****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

キリストの律法を全うする生き方


17. キリストの律法を全うする生き方

【聖書箇所】6章1~10節

ベレーシート

※6章1~10節の総論

●ガラテヤ書6章は「兄弟たち」で始まり、同じく「兄弟たち」で終わっています(「ハレルヤ」を除けば)。パウロは、主にある者たちが神の子どもであることから、「キリストにある自由」について語り、同様に、主にある「兄弟たち」であるという事実から、責任ある行為(キリスト教的倫理)について記しています。かつて、主がカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と尋ねられたときに、カインは「私は知りません。私は弟の番人なのでしょうか。(創世記4:9)」と無責任に答えました。しかし、新約聖書の解答としては「私は私の兄弟の番人です」と答えなければならないのです。そうすることで、「キリストの律法」が成就されるからです。

●前回、「私たちは御霊によって生きているのですから、御霊によって進もうではありませんか」にある「進もう」(「ストイケオー」(στοιχέω)は、「兵士たちのように、列を作って歩く」ことだと述べました。これは主ある者たちが、連帯感をもって戦うことを意味しています。そのコンテキストの流れで、主にある兄弟に対する消極的態度(行為)―「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりしないようにしましょう」(5:26)という勧めがあり、今回は兄弟たちに対する積極的態度(行為)が語られています。つまり、「共に生きる」「共に成長する」ことです。

【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙6章1~10節
1 兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。
2 互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。
3 だれかが、何者でもないのに、自分を何者かであるように思うなら、自分自身を欺いているのです。
4 それぞれ自分の行いを吟味しなさい。そうすれば、自分にだけは誇ることができても、ほかの人には誇ることができなくなるでしょう。
5 人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うことになるのです。
6 みことばを教えてもらう人は、教えてくれる人と、すべての良いものを分かち合いなさい。
7 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。
8 自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。
9 失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。
10 ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。


■ 6章1節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙6章1節
兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。

●1節は「また、そして」を意味する「カイ」(καὶ)で26節と内容的につながっています。「もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら」は、「もし、ある人が何かの罪によってつかまえられたなら」と訳せます。新共同訳は「万一だれか不注意にも何かの罪に陥ったなら」と訳していますが、「不注意にも」は原文にはありません。新改訳の「分かったなら」という訳も原文にはありません。「つかまえられた」「陥った」と訳される「プロランバノー」(προλαμβάνω)は、アオリスト受動態で、「過失の現場を取り押さえられたなら」という意味です(ギリシア語新約聖書釈義事典)。

●「過ち」と訳された「パラプトーマ」(παράπτωμα,19回)は、人が神に背いている状態で犯す罪である「ハマルティア」(ἁμαρτία,173回)とは異なり、「過失」の罪です。それがどのような罪であるのか、具体例は記されていません。しかし、人が主を信じてクリスチャンになっても、突然完全になるわけではありませんし、肉に支配されずに御霊に導かれて歩もうと心で決めても、誘惑がやって来るとすぐにその決意が崩れてしまうことがあります。一生懸命神に従って歩もうとしても、失敗することがあるのです。完全を目指しながらも、なお、失敗することがあるのです。そのことをまず理解すべきです。問題は、失敗や過ちをしたときに、どのように対処するかが大切です。もし対処の仕方を間違えば、自分の生涯が変わってしまうかもしれないし、あるいは他の人を裁いて傷つけ、その人の人生を台無しにしてしまうかもしれません。もし、だれかが失敗したり、過ちを犯したりした時に、正してあげることが必要なのです。そのような人の過ちを正す場合に、「自分自身も誘惑に陥らないように気をつけながら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。」とパウロは忠告しています。

●1節での命令形は、「正してあげなさい」の現在命令形のみです。「カタルティゾー」(καταρτίζω)は、「回復させる、立ち返らせる」という意味があります。「柔和な心で」とありますが、「心」は「プニューマ」(πνεῦμα)で「霊」と同じです。つまり、御霊の実である「柔和」をもってということです。これは自分自身に対する御霊の実であり、神のみことばに自らを聞き従わせる心と言えます。主にある者たちが「共に成長していくこと」が目指されているのです。

