****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

キリストの空中再臨と教会の携挙

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1. キリストの空中再臨と教会の携挙

ベレーシート

  • これから何回になるか分かりませんが、「終末預言」「終わりの日」についての学びをしていきます。今回はその第一回目です。キリストの再臨は二度あるというお話します。以下の、預言者的遠近法の図をご覧ください。旧約の預言者たちが、メシア(=キリスト)の来臨をどのように語っていたかを示す図です。神のご計画ではAのようにメシアの来臨として「初臨」と「再臨」があるにもかかわらず、旧約の預言者たちの目には、Bのように、時間軸のない二次元の一つの絵のように見えていたのです。


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  • 聖書ではしばしば同じ出来事が二段階になっていることがあります。「キリストの再臨」の出来事も実は二段階あります。それは、「空中再臨」と「地上再臨」です。
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  • これらはいずれも「空中再臨」と「教会の携挙」のことを歌った信仰の歌です。しかもこの「聖歌」の歌詞はNo.638は1898年、No.634は1893年の作です。このことは重要です。今から100年ほど前にも、「キリストの空中再臨」と「教会の携挙」を内容とした信仰の歌を歌っていたという事実です。しかも実は、この信仰は初代教会の信仰でもあったのです。この信仰が今日、崩れて来ているのです。
  • キリストの空中再臨について教えている聖書のテキストを学びながら、将来に起こる事を正しく学ぶことによって、私たちの今の信仰の歩みを確かなものとしたいと思います。今回の学びは私たちにとって力強い励ましと慰めを受けるはずです。以下は、キリストの「空中再臨」と教会の「携挙」についての聖書が教えている箇所です。このテーマに関する多くの聖書箇所がありますが、今回はその中から代表的な4つの箇所を取り上げてみたいと思います。引用はすべて新改訳聖書改訂第三版からです。

1. テサロニケの手紙第一 4章13~18節

13 眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。

  • 16節に「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。」とあります。すでに2000年前には幼子として、処女マリヤを通しての誕生というかたちでこの世に遣わされましたが、再び来られる時には天から直接下りて来られるのです。しかしそれは地上にではなく、空中までです。まず、キリストを信じて死んだ者たちがよみがえります。そのあとで、この地上に生きている者たちが、引き上げられるようにして彼らと一緒になり、共に空中で主と会う、と書かれています。
  • このテサロニケの手紙では、13節に記されているように、イェシュアを信じて眠った人たちが(死んだ人たちが)これからどうなるのか、分からないでいる者たちに書かれた手紙です。パウロはこう語っています。13節「 眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。」そして、「キリストの空中再臨と教会の携挙」について語ったあとに、ふたたび、18節で「こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」とあります。ですから、私たちにとってもここに書かれていることを知ることはとても重要です。
  • さて、携挙の特徴について目を留めてみましょう。
    新改訳2017の17節には、「彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ」とあります。新改訳改訂第三版では「たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ」と訳されていましたが、新改訳2017には「一挙に」という表現はなく、「彼らと一緒に」と訳されています。ギリシア語原文には「ハマ」(ἅμα)があります。この「ハマ」には、時間的な「ただちに、たちまち」という意味と、様態的な「一緒に」という二つの意味があります。「引き上げられ」と訳されたギリシア語(「ハルパゾー」(ἁρπάζω)の未来形受動態)にも、①ひったくる(奪い取る)、②さらって行く、③つかまえて連れて行く(無理やりに連れて行く)という意味があります。そのようにして、空中に一挙に、一緒に、引き上げられることを意味します。そのようにして「空中で主と会うのです。」。「一挙に」は「まばたきするような一瞬」で、おそらくサタンもビックリです。携挙はだれにも妨害することができないほどの「瞬間の出来事」なのです。ですから、地上にいる者はすぐには気づきません。
  • 空中再臨は「奥義」(それが明かされるまでだれも分からない事柄)です。というのは、使徒パウロにはじめて啓示されたからです。しかしイェシュアも地上での生涯でそのことに関して、多くではありませんが語っています。以下の箇所がそれです。

