****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

キリストに働いた神の力

第11日目 キリストのうちに働く神の力

  • 〔聖書箇所〕1章20~21節 【新改訳改訂第3版】

    1:20
    神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、

    ἣν ἐνήργησεν ἐν τῷ Χριστῷ ἐγείρας αὐτὸν ἐκ νεκρῶν, καὶ καθίσας ἐν δεξιᾷ αὐτοῦ ἐν τοῖς ἐπουρανίοις

    1:21
    すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

    ὑπεράνω πάσης ἀρχῆς καὶ ἐξουσίας καὶ δυνάμεως καὶ κυριότητος καὶ παντὸς ὀνόματος ὀνομαζομένου οὐ μόνον ἐν τῷ αἰῶνι τούτῳ ἀλλὰ καὶ ἐν τῷ μέλλοντι:



はじめに

  • 先々週からパウロのエペソの教会の人々に対する祈りについて学んできました。少しー復習もかねてー整理してみたいと思います。

(1) 祈りの内容「三つの関係」

  • パウロは、祈りの中で、①神をさらに深く知ること そのために、②知恵と啓示の御霊が与えられること、それは別のことばで言い換えるならば、「心の目が開かれること」でもあります。
  • 一見別々のことを祈っているように見えますが、実は、みなつながっているのです。三位一体の神がそれぞれつながっているようにです。パウロの癖というか、言い回しというか、それには特徴があって、同義語、類義語が多く使われています。このことを知るまでに私は何十年もかかりました。同義語、類義語とは、あることを様々な異なる表現を使って言い表すことです。たとえば、「救い」ということばを、聖書は「神の国に入る」、「永遠のいのちを得る(持つ)」、「神に近づく」、「神の子とされる」、「贖われる」というふうに表現します。このことを知っておくと、混乱せずに、整理して理解することができるようになります。

(2) 祈りの内容 「心の目が開かれて見えるもの」

  • 先週は「信じる者のうちに働く神の力がどのように偉大なものであるか」について学びました。「信仰こそ、神の力を知り、神の力を体験する通路です。」

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  • 水力、火力、風力を利用して得られた膨大な電力は変電所に送られ、それぞれ必要な容量に変えて各都市や町、そしてそれぞれの家に運ばれ、その中にあるさまざまな電化製品によって、送られた電力が、あるものは熱を発し、光を発し、ものを冷やし、音楽を聞いたり、テレビを見たり・・・というように様々な働きをもたらします。
  • 同様に、神の全能の力は、信仰というラインを通して、さまざまな働きをもたらします。あるときは病気がいやされたり、神のみこころを知ったり、神の導かれるところに行ったり、神の愛を人々に伝えたり、説教をしたり、奉仕をしたり、・・・と働きはさまざまです。

(3) 脱線の冥利

  • 使徒パウロの特徴はもうひとつ、よく脱線するということです。しかもそれがより大切なことであったりすることが多いわけです。今朝はそのひとつの例です。

1. キリストのうちに働いた神の全能の力

  • 神の全能の力が信じる者のうちに働くということが、パウロの口から出たときに、その同じ力がキリストのうちにも働いたことが頭をよぎりました。そこから、先ほど開いた1章20節以降に記されているのです。もう一度、そこを見てみましょう。
    「20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」
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  • このチャートを見ていただくと分かるように、キリストのうちに働いた神の全能の力の様々な現われを見ることができますが、これらはみな別々のことではなくて、しっかりと密接につながっています。

(1) 死者の中からよみがえらされた神の力

  • まず最初にここで言われている神の驚くべき力が、イエスを死者の中からよみがえらせたことによって現わされました。御子イエスは、御父からこの世に遣わされて、その公生涯の働きにおいて、御父を信じる信仰によって、御父の力を引き出しました。それは多くの奇蹟となって現わされました。多くの人々の病を癒し、水をブドウ酒に変え、群衆にパンを与え、嵐を静め、死んだ者を生き返らせました。そして御子イエスが十字架にかかって死なれた後にも、神の全能の力は働きました。それが死者の中からの復活(よみがえり)です。
  • 奇蹟中の奇蹟と言われる復活の出来事はまさに神の全能の力が働いたことを証明するものですが、パウロはそこで終わっていません。確かに、神の全能の力は死を打ち破りイエスを復活させましたが、そこで終わることなく、復活されたイエス・キリストが天に昇り、「天において神(御父)の右の座に着かせられた」ということにおいて、神の全能の力が働いたと述べています。

