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キリスト者の自由(1)ー主にある自由


14. キリスト者の自由(1)ー「主にある自由」

【聖書箇所】5章1~12節

ベレーシート

※5章1~12節の総論

●今回の部分(5:1~12)は、ガラテヤ書の最も重要な部分(2:15~5:12)の結論的部分です。すなわち、キリストを信じることによって義と認められること、すなわち、キリストにあって与えられる自由こそ、この手紙の主題だからです。異邦人であるガラテヤのキリスト者たちは、割礼を受けて律法を守るようには強いられていないこと。つまり、割礼を受けない異邦人のままで、ユダヤ人キリスト者と同等の立場で、神の民となることをパウロは主張しているのです。ガラテヤ書5章12節に出てくる「あなたがたをかき乱す者たち」とは、割礼を受けて律法を遵守することが神の民の一員になる必須条件として理解していたのです。そうではなく、イェシュア・メシアを信じさえすれば救われる、神の前に義とされることが福音の根本なのです。それは実感するしないは関係なく、そのような存在(天的な存在、天に国籍を持つ存在、自由を得る存在)となるのです。ですから、5章1節でパウロが言っていることが理解できるのです。

●「キリスト者の自由」とは何か。マルチン・ルターはその著『キリスト者の自由』という本の中で、二つのテーゼについて述べています。第一のテーゼは「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない」というもの。第二のテーゼは「キリスト者はすべてのものに仕えるしもべであって、だれにでも服する」というものです。キリスト者が「自由な主人」であると同時に、「仕えるしもべ」であることが成り立つのは、イェシュア自身がそのような存在だからです。ちなみに、ガラテヤ書5章2~12節は第一テーゼに関わり、13~15節は第二テーゼに関わります。

※ちなみに、ルターが「キリスト者の自由」を出版したのは1520年、「ローマ人への手紙講義」(1515~16年)、「ガラテヤ人への手紙講義」(1517年)の出版の後です。つまり、ルターによる宗教改革的著作活動の頂点と言える時でした。

■ 5章1節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙5章1節
キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。

●5章1節は、4章31節にある「私たちは女奴隷の子どもではなく、自由の女の子どもです」という言い換え表現(パラレリズム)です。5章1節の原文では、「自由」を意味する冠詞付きの「エリューセリア」(ἐλευθερία)が文頭に来て強調されています。しかも同類の動詞「解放する、自由にする」を意味する「エリューセロオー」(ἐλευθερόω)が重ね合わされることで、神の恵みの事実が強調されています。

●「キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。」という直説法、そして結果を導く接続詞「ですから、だから、こういうわけで」の「ウーン」(οὖν)があり、二つの現在命令形があります。命令形の前には必ず直接法があるというのが、聖書の特徴です。一つは「あなたがたは堅く立ち続けなさい」(新改訳改定第三版では「しっかり立って」)で、これはキリストのうちに堅く立ち続けることを意味します。もう一つは「あなたがたは負わされ続けてはならない」で、それは再び(二度と、これ以上)奴隷のくびきの罠にかかってはならないことを意味します。「奴隷のくびき」とは、割礼に代表される律法の奴隷のことです。

●パウロのいう「自由」(「エリューセリア」ἐλευθερία)とは、何ものにも束縛されない、自存の状態というのではなく、「神(御父)が、私たちを暗闇の中から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださった」(コロサイ1:13)という事実による自由、とりわけ、ガラテヤ書においては(ローマ書も含めて)、律法からの解放ということなのです。

■ 5章2節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙5章2節
よく聞いてください。私パウロがあなたがたに言います。もしあなたがたが割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに、何の益ももたらさないことになります。

●冒頭の「イデ」(Ἴδε)は、ヘブル語の「ヒンネー」(הִנֵּה)のように「見る」の命令形です。「見なさい」ですが、ここでは「よく聞いてください」と訳しています。いずれにしても、相手の注意を引くときに用いられます。パウロの断言です。その断言の理由を示す接続詞「ホティ」(ὅτι)の後に、「もし・・なら(「エアン」ἐὰν)、何も・・ない(「ウーデイス」οὐδὲν)」の構文があります。「もしあなたがたが割礼を受ける(現在形)なら、キリストはあなたがたに、何の益もたらさないであろう(未来形))とパウロは言っています。割礼を受けることで律法を守っているように見せかけて、人に良く思われたいと考えているか、それともキリストの恵みに頼るのか、パウロはガラテヤ人に二者択一を迫っています。

■ 5章3節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙5章3節
割礼を受けるすべての人に、もう一度はっきり言っておきます。そういう人には律法全体を行う義務があります。

