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ガリラヤ湖で復活のイエスに出会う

No.29. ガリラヤ湖で復活のイエスに出会う

【聖書箇所】ヨハネ21:1~23

1. 弟子たちがガリラヤへ戻った理由

  • イエスが復活されてから弟子たちにご自身を現わされたのはエルサレムでした。ところがここでは舞台がガリラヤ(テベリア湖畔※1)に移っています。そしてそこでイエスは、ペテロ、トマス、ナタナエル、ヤコブとヨハネ、それに二人の弟子の7人に現われました(ヨハネ21:2)。14節では「弟子たちにご自身を現わされたのは、これで3度目である」と記しています。1度目はよみがえられその日の夕方。2度目はそれから8日目です。この日、1度目の時にいなかったトマスがいるところに現われています。そして今回は三度目です。
  • なぜ、弟子たちはエルサレムから自分たちの故郷であるガリラヤに帰ったのでしょうか。確かに、エルサレムにいた1度目の顕現の時には「派遣の委託」がなされました。2度目の顕現の時には、特にトマスに対して、「見ずに信じること」の重要性を教えられました。イエスの顕現にはそれなりの目的が必ずあるとすれば、3度目の顕現の目的とはいったい何なのか、そこが瞑想のポイントのような気がします。ちなみに、彼らは少なくても五旬節(ペンテコステ)の10日前、すなわちイエスの昇天の時にはすでにエルサレムに戻っていたことが使徒の働き1章で分かります。そして彼らはそこでイエスから聞いた約束―もうひとりの助け主の到来―を他の弟子たちとともに祈り待ち望んだのです。

(1)その理由―「主の指示であったこと」

  • なぜ、弟子たちはエルサレムから自分たちの故郷であるガリラヤに帰って来たのか、その答えのひとつはマタイ28章にあります。マグダラのマリヤと他のマリヤが墓に行った時に、御使いはイエスがよみがえられたことを彼女たちに伝えた折に、イエスは先にガリラヤに行かれ、そこでお会いできるということを伝えています(28:7)。また、イエスご自身が直接彼女たちに現われて、「わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会える」とも伝えています(28:10)。つまり、弟子たちがガリラヤへ戻ることは主の指示であったということです。

(2)その理由―「ペテロに対する特別な召しのため」

  • では、なぜイエスは弟子たちにガリラヤへ戻るように指示されたのか、どんな目的がそこにあったのでしょうか。そこが瞑想のポイントのような気がします。
  • ヨハネの福音書20章を見る限り、そこにはペテロ、トマス、ナタナエル、ヤコブとヨハネ、それに二人の弟子の7人しかおりません。他の4人の弟子たちはいないのはどうしてでしょう。しかしそれは問題ではありません。そこであった情報は後から弟子たちに伝わることが可能だからです。むしろ、ガリラヤ(テベリア湖畔)はペテロとヤコブとヨハネ ーこの3人はいつもイエスとのかかわりにおいて特別な位置にいた者たちですーが漁師として生きていた場所です。そこに戻れば、かつての自分たちのしてきた経験や知識を活かして仕事をすることができます。特にペテロはそう思ったようです。ですから、ヨハネ21章にはペテロが「私は漁に行く」と言い出し(※2)、それに他の弟子たちもそれに追従するということになりました。
  • ところが実際は何も捕れなかったということ、そしてこの不漁の出来事とイエスの指示による大漁の出来事(ヨハネ21:3~8)は、細かな点の違いは別として、十分に、ルカの福音書5章1~11節に記されている最初の召命の出来事をペテロとヤコブとヨハネに思い起こさせたはずです。その時のイエスの召しの言葉は「これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」(ルカ5:10)でした。ペテロ、そしてヤコブとヨハネは何もかも捨ててイエスに従ったのでした。このことを思い起こさせるような同じことがこの時点で再び起こったのでした。
  • しかしその最初の召しを思い起こさせるだけがイエスの意図ではありませんでした。その真の目的は新たな召しのためでした。イエスはペテロに「ヨハネの子シモンー(正式名で呼んでいます)―、あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか」と尋ねます。しかし、その前にイエスは、彼らのためにイエスは朝の食事を用意して招いたことが重要です。ーこの食事が意味することは、主の食卓です。それはイエスが彼らを十分に完全に受け入れているというあかしの行為です。このイエスの彼らに対する愛を示された上で、ペテロに対して主イエスは「あなたは、この人たち以上にわたしを愛しますか。」と尋ねられたのです。ペテロに対する特別な召しのためです。

