****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

キリストの三つの現われ

第13日 「キリストの三つの現われ」 

初臨、天の至聖所である神の右の座、再臨

はじめに

  • 今朝の聖書のテキストをまず読みましょう。今朝は、このテキストから「キリストの三つの現われ」と題してお話しをします。それが私たち一人一人に対してどのような意味があるのかを学びたいと考えています。へブル人への手紙9章24~28節 

    24 キリストは、まことのものの写しにすぎない人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現われてくださったのです。
    25 しかも、キリストがそうなさったのは、(大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。
    26 もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、) 世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去 るために、現われてくださいました
    27 人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、
    28 キリストも、(多くの人の罪を負うために、 ただ一度身を献げられた後、) 二度目には、 罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、完全な救いをもたらすために現われてくださるのです。

  • このテキストには3度、「現われる」という動詞が使われています。
    ①24節の「現われてくださった」とは、その前に「今や」とありますから、現在継続中の事柄を意味します。
    ②26節の「現われてくださった」とは、その前に「世の終わりにただ一度」とありますから、すでに実現したこと、過去に完了した事柄を意味しています。
    ③そして最後の28節での「現われ」は「現われてくださるのです」とありますから、これから起こる将来の事柄です。
  • 過去、現在、将来におけるキリストの「現われ」は、キリスト自らご自身を私たちに現わすという意味で、私たちと深くかかわるということを意味します。キリストの現われは、私たち一人一人と深くかかわる事柄なのです。このことを心にとめながらこれからの話に耳を傾けていただきたいと思います。ちなみに、このヘブル人への手紙のキーワードはなんでしたでしょうか。「イエス・キリストから目を離さないように」でした。
  • さて、日本語に訳された聖書のテキストでは3度「現われ」という動詞が使われていることをお話ししましたが、ギリシャ語の原文をみると、実は、三つの「現われ」はそれぞれ異なる動詞が使われているのです。そこで今朝は、三つの異なる「現われる」という動詞に注目しながら、なにゆえに、どんな目的でキリストが現われてくださったのかを考えてみたいと思います。

1. εμφανιζω(エンファニゾー)―All In Oneとしての大祭司キリストー

  • 9章24節を読んでみましょう。
    「キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現われてくださるのです。」
  • 「本物の模型にすぎない手で造った聖所」ということば、これはユダヤ人が神とかかわるために建てた幕屋、神殿のことです。神は幕屋(神殿)における礼拝の儀式を通して神に受け入れられ、神との交わり、神の祝福を受けてきました。そのために世襲制の祭司職があり、1500年間も続けられてきたわけです。しかしそれは、本物の模型にしかすぎないと言っています。彼らが大切にしてきた神殿は、実は本物の写しでしかなかったというのです。
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  • では、その本物の幕屋、神殿はどこにあるのかと言えば、天にあります。キリストはその天にある聖所において、私たちのために「神の御前に現われてくださったのです。」これはどういうことか。
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  • ここにある「現われてくださった」という動詞は「エンファニゾー」εμφανιζωという言葉です。英語でなにかを強調することをエンファサイズと言いますが、そのもとになったことばがギリシャ語のエンファニゾーです。
  • 本とか新聞の見出しに使う文字は、特に強調されて、くっきりと浮かび上がって見えるようにするように、天の神の御前で今やはっきりと見えるようにされているということです。今や、天における聖所ではっきりと強調されているのは、キリストが「オール・イン・ワン」であるということです。
  • キリストが「オール・イン・ワン」(All In One)であるということは、これ一つで十分、これがすべて、この一つがあればすべてOK。この一つがあればすべて良し。この一つですべてを有する、すべてを持っている。しかし逆に言うならば、この一つを欠くならばなにもない。すべてを失う。・・そんな意味をもつオール・イン・ワンです。
  • 初代教会の使徒ペテロとヨハネが祈りのために宮に入って行こうとしたとき、物乞いする生まれつき足の不自由な者に向かってこう言いました。「私たちを見なさい。金銀は私たちにはないが、私たちにあるものを上げよう。」と言って、イエス・キリストの御名を紹介しました。そしてその方の力によって歩きない。と言って手を取って立たせると、なんと彼の足とくるぶしが強くなり、踊りあがってまっすぐに立ち、歩きだしました。自分の足で歩きだしたのです。
  • 使徒ペテロとヨハネが語った「私たちにあるもの」、それはイエス・キリストという方でした。この方を持つことがすべてなのです。この方を自分のものとすることができるならば、すべてを持つのです。
  • ユダヤ人は伝統に従って、長い間、多くの儀式を通して神とかかわってきましたが、今や、そうした煩雑な儀式はすべてこの「オール・イン・ワン」である方を持つことによって、すべてがクリアーされるのです。ボタン一つですべての工程を行ってくれる全自動のように、キリストを持つことによって、神の前におけるすべてのことが満たされるようになった。この方によって、私たちは神とかかわれを持つことができ、天にあるすべての霊的な祝福を受けることができるようになった。そのことがはっきりと明らかにされた。これが24節のいう「現われ」、「エンファニゾー」の意味です。
  • 「キリストは、・・天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現われてくださったのです。」
  • ヘブル書においては、天の聖所に入られて、しかもその至聖所である神の右の座に座られたことによって、はっきりとされたことは、キリストが今や永遠の偉大な大祭司として、(次のことが大切です)「私たちのために」とりなしておられるということです。
  • 大祭司なるキリストは、神と私たちのかかわりをもたらし、それをゆるぎないものとしてくださるために、今も私たちのために祈り、とりなし、配慮しておられます。この方―大祭司なるキリストーは、あわれみに満ちた方で、私たちの弱さに同情できる方です。折にかなった助けを与えることのできる方です。ですから、私たちは大胆に、恐れることなく、臆することなく、ひるむことなく、大胆に、その方の助けを受けるために近づくべきです。
  • 私たちにとって、真の助け手、最後の頼みの綱をもっているということはなんという幸い、なんという慰めでしょうか。そのことを考えていただきたいと思います。私たちにとって大切なことは、自分に最後まで親身にかかわってくれる親しき存在なのです。キリストはそんな存在であることをはっきりと示しくださいました。