(2) 神の右の座に着かせた神の力

  • 「神の右の座に着く」とは何を意味しているのでしょうか。詩篇16篇にダビデは「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」と告白しています。「主を前に置く」ことと「主が右におられる」こととは「前」と「右」で、一見矛盾しているようにみえます。これがどうつながるのでしょうか。
  • 「私はいつも、私の前に主を置く」とはどんな意味なのか。それは単に、自分の意志とは関係なく、自分の前に存在しているということではないはず。むしろ、ダビデ自身は、いつも、自覚的に、意識的に、自分の前に主を置いたことを意味しています。「私の前に主を置く」とは、自分の人生において神を計算に入れるということであり、自分の人生の方向と目的においても、神によって決定されることを自ら良しとすることを意味していると信じます。また、自分は神によって創造され、愛され、救われ、自分の生涯は神のためにあるのだという明確な意識をもって生きようとする・・これが「主を私の前に置くこと」だと信じます。ダビデはそのことを自分の意志で選び取ったのです。ところで、自分の人生に、神を計算に入れ、神にあって、神と共に、神のために生きることを選び取った者には、「ある特別な経験」が起こるというのがダビデの証(あかし)です。その特別な経験とは、8節後半の「主が私の右におられる」という経験だろうと思います。
  • キリスト教の結婚式では、花嫁が入場するとき、その花嫁の右側に父親が立って花嫁をエスコートします。そして花嫁の父は、途中から花婿に花嫁を引き渡し、花婿は花嫁をエスコートしていきます。花嫁の父も花婿も、花嫁の右側に立っています。なぜ「右に」なのか。
  • 「右に」とは、第一に、保護を意味します。覆いと言ってもいいかもしれません。花嫁にとって、右側に立って自分をエスコートしてくれる父親は、結婚するまで自分の覆いとなってくれた人です。そして新しい覆いとなってくれるべき花婿が、父親に代わって花嫁の右に立つのです。このように、「右におられる」ということは、自分の覆いとなって、自分を保護してくれる存在が自分の人生にいつもいるということだと信じます。また、「右」とは、しばしば右腕といわれるように信頼に足る存在という意味だと思います。それゆえに、作者は「私はゆるぐことがない」と告白できるのだと信じます。
  • さて、話を詩篇16篇からエペソ書に戻しましょう。御子イエスが死から復活して、神の右の座に着かせられたということは、神にまったき信頼を置かれて、御父から全権をゆだねられたということを意味します。大変な信頼だと思いませんか。イエスの右に御父がいるのではないんですよ。御父の右にキリストがいるのです。「これが私の右腕です」と紹介される人物というのは、全く信頼されている存在です。自分のすべてのものを安心してゆだねるような存在です。復活のキリストはそのような全権を御父から与えられたということです。これが「神の右の座に着かれた」ことの意味です。しかも、「今の世においても、次に来る世においても」です。「今の世」とは現在を表しますが、「次の世」とは将来という意味ではなく、キリストが再臨された後の世のことです。つまり「現在においても、次の世においても」神はキリストをご自身の右の座に着かせて、すべてのことを、キリストを通してなされるようにされたのです。

(3) すべての名の上に高く置かれた神の力

  • 「神の右の座に着かれた」ことを言い換えるならば、「キリストは主、すなわち神である」ということです。パウロはこれを「すべての名の上に高く置かれた」と表現しています。同義語、類義語がここにも出てきましたね。「神の右の座に着かれたこと」と、「すべての名の上に高く置かれたこと」とは実は同じことなのです。
  • キリストは、どんな支配、権威、権力、主権にも屈服されないお方、それらすべてのものの上におられるお方、「主」(神)と呼ばれるお方なのです。イエス・キリストの名はどんな名にも勝る、最も権威ある名なのです。そのことが意味することはなんでしょうか。それは、イエスを主として信じる者は、自分の力の及ばないような困難に直面した時、勝利の主イエスからの力によってそれに打ち勝つことができるということです。
  • ローマ人への手紙8章37~39節にこうあります。
    「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
  • イエス・キリストは「死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物」に対しても主であるお方です。この確信によって私たちは「圧倒的な勝利者」となれるのです。このことが、私たちのものにもなるように祈りましょう。

(4) 信仰がなければ神の力は働かない

  • 御子イエスはこの世に来られて神(御父)のことばを語られました。そしてそれをこの世に残してくださったのです。私たちはこの世において神のことばを聞き、それを信じるならば、その通りになることを信じなければなりません。
  • アブラハムが選ばれたのは、神の約束を信じる者の父的存在とするためです。神の天にある全能の力を引き出して、神のみこころを実現する器とならせるためです。そのアブラハムは信じて義とされました。信仰の父アブラハムの子孫からイエス・キリストは生まれました。そしてイエス・キリストは神への信仰を完成させて下さいました。ヘブル書はイエスを信仰の創始者だと述べています。
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  • 電気が家庭電器製品だけでなく、新幹線のような乗り物さえも動かすことができるように、神の約束を信じる「からし種の信仰」でさえも、山をも動かすことができるのです。
  • アブラハムはまだ自分の子どもがひとりもいないときに、神が「あなたの子孫は星の数のようになる」という約束を信じて義とされたように、(実際にそのようになっていく)、私たちも信仰という電線をしっかりと天におられる主イエス・キリストに結びつけて生きることを選び取りましょう。

祈り

  • 主イエス・キリストの父なる神さま。あなたの全能の力は、まずキリストのうちに働き、多くの不思議なわざと教えによって私たちに現わされました。にもかかわらず、私たち人間はあなたが遣わされた御子イエスを信ぜず、拒絶して十字架に磔にして殺しました。ところが、あなたは、御子イエスを死者の中からよみがえらせ、天におけるご自身の右の座に着かせられ、すべての名の上に、すべての名に勝る名をお与えになられました。それゆえ、イエス・キリストこそ絶対的な力を与えられてすべてを統べ治める権威を与えられた主となられました。あなたはこのキリストにおいて、すべてのことをなそうとしておられます。あなたのみこころ、あなたの約束は、イエス・キリストを通して私たちに与えられています。キリストのことばを信じる信仰を通して、あなたの力が私たちにも働きますように。そして、私たちの主イエス・キリストの父なる神、あなたの御名が永遠にあがめられ、たたえられますように。やがては、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白する時が来ます。今も後も、永遠に主権をもって治められる王の王、主の主であるキリストと父に栄光がとこしえにありますように。

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