●接続詞「デ」(δὲ)は「しかし」とも「そこで」とも訳せます。ユダヤ人キリスト者であっても、異邦人キリスト者であっても、「割礼を受けるすべての人」に対して、パウロは「もう一度(再度)はっきり言っておきます」とあります。原文は「私は宣言します」(「マルトュルマイ」μαρτύρομαι)です。その理由を示す接続詞「ホティ」(ὅτι)があり、その内容は、「割礼を受けるすべての人」は「律法全体を行なう義務がある」からだとしています。つまり、割礼は救いのために不可欠であると考えている人に対して、パウロは律法の要求は割礼それ一つだけでなく、「律法全体を行なう義務がある」としています。では律法全体を行うならそれでよいのかと言えば、決してそうではありません。そもそも律法によってはだれも義とされないからです。パウロの断言は次節の4節において、より明確です。

■ 5章4節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙5章4節
律法によって義と認められようとしているなら、あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。

●ここには二つの動詞があります。「~から断ち切られた」(「カタルゲオー」καταργέω)と「~から落ちた」(「エクピプトー」ἐκπίπτω)。「~から」離れ(=断ち切られ)、「~から」落ちたのかと言えば、前者は「キリストから」、後者は「恵みから」です。後者は「から」を示す前置詞「アポ」(ἀπὸ)が省略されていますが、いずれも「ἀπὸ+属格の名詞」で、同義的パラレリズムです。主語は「律法によって義と認められようとしているあなたがた」です。

●「離れる、断ち切られる」と訳された「カタルゲオー」καταργέω)は「無用にする、役に立たないようにする」、あるいは「縁もゆかりもないものとされる」という意味で、その結果、「捨てる、消滅させる」という意味合いを持つ語彙です。一方の「落ちる」と訳された「エクピプトー」(ἐκπίπτω)は航海用語で、「正しい航路からはずれて流され、その結果として座礁する」という意味があります。律法によって義と認められようとすることはまったく良いことなしなのです。

■ 5章5節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙5章5節
私たちは、義とされる望みの実現を、信仰により、御霊によって待ち望んでいるのですから。

●接続詞「ガル」(γὰρ)は文の終わりに「~から」とあるので、一見訳されているように見えますが、ここはヘブル語の「キー」(כִּי־)のように、「まことに」という意味で、「まことに、私たちは、義とされる望みの実現を、信仰により、御霊によって待ち望んでいるのです」とした方が自然です。「待ち望んでいる」と訳された「アペクデコマイ」(ἀπεκδεχόμαι)は三つの部分から成る語彙で、「アポ」(ἀπό)『離れて』+「エク」(ἐκ)『外に出て』+「デコマイ」(δέχομαι)『迎える』で、一日(いちじつ)千秋(せんしゅう)の想いで)「熱心に待ち望む」ことを意味します。フランシスコ会訳は「待ちこがれている」としています。この語彙はローマ書8章19, 23, 25節にも使われており、待ち望む気持ちが非常に強いことを表しています。

●神の前に「義とされること」は、私たちが信仰をいただいたときにすでに成就しているのですが、同時にキリストの再臨におけることとして将来のことでもあるのです。「義認」の信仰は「すでに」と「いまだ」の終末論的緊張関係が存在します。この箇所には「義とされる望みの実現」と訳されていますが、原文には「実現」を意味する語彙はありませんが、この表現の中にそのことが言い表されています。しかも、それに加えて、「いまだ」を意味する終末論的実現を「熱心に待ち望む」信仰にそれが示されています。

■ 5章6節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙5章6節
キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。

●6節の「ガル」(γὰρ)は理由を示す接続詞で「なぜなら」の意味。「キリスト・イエスにあって大事なのは」の「大事」という語彙はありません。原文では「キリスト・イエスにあっては、割礼も無割礼も何の益にもならず、むしろ(ἀλλὰ)、愛によって働く信仰こそ益となるのです」となっています。「愛によって働く信仰」の「働く」と訳されたギリシア語は動詞「エネルゲオー」(ἐνεργέω)の分詞で、「自ら力を発揮する」という意味です。つまり、キリストに対する愛によっておのずと働きを発揮する信仰こそが益となるということです。ちなみに、新共同訳は「愛の実践に基づく信仰」と訳していましたが、聖書協会共同訳(2018)では「愛によって働く信仰」と改訳されています。

●「すでに」と「いまだ」の緊張関係において、「義とされる望みの実現」において益となるのは、「愛によって働く信仰」だけが益となることを強調しようとしています。パウロは前節において「望み」(希望)を取り上げ、本節においては「信仰」と「愛」を取り上げています。使徒パウロはⅠコリント書13章の中で、「いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です」(13:13)と述べています。ここには「信仰」「希望」「愛」が語られていますが、なぜ、その中で「愛」が一番すぐれているのでしょうか。それは、神の救いが実現される暁には信仰も希望も不要となり、残るのは愛だけになるからです。その永遠の愛に支えられて初めて信仰と希望は力を発揮するからです。つまり、パウロは「愛によって働く信仰」という表現の中に、神のご計画の終末論的な展望を示しているのです。このことを知ることが最も大切なことであり、割礼を受ける受けないは問題とはならないのです。

