****** 詩篇は、神と私たちの生きた関係を築く上での最高のテキストです。******

キリストの再臨を待ち望む

補塡. 「キリストの再臨を待ち望む」

sunrise

はじめに

  • アドベント (Advent) とは「待降節(たいこうせつ)」あるいは「降臨節(こうりんせつ)」とも言われます。アドベントという単語は、本来、ラテン語 Adventus から来ており、ギリシャ語の「パルーシア」παρουσια(parousia) の訳語です。新約聖書の用法では「イエス・キリストの再臨」を指すために使われています。すなわち、「待降節」は、メシアの来臨を待ち望んだイスラエルの民になぞらえて、新約の教会がイエス・キリストの再臨を待ち望む事を覚えるための期間とも言えるのです。

1.私たちの霊性と深くかかわる再臨信仰(終末信仰)

  • 新約の教会において、再臨待望の模範的な教会があったことを使徒パウロは記しています。その教会とはテサロニケ教会です。宣教の情熱、偶像礼拝から生ける神に対する信仰において模範だっただけではなく、1章10節にあるように、テサロニケ教会のイエス・キリストの再臨待望の信仰は、全世界の教会の模範でした。まず1章10節を見てみましょう。

    「また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。」(Ⅰテサロニケ1:10)

  • 10節の原文直訳は、「待つ、天から神の御子を」で始まっています。ここでの「待つ」と訳されたギリシャ語は「アナメノー」άναμένωです。「再び」を意味する接頭詞の「アナ」αναと「とどまる、待つ」を意味する「メノー」μένωの合成語。この箇所(1:10)にしか使われていない動詞です。ここでの「待つ」という意味は、ただ待つというのではなく、「前もって来ることが分かっている、来ることがあらかじめ知られている人が、来るのを待つ」という意味です。待つと言っても、なかなか来なければ、もしかするとこないのではないか、破約したのではないかと不安になったり、苛立ったりするものですが、ここでの「待つ」とは、必ず来ると言った相手の約束に信頼して、確信をもって、忍耐深く、どんなことがあっても、不動の心をもって持つ、という意味をもった言葉です。テサロニケの教会が再臨待望の模範であるとパウロが言ったのはそのような意味においてなのです。 
  • ちなみに、シメオンや女預言者アンナも、またアリマタヤのヨセフも神の国を「待ち望む」人の模範と言えます。「待ち望む」と訳されたことばは「プロスデコマイ」προσδέχομαιです。新約では14回。このことばは、「アナメノー」άναμένωと同義と考えることが出来ます。
  • 福音書を読むならば、御子イエスは直接に、あるいは譬えによって、ご自身が必ず再び来るという再臨の約束をしています。ヨハネの黙示録にも、「わたしはすぐに来る。」(22:12, 20)という主の約束に対して、「主イエスよ。来てください。」(22:17, 20)という教会の告白があります。再臨を否定することはできません。内村鑑三は「十字架が聖書の心臓部分であるなら、再臨は脳髄である」と言いました。その意味するところは、再臨がなければ完成はあり得ず、キリストの十字架の死と復活は無駄になるということです。それほどに再臨は重要な事柄と言えます。敵であるサタンは必死になってこの教えを混乱させ、脱線させようとしています。キリストの再臨を正しく理解し、それをいかにして待つかが今日の教会にも問われています。
  • キリストの再臨のときに顕わされる大いなる栄光と祝福について、生きいきした信仰と希望を持つことは、主にある者たちがこの世における多くの患難や誘惑に打ち勝っていく上で大きな原動力となるはずです。初代教会にはこうしたキリストの再臨に対する生き生きとした信仰があったのです。今日のキリスト教会において、この再臨信仰、終末信仰が果たして生命力にあふれるものとなっているのかどうか、自ら、検討しなければなりません。なぜなら、これはキリスト者の霊性と深くかかわる問題だからです。
  • アドベントにおいて、旧約聖書の人々がメシアを待ち望んだように、主にあるキリスト教会は再臨を待ち望まなければなりませんし、その待ち方の模範を、テサロニケの教会から学ぶことができます。ただ、テサロニケの教会の人々が自分の生存中に来るという誤った理解をして、自分の日常の働き、仕事を辞めて、兄弟愛の助けを当てにして、怠惰な生活をする者が出てくるという問題がありました。また、再臨前に先立って死んだ兄弟たちはどうなるのかという疑問が起こりました。パウロはそうした問題に正しく対処したことが手紙を読めば分かります。いずれにしても、テサロニケ人への二つの手紙は「再臨的書簡」と称せられています。
  • キリストの再臨を正しく理解することで、むしろ、心はワクワク、ドキドキ、ウキウキしてくるはずです。そんな望みを与えられるためにも、キリストの再臨を待ち望む瞑想をすることは大きな慰めをもたらと信じます。