2. φανεροω  ファネロー

  • 第二の「現われ」にいきましょう。
    ヘブル9:26「世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。」(新共同訳)
    ヘブル9:26「キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。」(新改訳)
  • ここで使われている「現われ」は、「ファネロー」φανεροωというギリシャ語です。ファネローとは、「長い間、覆い隠されてきたものが、はっきりと明らかにされること」を意味します。このことばは、ステージや舞台に登場しようとしている役者、登場するまでは隠れていますが、すでに出てくる用意はできている、という場合に使われた語です。同じように、主イエスキリストは歴史上の舞台に現われました。それまで舞台の袖で出番を待っていたのですが、いよいよ舞台に登場するその時が来たのです。それはイエスキリストの誕生、そして十字架へと向かう道です。
  • 主がこの世に来られた目的、歴史に最初に現われた目的(つまり、この世に来られた目的)はなんだったのでしょうか。26節によれば、「御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るため」でした。つまりここでは「罪のためのいけにえ」としてのキリストの「現われ」です。ヨハネ第一3:5「キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。」
  • 旧約では年に一度、大贖罪日といって国家的な罪のきよめの儀式がありました。大祭司はその時だけ、至聖所に入り、民のためにきよい血をささげました。そのことによって、民の罪は覆われ、神との交わりを可能としたのです。しかしその効力は年ごとです。毎年毎年、民の犯した罪のために、多くの動物が犠牲となりました。なぜなら、「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないからです。」(へブル9:22)
  • しかし、主は贖いの日のように罪を覆うためではなく、罪を取り除くために現われて下さったということです。キリストは「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。」(ペテロ第一2:24) ことによって、「私たちのそむきの罪が、東が西から遠く離れているように、私たちから遠く離される。」(詩篇103:12)ためでした。
  • 神が私たちの罪を取り除くとは、罪を赦すたけでなく、完全に忘れるということです。これは驚くべきことです。完全な忘却です。私たちはたとえ人の罪を赦したとしても忘れることはありません。それば自分が傷つけられたことであればあるほどです。しかし、神の赦しは、完全な忘却です。それゆえ、私たちは自分の犯した罪のゆえにさばかれることは全くないのです。
  • 多くの人は自分の犯した罪の罪責感のゆえに苦しみます。人からも自分でも自分を責める続けやすいものです。自分を赦せないで苦しみます。また人を赦せないで苦しみ続けます。
  • 赦せない苦しみが心と身体にさまざまな悪い影響を与えます。神の赦しを体験し、私たちが即座に人を赦すことができるなら、どんな平安な生活ができるでしょうか。赦せない心から出てくるものは決して良いものではありません。悪い毒々しいものです。そしてそれらが心をさらに苦いものとし、不健康にしていきます。この悪循環から私たちを救い出すために、キリストは、完全な一回的な罪のいけにえとしてご自身をささげられました。それは私たちの罪を完全に赦し、神に永遠に受け入れられるためです。永遠のかかわりを保障するためです。
  • しかもこのことはすでに二千年前の過去に、完了した出来事でした。「(キリストは)・・世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。」このことを信じる者は幸いを得ます。神に赦された者は、人を赦し、そして自分を赦すことができるようになります。それが新しい人生をスタートさせていくのです。人とのかかわりにおけるすべての傷から解放されて、新しい自分の道を歩むためにも、私たちにはっきりと現わされた、「罪のためのいけにえであるキリスト」を日々、自分のものとして受け取るべきです。