2. ヨハネの福音書14章1~4節

1 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

  • 3節に「場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。」とあります。「あなたがた」とはイェシュアの弟子たちのことです。今日的表現を使うなら、メシアニック・ジューです。そして私たち異邦人はメシアニック・ジューの弟子たちから伝えられたキリストの福音を聞いて、イェシュアを救い主と信じている者です。つまり、ここでの「あなたがた」とは、メシアニック・ジューと異邦人クリスチャンの両者を含む「キリストをかしらとする教会」のことです。したがって、携挙されるのは教会(キリストの花嫁)のことで、旧約時代の聖徒たちと、携挙の後にくる大患難時代に救われる聖徒たちは、携挙から除外されています。つまり、ここでは、
    花婿であるキリストが花嫁(妻)となる教会を迎えに来る空中再臨を預言しているのです。そしてすでに備えられた夫婦として住む家に連れて行かれます。先ほどの「メ・ゴサレ」という賛美はそのことの喜びを歌ったものです。以下のヨハネの黙示録19章7~8節のみことばを歌にしたものです。

7 私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。
8 花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。

  • 「花嫁はその用意ができた」とは、「花嫁が、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許されたこと」を意味します(同義的パラレリズム)。この「花嫁はその用意ができた」という部分をヘブル語に訳すと、「ヒットカッダーシャー」(הִתְקַדָּשָׁה)という語彙が使われています。これは「聖なるものとなる」という意味の「カーダシュ」(קָדַשׁ)の強意形のヒットパエル態で、「自らを聖別する、自らきよめる」という意味になります。つまり、花嫁のために取り分けられた歩みを花嫁が自らしてきたことを意味します。まさに、花婿のものとして自分を「聖別する」生き方を、主体的、自覚的にしてきたことを意味します。このことを「花嫁はその用意ができた」と表現しているのです。花嫁は「終わりの日」が近づけば近づくほど、みことばと御霊の助けを通して、花婿のものとなるためにすべてのことを整えていきます。準備は花婿だけでなく、花嫁のうちにもなされるのです。それゆえ、花嫁は、光り輝く、きよい麻布を着ることを許された(=「着るようにと(花婿から)与えられた」)と表現されているのです。なぜなら、その「光り輝く、きよい麻布の衣」とは、「聖徒たちの正しい行い」のことだからです。花婿の心を求め続け、慕い求め続けてきた花嫁の行いが、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを得させたのです。すべて、主権は花婿にあります。花婿であるキリストは花嫁である教会を愛して、ご自身をささげられ、最高のぶどう酒(ご自身の血)をもって婚約しただけでなく、その花嫁をみことばと水の洗いをもってきよめて聖なるものとし、やがて、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせることが最終の目的なのです。
  • そのようにして、花嫁がまっ白なドレスを着る準備ができた時、花婿が天から迎えに来られて、空中において、結婚式がなされるのです。結婚式を終えたならば、花婿と花嫁が共に住むことは当然です。その住まいを整えるために、一度イェシュアは天に戻って行くのです。そのことがヨハネの福音書14章に記されているのです。
  • ヨハネの福音書14章1~4節のみことばと黙示録19章7~8節のみことばは、私たちが単に天に引き上げられるだけではない、そこでキリストと教会が結婚するという事実を預言しているのです。ですから、私たちは主といつまでも共に住むのです。主のおられるところにはいつも共にいるのですから、やがてキリストが地上再臨するとき、私たちも共に地上に来るのは至極当然なことです。空中再臨も地上再臨もまだ実現していませんが、必ずそのことは起こるのです。

3. コリント人への手紙第一15章51~52節

51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。
52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