2. キリストの空中再臨という望み

  • キリストの再臨には「空中再臨」と「地上再臨」があります。再臨についてただでもわからないことが多いのに、「空中再臨」と「地上再臨」を混同すると、さらに再臨がこんがらがります。再臨には、「空中再臨」と「地上再臨」があることをしっかりと理解しておくことです。空中再臨の時期については考え方がいろいろありますが、この事実を否定する事はできません。
  • 「空中再臨」の聖書の記述は、聖書では、 Ⅰテサロニケ4章16~17節とⅠコリント15章51~53節の二箇所です。

    「16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、 神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(Ⅰテサロニケ4章16~17節)

    「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。」(Ⅰコリント15章51~53節)

  • 特に、空中再臨の啓示は使徒パウロに与えられたものでした。パウロは「空中再臨」を奥義だと述べています。空中で教会はキリストの花嫁として迎え入れられます。
  • ヨハネの福音書14章2, 3節に「空中再臨」について書かれた記述があります。弟子のペテロが「主よ。どこにおいでになるのですか。」―その問いかけに対しての答えとして、イエスはズバリこう答えられました。「わたしの父の家に、場所を備えに行く」と。「誰のために?」というならば、それは「あなたがた(弟子たち)のために」です。では「何のために?」(目的)というならば、それは「あなたがたを父の家に迎えるためです。」
  • 「行って、また来て、迎えます。」というイエスの教えにある最初の「行って」とは、イエスが「天の父のもとに行かれること」です。十字架の死と復活の出来事を通り越して、イエスの昇天を意味しています。では次の「また来て、迎える」とはどういうことでしょう。実は、これこそが「空中再臨」です。
  • ところで、「空中再臨」と「地上再臨」の違いは何でしょうか。前者の「空中再臨」は教会のための出来事ですが、後者の「地上再臨」は7年間の患難時代を経て生き残ったイスラエルの民の出来事です。反キリストによる患難時代の最後にイスラエルに対する最後の戦いーハルマゲドンの戦いーが起こりますが、そのとき、主イエスは神の国をこの地上に実現させるために、オリーブ山に再臨されます。これが「地上再臨」です。そして千年王国が実現します。千年王国において神がイスラエルの民に対して約束されたすべてのことが実現します。そして、イスラエルは全世界の支配国となるのです。天に引き上げられた教会の人々は、この千年王国時代のときなにをしているのか、それはキリストのところに私たちはいるわけですから(もちろん、その時には霊的なからだを与えられています)、地上において王であり、祭司としてのなんらかの役割を果たすと考えられます。
  • ヨハネの福音書14章に言われている空中再臨は重要な箇所と言えます。それは地上にいる信者を天に引き上げて、イエスのいる所に教会をおらせるための再臨です。この再臨をイスラエルの民のために地上に戻ってくる地上再臨と混同してはなりません。
  • 私たちはこれから起こることについて聖書から学び、老シメオンや女預言者アンナたちが、イスラエルの慰めとエルサレムの贖いを待ち望んだように、私たちも主の「パルーシア」παρουσιαを待ち望みたいと思います。


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