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カーフ瞑想(2) 「慕って絶え入る」

カーフ瞑想(2) 「慕って絶え入る」        

テキスト | 瞑想(1)

詩119篇礼拝用語(8)  (カテゴリー: 渇望)

81節「私のたましいは、あなたの救いを慕って絶え入るばかりです。」
82節「私の目は、みことばを慕って絶え入るばかりです。」

Keyword; 「慕って絶え入るばかり」 faint,  84:2/119:81, 82, 123/143:7

  • 詩84篇2節にも「私のたましいは、主の大庭を恋い慕って、絶え入るばかりです。」(新改訳)
    とありましたが、そこでは、「恋い慕って」カーサフכָּסַף(kasaph)と「絶え入るばかりです」カーラーכָּלָה(kalah)との二つの動詞が充てられていました。しかし、詩119篇の81, 82節ではカーラーכָּלָה(kalah)ひとつで「慕って絶え入るばかりです」と訳されています(ただし、新改訳と口語訳の場合のみです)。
  • ちなみに、新共同訳では「求めて絶え入りそうです」(81節)、「待って衰えました」(82節)、岩波訳では「恋い焦がれて」(81, 82節)、関根訳では「したい絶え入るばかり」(81節)、「待ちわびて衰え」(82節)、リビングバイブル訳では「待ちくたびれました」(81節)、「目も緊張し続けてすっかり充血してしまいました」(82節)・・などと訳されています。
  • カーラーכָּלָה(kalah)という動詞は旧約全体で204回、詩篇でも23回と比較的多く使われている動詞です。英語の訳語も多くあります。finish, destroy, fail, perish, complete, consume, wipe, vanish, end, など。この動詞の全体のイメージは、もうダメ、もう限界、今にも死にそう、終わっちゃう・・といったところでしょうか。「燃え尽き」てしまうことは精神の破綻であり、心の病気ですから、そこまでは行かないギリギリの線と言えます。
  • やつれて憔悴するほどに恋い焦がれて、神の救いを待ち望むその姿は、今日の神のリバイバルを求めて祈る多くの者たちの姿と重なり合います。捕囚を経験した神の民たちのこのような渇望はどうしてもたらされたのでしょうか。それは思うに、神のトーラー(教え)に耳を傾けていくうちに、主なる神こそ自分たちを恋い慕っておられることに気づかされたからではないかと思います。
  • 申命記には「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれた。」(7章7節)、「主は、ただ、あなたがたの先祖たちを恋い慕って、彼らを愛された。そのため彼らの子孫のあなたがたを、すべての国々と民のうちから選ばれた。今日あるとおりである。」とあります。「恋い慕う」「選ぶ」「愛する」という主の熱い思いを知ったとき、彼らははじめて主をそのようなお方として知り、慕い求めるようになって行ったと思われます。
  • 今日に生きる私たちも、主を知ることがどんなに大きな力をもたらすことでしょうか。生産性を求められる世の中で、生きる意味を考えたり、人とかかわったりする余裕が失われて、それぞれが孤立し、心の病が増えています。そうした時代の中にあって、教会は再度、「主を知る」ことの大切さに目が開かれる必要があります。預言者ホセアがいみじくも「主を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」(6:3)と語ったように。

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