●割礼を受けることに安心感を持つことは、クリスチャンが洗礼を受けることにも関係してきます。洗礼はキリストによって救われたことのしるしとして行うもので、救いに必要なものではありません。伝道至上主義の教会では、洗礼者の数が教会の伝道の働きのバロメーターにもなりかねません。イェシュアを信じて洗礼を受けて、教会員の数を増やすことが教会の目標となります。またよく見られたいという体裁のしるしともなり得ます。教会が受洗者数によってその価値がはかられるとしたら、果たしてパウロはどう見るでしょうか。「キリスト・イエスにあっては、割礼の有無は問題ではなく、愛によって働く信仰こそが大事なのです。」(聖書協会共同訳)というパウロの真意を理解しなければなりません。

■ 5章7節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙5章7節
あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたの邪魔をして、真理に従わないようにさせたのですか。

●「走る」(「トレクソー」τρέχω)という語彙はパウロのお気に入りの語彙です。すでにガラテヤ書2章2節でも「私が今走っていること、また今まで走ってきたことが無駄にならないように、異邦人の間で私が伝えている福音を人々に示しました」と述べているように、福音の真理に従うことに「専心する」という意味で使われています(未完了形)。ガラテヤのキリスト者たちが神の真理に従うことに専心していたにもかかわらず、「あなたがたの邪魔をしたのはだれか」「あなたがたを妨害したのはだれか」と問うています。

●これが10節、12節で言及されている「あなたがたを動揺させる者」(10節)であり、「あなたがたをかき乱す者たち」(12節)であり、律法によって義と認められようとする者たちです。そうした律法主義者に対して怒りを向けています(7~12節)。

■ 5章8節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙5章8節
そのような説得は、あなたがたを召された方から出たものではありません。

●「説得」と訳された「ペイスモネー」(πεισμονή)は「勧誘、勧め」とも訳されます。

■ 5章9節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙5章9節
わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませるのです。

●イェシュアも「パン種」のことを語っています(マタイ13:33)。パン種は御国を害する誤った教えのことであり、なんとしても取り除かねばならないものです。なぜなら、「わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませる」からです。エルサレムから来て割礼の必要をとなえたユダヤ人キリスト者は少なかったかもしれませんが、たとえ少数でも影響は大きかったのです。これは現代のキリスト教会にも言えることです。

■ 5章10節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙5章10節
あなたがたが別の考えを持つことは決してないと、私は主にあって確信しています。しかし、あなたがたを動揺させる者は、だれであろうと、さばきを受けます。

●10節は「私はあなたがたのことで確信しています」で始まっています。ガラテヤ人の人々に対して、パウロは「主にあって」(「エン・キュリオー」ἐν κυρίῳ)、確信していると述べています。確信の内容は「あなたがたが別の考えを持つことは決してないこと」です。パウロとガラテヤ人との関係回復の道は、相手を主にあって信頼することしかないからです。不信感は不信感を生み、信頼は信頼を生むからです。

●一方、「あなたがたを動揺させる者は、だれであろうと、さばきを受けます」。「動揺させる者」とは「ホ・タラッソー」(ὁ ταράσσω)で、12節の「かき乱す者」は「アナスタトオー」(ἀναστατοω)です。語彙は異なりますが、意味はほとんど同じです。そして、そのような者は「さばきを受ける」とあります。


■ 5章11節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙5章11節
兄弟たち。もし私が今でも割礼を宣べ伝えているなら、どうして今なお迫害を受けているのですか。それを宣べ伝えているなら、十字架のつまずきはなくなっているはずです。

●「十字架のつまずき」というフレーズが出て来ます。「つまずき」と訳された語彙は「スカンダロン」(σκάνδαλον)で、人を不快にして憤りを引き起こさせるものという意味で、パウロは救われるためには信仰が不可欠であり、割礼は不必要としたことから、ユダヤ人キリスト者にとってはつまずきとなったのです。割礼が必要と言っていれば、誰もパウロを迫害しなかったと言っているのです。

■ 5章12節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙5章12節
あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと切除してしまえばよいのです。

●この12節はとても厳しく激しい言葉です。ここでの「カイ」(καὶ)は接続詞ではなく、副詞として「いっそのこと」と訳されています。「切除してしまえばよいのです」の「切除する」(「アポコプトー」ἀποκόπτω)は「去勢する」という意味です。申命記23章1節によれば、「睾丸のつぶれた者、陰茎を切り取られた者は【主】の集会に加わってはならない。」(新改訳2017)とあります。

●12節の言葉は、割礼を問題視する律法主義者たちに対して、それほど割礼が重要不可欠なら、いっそのこと、その割礼の対象となる男性の性器を「切断してしまえばよい」というパウロの痛烈な皮肉と激しい怒りが込められているのです。

2019.10.24


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