3. ὁράω, ホラオー

  • 第三の「現われ」に行きましょう。28節の「現われ」。「二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」
  • ここにある二度目とは、キリストが再び来られることを意味しています。キリストの再臨のことです。そのときには、キリストを待ち望んでいる人たちにとっては、救いをもたらされるために現われて下さるのです。新改訳はここでも「現われる」を「来られる」と訳しています。

(1) <突然の現われ>

  • ここでの「現われ」は、ホラオーという動詞が使われています。ホラオーとは、突然に、神が現われて人と出会うことを意味しています。神と出会った人たちは、神からの召しを受けた人々はみなこの神の「現われ」を経験しています。

使徒7:2 「そこでステパノは言った。『兄弟たち、父たちよ。聞いてください。私たちの父祖アブラハムが、カランに住む以前まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現われて、あなたの土地とあなたの親族を離れ、わたしがあなたに示す地に行け。』と言われました。

使徒7:30 「四十年たったとき、御使いが、モーセに、シナイ山の荒野で柴の燃える炎の中に現われました。」

使徒26:16「起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現われたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現われて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。」

Ⅰコリント15
:5「また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」
:6「その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。」
:7 「その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。」
:8「そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。」

  • 重要なことは神が突然の方法で、唐突な形で人に現われて、特別な使命を与えるような場合に、このホラオーという言葉を用いています。それは私たちひとり一人にとっても同様ですが、ここでのキリストの「現われ」は、やがて再びこの世ら来られるとき、つまり二度目に来られる時には、キリストを待ち望む人々に完全な救いをもたらすために現われてくださるのです。ここでいうところの「完全な救い」とは、神と人とが顔と顔を合わせること、「神の御顔を仰ぎ見る」(黙示録22:4)と表現されるというかかわりの極致です。神に対して罪を犯した人間は、自分の犯した罪ゆえに、神の御顔を避けるようになりました。その人間が神の顔を見られるように、親しくかかわることができるようにまずキリストは二千年前に来られて罪のための身代わりして自らいけにえとなって血を流してくださいましたが、再び来られる時には、完全な救い、神の御顔を永遠に仰ぎ見ることができるようにしてくださるのです。

(2) <救いの確実さ>

  • そのことが確実であることを示すために、この手紙の作者はこう記しています。

    27 人間にはただ一度死ぬことと、その後に 裁きを受けることが定まっているように、 28 キリストも、(多くの人の罪を負うために、 ただ一度身を献げられた後、二度目には、 罪を負うためではなく、) 御自分を待望して いる人たちに、完全な救いをもたらすために現れてくださるのです。

  • 27節の前半の「人間には、一度死ぬこと」というのはだれも否定することができない事実です。だれにとっても百パーセント確実なことは必ず死ぬということです。これを逃れることは誰もできません。「人間は死ぬことが定まっているのです。」しかし、もともとは人間は生きるように定められており、死ぬようには創られてはいませんでした。しかし、最初の人が罪を犯したので、死が全人類に広がったのである。
  • 27節に戻りましょう。聖書は百パーセント確実なことは、単に「人間には一度死ぬことが定まっている」ことだけではありません。「一度死ぬことと、その後に、さばきを受けることも定まっている」ということが当然のように付け加えられています。死ぬことと、死んだ後、さばきを受けることが定まっている。人がこれを信じようが信じまいが、それは神の御前において避けられない確実なことであるとしています。その確実さと同様に、キリストが再び来られる時には、御自分を待望して いる人たちに、完全な救いをもたらすことが確実に定まっているということなのです。
  • 神は御子によってこの世をさばくことを定められました。さばくとは、当然の救いも含んでいます。キリストはすでに「多くの人」の罪を負い、それによってさばきの問題を取り除かれたが、再びこの世に来られるとき、神の与えられた All in One としてのキリストを受け取ったかどうかが問われるのです。それによって永遠の救いか滅びかが決定するのです。キリストを持っているものは幸いです。キリストを与えてくださった神に心からの感謝をささげたいと思います。



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