■ 6章2節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙6章2節
互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。

●2節の「互いの重荷を負い合いなさい」という現在命令形の背後には、必ず、直説法があります。ここにはそれが記されていません。しかし、キリストはだれも担えない重荷を私たちに代わって担ってくださったという事実があります。そのことによって、私たちは救われた(贖われた)のです。私たちはキリストの十字架という贖罪の恵みを受けたのですから、キリストにある兄弟たちが互いに重荷を負い合うことは当然のことなのです。そして、それによって「キリストの律法を成就することになる」(未来形)のです。

●「キリストの律法」(「ホ・ノモス・トゥー・クリストゥー」ὁ νόμος τοῦ Χριστοῦ)というフレーズは、この箇所にしか出てきません。パリサイ人たちの律法は、もはや神の律法ではなく、人間によって解釈された「言い伝え」であり、行いによって神に受け入れられようとする律法主義です。それに対して、「キリストの律法」とは、キリストの命令に基づく戒めのことで、福音書にある「キリストの戒め」と同義です。

【新改訳2017】マタイの福音書22章35~40節
35・・・・律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねた。
36 「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」
37 イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
38 これが、重要な第一の戒めです。
39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。
40 この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」

●「キリストの戒め」は「神を愛すること」と「隣人を愛すること」に集約されています。それゆえ、「愛の律法」とも言えます。「互いに重荷を負い合い、共に生きる、共に成長する」ことが愛です。ヨハネも「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(福音書13:34)と言っています。この戒めによって「キリストの律法を成就する」のです。パウロの言う「愛によって働く信仰だけが大事です」(ガラテヤ5:6)というのも、実はこのことを言っているのです。

■ 6章3節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙6章3節
だれかが、何者でもないのに、自分を何者かであるように思うなら、自分自身を欺いているのです。

●原文には理由を示す接続詞「ガル」(γὰρ)があります。前節の「互いの重荷を負い合いなさい」という命令の、理由を示すために記されている部分です。教会に連なる者の一人が、失敗に陥ったのを見て、その人をさげすみ、自分だけはそのような者ではないと思い込んで、共に重荷を負うこともせず、非難し、かつ自ら高ぶっているならば、それは自分を欺き、ごまかしているのです。神を知るにつれて、私たちは神の御前にあってどのような存在であるかが少しずつ分かってきます。自分自身の罪深さも分かってきて、思い上がることはできなくなります。

■ 6章4節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙6章4節
それぞれ自分の行いを吟味しなさい。そうすれば、自分にだけは誇ることができても、ほかの人には誇ることができなくなるでしょう。

●それゆえ、それぞれ「自分自身の(「エアウトゥー」ἑαυτοῦ)行いを「吟味しなさい」(現在命令形)と続きます。「吟味する」と訳された「ドキマゾー」(δοκιμάζω)は、「試す、検討する、精錬する、見分ける」という意味です。「そうすれば」(καὶ)、「そのとき」(τότε)、「自分にだけは誇ることができても、ほかの人には誇ることができなくなるでしょう」。これはどういう意味でしょうか。

●前半の「自分にだけは誇ることができても」の自分に対する「誇り」の場合は、「喜び」を意味します。しかし、後半の「ほかの人には誇ることができなくなるでしょう」の他人に対する「誇り」の場合は、「高慢」につながってしまいます。それゆえ、どんなに善い行いであったとしても、他人に対しては誇ることができなくなるのです。もし、他人が自分の行いを認めてくれる場合は、素直に感謝すべきです。と同時に、自分が他人の重荷を負うことができるのは、その愛と力を神が私に与えていてくださっているからだ、と謙虚に受けとめるべきです。

■ 6章5節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙6章5節
人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うことになるのです。

