、イェシュアを「主」と呼んでいる。
④いやしを懇願している。
⑤懇願者は自分がユダヤ的特権にないことを自覚している。
⑥イェシュアは懇願者の信仰を称賛し、信じたとおり(願うとおり)になるようにと言っている。
⑦その時点で病人は癒されている。

相違点
①懇願に対して・・百人隊長の場合はすんなり受け入れられたのに対し、カナン人の女は拒否されるがあきらめずに懇願し続けている。
②信仰の内容・・百人隊長の場合は「ただ、おことばを下さい。」と言ったのに対し、カナン人の女の場合は、イェシュアの「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです」のことばを受けて、「小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」と答えている。

●百人隊長とカナン人の女の共通点の中でも最も重要な点は、異邦人である彼らの信仰が称賛されたことです。特に、百人隊長の「ただ、おことばを下さい」に表された「みことばの権威に対する信仰」は、(省略した11~12節に書かれているのですが)、「多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着くとき、御国の子らは外の暗闇に放り出されて、そこで泣いて歯ぎしりする」と言われるほどの信仰だということです。ここで言わんとしていることは、ユダヤ人がイェシュアを拒絶したために天の御国から排除されるというのではなく、イェシュアのみことばに対する信仰こそが天の御国に入れるかどうかを分ける鍵になっていることを教えようとしています。生まれながらにしてイスラエルの民だからという民族的な特権に安住することは、もはや許されないことをイェシュアは警告しているのです。

【新改訳2017】イザヤ書66章2節
──【主】のことば──
わたしが目を留める者、それは、貧しい者、霊の砕かれた者、わたしのことばにおののく者だ。


3. カナン人の女の信仰

●ところで、カナン人の女の信仰は百人隊長の信仰とは少々異なる視点を持っています。イェシュアは彼女の信仰の何を称賛されたのでしょうか。もう一度、イェシュアと彼女のやり取りを見てみましょう。

●22節に、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って、叫び続けたとあります。「ダビデの子よ。(私を)あわれんでください。」と言ってイェシュアに懇願し、叫んだのは、マタイでは盲人だけです(9:27,20:30)。異邦人であるカナン人の女がイェシュアを「ダビデの子よ」と叫んだことが、果たして信仰をもってのことなのかどうか、そのことをイェシュアは試すために「彼女に一言もお答えにならなかった」のだと思われます。このイェシュアの沈黙は一見冷たく感じられますが、実は、イェシュアの戦略なのです。

●百人隊長の場合の「ただ、おことばを下さい」という言葉には、それなりの含みがあることを彼自身が述べています。つまり、「と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」という理由が含められていました。しかしカナン人の女の場合はまだその信仰が見えません。弟子たちも彼女が執拗に叫んでいるようにしか見えませんでした。ですから、イェシュアのみもとに来て、「あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます。」と言っています。「叫んでいます」と訳されたことばは「クラゾー」(κράζω)で、実は弟子たちもイェシュアが湖の上を歩いて来るのを見て、恐ろしさのあまり、叫び声を上げたのもこの「クラゾー」です(マタイ14:26)。また、ペテロが舟から出て水の上を歩いてイェシュアの方に歩いて行ったとき、風を見てこわくなり、沈みかけた時に叫び出したときも同じ語彙です。人間、必死の時はいつも同じです。カナン人の女も必死だったのです。

●しかし、イェシュアは彼女の必死の叫びにもかかわらず、それに一切答えませんでしたが、ここで沈黙していた理由を彼女に告げます。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません」(24節)。このイェシュアの答えを聞いてどのように思われるでしょうか。ある人は違和感を覚えるかもしれません。特に、「イェシュアは私たちのために来られたのでは」と思っている方はそうです。あたかもイェシュアが宇宙人かのように、すべての民族を越えている存在と思っている人がありますが、イェシュアはれっきとしたユダヤ人です。ユダヤ人としてこの世に来られ、イスラエルの物語(預言や約束)を完結・成就するために来られた(遣わされた)方なのです。

●ここでの「イスラエルの家」とは「神との契約」を強調したユダヤ人に対する言葉です。「~以外のところには遣わされていません」とは、イェシュアのすべての行動は自分の意思ではなく、あくまでも派遣した御父のみこころに基づいているのです。イスラエルを本来の「契約の民」として立ち戻らせる使命がイェシュアにはあったのです。イスラエルの民を「失われた羊」にたとえているのは、エゼキエル34章4~6節を背景にした表現で、このことばによってイェシュアはご自分を羊の群れを導く使命を持つ「羊飼い」になぞらえているのです。真の牧者であるイェシュアは、弟子たち十二人を宣教に遣わす際にこう命じています。「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはいけません。むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい」(マタイ10:5~6)。これも同じ使命に立って語っている表現です。

●これらのことばは、イェシュアの使命とその働きは本来的に「イスラエルに対するもの」だということを表しています。このことを、異邦人である私たち(あるいは、キリスト教会)は正しく理解しなければなりません。さらに、イェシュアはこの女に対して、ダメ押しするように、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです」とも言われました。ここの「子どもたち」とはもちろんユダヤ人のことです。「パン」はここでは神の救いの祝福を象徴しています。そして「子犬」とは異邦人を指しています。つまり、イェシュアが与える神の救いの祝福は、「子犬」ではなく、あくまでもまず「子どもたち」に用意されたものであるということです。これは神の救いのご計画におけるイスラエルの優位性を強調しているのです。このことも、私たち異邦人は正しく理解しなければならないのです。なぜなら、キリスト教会の歴史はこのことを正しく理解しなかったために、ローマ皇帝コンスタンティヌス帝によって、すべてのユダヤ的ルーツを断ち切るという過ちを犯しました。キリスト教がローマの国教として認定されたのですが、このことによって神のご計画が見えなくなってしまったのも事実なのです。