2. ヨハネ21:15の訳の問題

  • イエスの「あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか」(新改訳)という訳について、この訳は問題だと指摘する人がいます。確かに、弟子たちの中のだれが最も主イエスを愛する者であるかということを、あえてイエスが競争を促すような訳になっているからです。イエスが十字架にかかられる前の番に弟子たちはだれが一番偉いかということを言い合っていました。ですからイエスがそのような意味で言われたとは考えられません。
  • 山岸登師によれば、ここの「この人たち」というのは、男性名詞でもあり、また中性名詞でもありうる代名詞で、ここを「これら」とも訳せると言っています。そうすると、ここは「これらよりも、わたしを愛するか」とイエスは尋ねていることになります。「これら」とは、漁師の仕事であったり、パンを得たりする仕事を意味します。これは実に妙を得た指摘です。ペテロはこれまで何もかも捨ててイエスに従ってきました。その自負は強かったと思います。しかしその献身の自負は、イエスに従えば、イエスが王となられたとき、自分も引き立てられ、それ相当の名誉ある地位に着かせてもらえるかもしれない、と考えていたのではないでしょうか。
  • 大きな教会に育ち、牧師たちの華やかなミニストリーを見て育った者が、自分もイエスに献身すれば、あのような働きができるかもしれない、人々から尊敬されるかも知れない、そう考えて献身するようなものです。小さな教会であっても、キリスト教の華やかなミニストリーに触れて、感動して、自分もそんな働きにかかわってみたい、あの格好良い先生のようになってみたいとおもって献身する人もいるかもしれません。しかしそうであれば、ペテロのようなことになってしまうかもしれません。そうした幻想をもってイエスに従っている時、いつかはそれが幻想であると知る時がくるのです。幻想だと知った時、襲ってくるのがつまずきです。ペテロが本当の愛でイエスを愛していなかったことが明らかとなりました。その失望が彼をして「漁師の仕事に戻ろうとした」ことの原因であることを、イエスはペテロに気づかせようとしています。
  • 自分に失望していたペテロにとって、舟と網はとても彼を引き付ける引力を持っていました。「そうだ、漁に戻ろう。所詮、主の弟子になることは私の高望みだったのだ。イエスがよみがえったとしても、これからどんなことになるのか、自分にはよく分からない。もう一度、地道に漁師として暮らそう。確かに、イエス様に対しては大変申し訳ないことをしてしまった。今から、もう一度弟子としてくださいと頼む自信もないし、そんな厚かましいことはできない。ここに舟が置いてあるということは、私にもう一度、漁に戻れということだ。そうしよう。」とペテロは考えたのではないでしょうか。これまで親分肌な性格をもっていたペテロでしたから、ペテロがそうするなら、他の弟子たちも彼と一緒に漁師の仕事に戻ろうということになったのではないかと思います。
  • 熱心に仕えて来た信者が何かの問題に遭遇して、あるいは自分の過ちによって失望落胆し、もう自分は終わってしまったと思い、この世の仕事に戻ってしまうことがあります。献身的な信者が、普通の信者よりも不熱心になって、人前に姿を現わさなくなってしまうことがあります。それをサタンもそれを利用して、その人に対して周りの信者の心を冷たくしてしまうことがあるのです。
  • 「愛しますか」というイエスの問いかけは「アガパオー」ということばです。見返りを求めない愛を意味することばです。少し、人間ばなれしている感じがすることばなのです。それに対してペテロの答えは「フィレオー」で返しています。原語が異なっているのに新改訳では「わたしがあなたを愛することはあなたがご存じです。」と訳していますが、ここをいろいろな聖書で調べてみると面白いところです。岩波訳では「はい。主よ。私があなたにほれこんでいることはあなたにはわかっています。」と訳しています。「ほれこむ」。良い訳でしょうか。なんとも言えません。
  • イエスがペテロに求められたのは、真実な愛に基づく献身です。そこへ再び、ペテロを歩み出させようとしているのです。しかもその献身は殉教を示唆するものであっただけにペテロには戸惑いがあったようです(ヨハネ21:18, 21)。しかしイエスはペテロにはっきりと自分に従うことを要求しました。

3. イエスの用意周到な準備としての顕現

  • このように、弟子たちのガリラヤ行きの指示はあらたな神の働きのための周到な備えを弟子たちにさせるためであったとみることができます。つまり、ペテロに新たな使命を託する上で、もう一度、彼が召し出された地点、つまりペテロがイエスに従ったところに戻して「踏み直させる」意図があったように思います。
  • なぜなら、ペテロがこれから託される働きはこれまでの彼の経験や知識などまったく通用しない世界だからです。そこへ召し出すために、ペテロにはっきりとある意味での「訣別」の意志を明確にさせる必要があったのではないかと思います。すべてのことを知り抜いておられる主イエスが、ペテロをやがて誕生する教会のリーダー的存在とするために、再度、召しの振り出しの地点に戻り、真の愛に基づく献身をうながすことが、ヨハネ21章にあるイエスの顕現の意味であると考えます。
  • ヨハネ21章は後からつけ加えられたと言われています。だとするなら、単なる蛇足ではなく、つけ加えなくてはならないことがあったと考えるべきです。そのつけ加えられるべきこととは、ブーバーの言う「我とそれ」の関係ではく、「我と汝」というかかわりの重要性に気づかせることでした。それこそ、永遠のいのちであり、ヨハネの福音書の大きなテーマだからです。それゆえ21章のシモン・ペテロに対する問いかけはきわめて重要な問いであったと言えます。「あなたは、これらよりも愛しますか。」という問いこそ、「偶像礼拝を避ける」(ヨハネの手紙第一の一番最後にある勧告)道でもあるのです。
  • 主の用意周到な計らいに感動すら覚えます。この点については、私たちにも適用できると思います。大きな問いかけです。

※1
ガリラヤ湖の別名はゲネサレ湖。しかしヨハネ福音書ではなぜか「テベリヤ湖」となっています。ピラトがユダヤの総督時代、ローマの皇帝はテベリウスでした。当時、ガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスはこの皇帝に敬意を表してガリラヤ湖西岸に一つの街を建設し、これにテベリヤと名づけたことから、ガリラヤ湖にテベリヤ湖の別名がつきました。

※2
山岸登氏はヨハネ21:3のペテロが「私は漁に行く」と言ったことばについて次のように注解しています。(山岸登著「ギリシヤ語新約聖書直訳によるヨハネの福音書 各節注解」エマオ出版、2004)
―「私は漁に行く」の「漁に」は「漁をする」という動詞の現在形不定詞です。それは、一時的な行動ではなく、継続的な行動を意味します。また「行く」も現在形で、「行こうとしている」、あるいはその行くという行為が常習的であることを意味しています。ですから、ペテロは一時的に、ただその時、時間つぶしに漁に行くと言ったのではなく、彼が主の召しを受ける前の、漁師の仕事に戻ることを意味していました。―このことをイエスが見抜いていなかったはずはありません。

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