●訳文にはありませんが、原文には理由を示す「ガル」(γὰρ)があります。「というのは、人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うことになるからです」となります。ここでの「重荷」は、2節にあった「重荷を負う」という「重荷」の語彙が異なります。2節の「重荷」は「バロス」(βάρος)の複数形で、文字通りの負担を意味する「数々の重荷」です。しかし、5節の「重荷」は「フォルティオン」(φορτίον)の単数形で、自分の全生涯を表す語彙です。いずれにせよ、「人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うことになるのです。」

■ 6章6節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙6章6節
みことばを教えてもらう人は、教えてくれる人と、すべての良いものを分かち合いなさい。

●ここからは、「みことばを教えてもらう人は、教えてくれる人と、すべての良いものを分かち合うこと」が勧められています。「共に生きる」「共に成長する」ことが、ここでは「分かち合う」こととして言い換えられています。「分かち合いなさい」は「コイノーネオー」(κοινωνέω)の現在命令形で「分かち合い続けなさい」です。原文ではこの動詞が文頭に置かれて強調されています。なにゆえに「分け合う、分け与える」のでしょうか。それは、「教える人」と「教えられる人」があって教会は成り立っているからです。一方だけでは成り立ちません。

●プロテスタント教会は万人祭司制です。祭司の務めは「みことばの種を蒔く」務めですが、その務めを豊かにし、確固たるものにしていくためには、みことばを教える者と教えられる者とが存在します。それは教会に与えられている御霊の賜物の違いのゆえです。ですから、両者は「すべての良いものを分かち合う」ことが求められているのです。みことばを教える者は生きた神のことばを教え、教えられる者は教える者の生活を支えるという発想があるように思われます。そのようにして、教会は「共に生き」「共に成長する」ことができるのです。と同時に、その厳粛さも考慮しなければなりません。というのはどんな種を蒔いているのかが問われるからです。

■ 6章7節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙6章7節
思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。

●「種を蒔く」という教えは神が天地創造してから今日まで、また神の国が完成するまで、変わることのない原則です。ここでの「種」とは「教え」のことです。神も種を蒔きますが、サタンも種を蒔くのです。種を蒔くなら、やがて芽を出し、成長します。そして最後は刈り取られて、その実が分けられる運命にあります。

■ 6章8節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙6章8節
自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。

●文頭に前節を説明する接続詞「ホティ」(ὅτι)があります。「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り」とあります。ここでは種の蒔かれる場所について記されています。イェシュアの「種蒔きのたとえ話」でも、種が蒔かれた場所が問題となっていました(マタイ13章)。ここでも「肉」に蒔かれるならば、滅びを刈り取ります。しかし、「御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」とされています。「刈り取る」と訳された動詞「セリゾー」(θερίζω)は未来形です。つまり、「刈り取る」時期は「終わりの日」、あるいは「最後の審判」を指しています。

■ 6章9節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙6章9節
失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。

●9節の原文は「善を行っている私たちは落胆しないようにしよう」ですが、「失望せずに善を行いましょう」としているのは、次節も含めて、兄弟たちに対して「善」を行うことを言っているからだと考えられます。その理由を示す接続詞「ガル」(γὰρ)があります。「あきらめずに」と訳された「メー・エクリュオー」(μὴ ἐκλυω)は、「弱り果てないで、疲れ果てないでいるなら」(現在分詞)ば、「時が来て刈り取ることになるから」とされています。「時」と訳されているのは「カイロス」(καιρός)で、神が定めている特定の日のことです。

●「善」とは本来「神の戒め」「神のみこころ」のことですが、ここでは兄弟たちに対する「善」のことで、「共に生きる」こと、「共に成長する」ことが、神の戒めとしての「善」ということができます。

■ 6章10節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙6章10節
ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。

●「機会」と訳された語彙も「カイロス」(καιρός)ですが、ここでは神が定めている期間という意味です。つまり、キリストが再臨されるまでの「すでに、いまだ」の定められた期間を「機会があるうちに」としています。「終わりの日」にはそれができなくなるという含みがあります。

●「すべての人」の中には「敵」をも含んでいますが、「特に信仰の家族」に対して善を行うことが勧められています。

2019.11.14


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