●話を戻します。イェシュアの語る「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです」ということばに、再度、注目したいと思います。ここでイェシュアは、通常ユダヤ人が異邦人に対して使う「」という言葉ではなく、「小犬」という別の語彙を使っていることです。これはどういうことでしょうか。「犬」は「キュオーン」(κύων)で、「聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります。」(マタイ7:6)とあるとおりです。「犬」も「豚」も異邦人を表す比喩で使われています。ところが、「小犬」は「キュナリオン」(κυνάριον)で、犬は犬でもペット犬を意味します。つまり家で飼われる小犬です。

●ところが、カナン人の女はこのことばに対してどう答えたでしょうか。なんと、「主よ、そのとおりです。」と答えたのです。そして、イェシュアの「小犬」という言葉を逆手に取って、「ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」と付け加えました。これはどういう意味でしょうか。「食卓」ということばには「主人の」ということばが付いています。ここでの「主人」とは、ユダヤ人のことです。このカナン人の女はユダヤ人を「主人」と言い直しているのです。異邦人であるカナン人の女の信仰は、神によって特別に選ばれたユダヤ人を、自分の「主人」として、自分はその「小犬」というペット的存在でしかないということを認めつつも、「小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」と言ったのです。異邦人の救いの祝福はユダヤ人を通して与えられるという神の定めを、このカナン人の女が理解したからです。これは、神のご計画を正しく理解したことを意味しているゆえに、イェシュアはこの女の信仰を称賛し、絶賛したのです。

●「小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」というこのことばこそ、イェシュアをして「女の方、あなたの信仰は立派です」と言わせたのです。「立派です」とは「偉大です」という意味です。その信仰によって彼女の娘はいやされたのです。娘の信仰ではなく、母の偉大な信仰によって娘が即座に癒やされています。信仰による救い(=いやし)とはかくなるものなのかということを思わせられるのです。

●マタイの福音書において信仰が称賛されているのは、百人隊長とこのカナン人の女の信仰以外にはありません。しかも、いずれも異邦人であることがとても興味深いことです。特に、カナン人の女の信仰は今日のキリスト教会にとってきわめて重要です。なぜなら、彼女の信仰は福音におけるユダヤ性を回復させることになるからです。

【新改訳2017】創世記12章1~3節
1 【主】はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、
わたしが示す地へ行きなさい。
2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。
あなたは祝福となりなさい。
3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」

●このみことばは、アブラハムから始まる子孫であるイスラエルによって、地のすべての部族(国民)が祝福されることが記されています。異邦人はこのことを悟る必要があるのです。イスラエルは教会にとって主人的存在なのです。ところがイェシュアは、御国の祝福がイスラエルよりも異邦人の教会が先立つことになることを、たとえを通して預言的に語っています。たとえば、マタイの福音書20章の有名な「ぶどう園の労働者を雇う主人のたとえ」がそうです。このたとえ話の前後に注目してください。マタイ19章30節には「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります」とあって、マタイの福音書20章1~15節「ぶどう園の労働者を雇う主人のたとえ」が記され、その最後の部分であるマタイ20章16節に「このように、後の者が先になり、先の者が後になります」となっています。つまり、20章のたとえは、上記の言葉に挟まれるようにして置かれているのです。ここで、「先にいる者、先の者」とはユダヤ人(イスラエルの民)のことで、「後にいる者、後の者」とは異邦人の教会のことです。なぜそのようなことになるのかと言えば、ユダヤ人がメシアであるイェシュアを拒むことになるからです。しかしそこにも神のご計画が隠されています。使徒パウロは次のように述べています。

【新改訳2017】ローマ人への手紙11章11節
それでは尋ねますが、彼ら(ユダヤ人)がつまずいたのは倒れるためでしょうか。決してそんなことはありません。かえって、彼らの背きによって、救いが異邦人に及び、イスラエルにねたみを起こさせました。

●使徒パウロはこのことを奥義として記しています。

【新改訳2017】ローマ人への手紙11章25~32節
25 兄弟たち。あなたがたが自分を知恵のある者と考えないようにするために、この奥義を知らずにいてほしくはありません。イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、
26 こうして、イスラエルはみな救われるのです。「救い出す者がシオンから現れ、ヤコブから不敬虔を除き去る。
27 これこそ、彼らと結ぶわたしの契約、すなわち、わたしが彼らの罪を取り除く時である」と書いてあるとおりです。
28 彼らは、福音に関して言えば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びに関して言えば、父祖たちのゆえに、神に愛されている者です。
29 神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。
30 あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けています。
31 それと同じように、彼らも今は、あなたがたの受けたあわれみのゆえに不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今あわれみを受けるためです。
32 神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです。


ベアハリート

●今回の「カナン人の女の信仰」を通して、異邦人がイスラエルを自分の「主人」と位置付けると同時に、神の救いのご計画におけるイスラエルの優位性を正しく理解することの重要性を学びました。それが聖書の言わんとする「信仰」なのだという理解です。キリスト教会とは本来はユダヤ的なものなのです。それを理解しながら、教会にユダヤ性を回復することが今日求められているのです。ユダヤ性を回復するとはどういうことかについては、改めて学ぶ必要があります。しかし今回は、その重要性について、頭の片隅に置いておくことが大切なのです。

2019.12.8

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