  • このテキストで重要なことは、主とお会いするときには、すでに主にあって死んだ者も「朽ちないものによみがえり」、またそのとき生きている者も、同じく「朽ちないものに変えられる」ということです。なぜなら、血肉のからだは神の国を相続できないからです。「朽ちないものを必ず着なければならない」のです。
  • イェシュアが死から復活されたとき、そのからだはどのようなものだったでしょうか。姿かたちは死ぬ前と同じようであったとしても、少し違っていました。復活されたその夜、イェシュアは弟子たちのいるところに来られましたが、ドアをノックせずに、閉まった戸をすり抜けて入った来られました(ヨハネ20:19~20)。また、エマオという村に帰る弟子たちと聖書についての話をすることもできました。目に見えない霊ではなかったのです。目に見える新しいよみがえりの身体をもっていましたが、骨も肉も持ちながら、朽ちることのない栄光のからだなのです。不思議がっている弟子たちの前で、イェシュアは「ここに何か食べ物がありますか」と言われました。弟子たちが焼いた魚を一切れ差し上げると、イェシュアは彼らの前でそれを取って召し上がった、と聖書は記しています(ルカ24:42~43)。私たちもイェシュアがよみがえられたかだと同様のからだを与えられるのですが、それが実現するのは、空中に携挙される直前(あるいは同時)です
  • このことを聖書は「第一の復活」にあずかると言います。この「第一の復活」にあずかれる人は幸いです。イェシュアを信じなかった人はどうなるのでしょうか。当然、携挙されませんからこの復活にあずかることはできませんが、「第二の復活」にあずかります。ただしそれは「第一の復活」に与れなかった者たちで、「第二の復活」は最後の審判、最後のさばきのためによみがえるのです。しかも朽ちないからだが与えられて、永遠のさばきである「火の池に投げ込まれる」のです(黙示録20:15)、これを「第二の死」と言います。

4. テサロニケの手紙第一5章1~6節、9~11節

  • 使徒パウロは、テサロニケの手紙第一4章13~18節で主の「空中再臨」と「教会の携挙」について書いた後で、5章において「主の日が夜中の盗人のように来る」と述べています。ここでの「主の日」とは患難の時を意味しています。しかし、「あなたがたは暗闇の中にはいないのですから、その日(主の日=患難時代)が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません」と記しています。
  • そのことを5章1節から見てみましょう。

    1 兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。
    2 主の日(患難の時)が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
    3 人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として滅び(反キリストによる大患難)が彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。
    4 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみ(大患難)の中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。
    5 あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。
    6 ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。
    ・・
    9 神は、私たちが御怒り(大患難の出来事)に会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救い(携挙)を得るようにお定めになったからです。
    10 主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。
    11 ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。

  • 9節が示しているように、神のご計画のマスタープランでは、教会は反キリストの支配の中で起こるような大患難には遭いません。反キリストによる大患難はとても恐ろしい出来事です。しかしそのことを神が許しているのは、神が選ばれたイスラエルの民のかたくなな心を打ち砕いて、彼らを民族的に回心させる最後の神のあわれみの時だからです。このことについては、地上再臨の学びのときに改めて学ぶ予定です。
  • ダニエルが預言した「反キリストの支配」が始まる「七十週の預言」の最後の一週(七年間)が始まる前に、キリストは突如として空中再臨され、教会は携挙されるのです。ですから、いつそれが起こってもおかしくない時代に私たちは生きているのです。
  • ヨハネの福音書21章19節で、イェシュアがペテロに対して「わたしに従いなさい」と言われたとき、ペテロは「主よ。この人はどうですか。」と言いました。この人とはヨハネのことですが、イェシュアはこう言われました。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたはわたしに従いなさい。」と。この会話で注目したいことは、ヨハネが生きている間に、イェシュアが戻って来られる可能性があったということです。携挙はいつでも起こり得ることを暗に示しています。
  • そのときは刻々と迫っているのです。イスラエルが建国し、神の民であるユダヤ人たちがイスラエルに帰還していることも神のタイムテーブルが進んでいることのしるしです。
  • 心がかたくななために大患難を通らされるユダヤ人たちから見れば、主にあるクリスチャンたち(メシアニック・ジューの人も含めた教会)は、妬みを引き起こすような存在となる時が来るはずです。確かな希望が与えられている教会は、今というこの時に、一人でも多くの方がキリストの福音を信じて永遠のいのちを持つことができるように、福音を宣べ伝えなければなりません。またすでに永遠のいのちを与えられた者は、そのいのちをさらに豊かにしながら、「栄えに満ちた望み」が与えられていることに目を覚ましつつ、互いに励まし合いながら、主の再臨(空中再臨)を待ち望まなければなりません。


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2013.10.13


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