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キリスト者の自由(2)ー自由における倫理


15. キリスト者の自由(2)ー「自由における倫理」

【聖書箇所】5章13~16節

ベレーシート

※5章13~16節の総論

●12節でパウロは割礼に代表されるユダヤ人キリスト者の律法主義者に対して、激しい、痛烈なことばをあびせています。私たちはその意味することをよく悟れるように、御霊の助けをいただかなくてはなりません。パウロの福音の真理は神の啓示によるものです。まだまだその奥行きのすばらしさに届いているとは言えません。パウロはその福音の真理を伝えようとして「力を尽くして走った人」(2:2)であると同時に、ガラテヤ人にもそれを求めました(5:7)。「走る」とは「専心する」ことを意味します。聖書全体を通して、神の偉大な福音の奥の深さを知れる者となりたいものです。

●ところで、13節以降では、「兄弟たち」に呼びかけています。そこでは自由を与えられたキリスト者が如何に生きるべきかが問われます。そして、与えられた自由が愛へと押し出されています。以後、「肉」(「サルクス」σάρξ)と「愛」(「アガペー」ἀγάπη)が対立させられます。律法全体が「愛」という一語で全うされるという意味を考えながら、今回のわずか3節分を考えてみたいと思います。

【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙5章13~15節
13 兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。
14 律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。
15 気をつけなさい。互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。


■ 5章13節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙5章13節
兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。

●訳されていませんが、冒頭に「ガル」(γὰρ)があります。これは理由を示す接続詞ではなく、「まことに、確かに」の意味で、「確かに、あなたがたは召されたのです」。その目的は何かと言えば、「自由を与えられるために」です。原文は「エピ・エリューセリア」(ἐπ' ἐλευθερίᾳ)で、「自由のために」の意。「メー」(μὴ)・・「アッラ」(ἀλλὰ)は、「~とせず、かえって」の意味。「その自由を肉の働く機会としないで、(かえって)」愛をもって(愛のゆえに)互いに仕え合いなさい(仕え合い続けなさい)」(現在命令形)ということです。ここにも「直接法+命令形」の構文があります。

●このパウロの呼びかけに心を留めてみたいと思います。「あなたがたは自由を与えられるために召された」のは、「愛をもって互いに仕え合うため」だということです。この論理はどの視点から見ると結びつくのでしょうか。この論理が成立するために、パウロは後の16節で「御霊によって歩みなさい」と諭しています。その前に、私たちは何によって自由とされたかを振り返ってみたいと思います。

●これまでパウロが論証してきたのは、以下のことです。

【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙2章16節
しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。

●そしてパウロは「律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるため」に、

【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙2章19~20節
19・・・私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。20 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。

●パウロの言う自由とは、「私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰」とあるように、「信仰による主体的な、自発的な自由」です。それを換言するなら、イェシュアの十字架の死と復活によって、自分がイェシュアと結びつく、つまりイェシュアとひとつ(「エハード」אֶחָד)になることでもたらされる自由(解放)なのです。とすれば、それは主にある者たち同士(兄弟姉妹)の関係においても「エハード」אֶחָד)とならなければなりません。なぜなら、それが神のご計画の目的にかなっているからです。「愛」とは神のご計画の実現に与り、それを喜ぶことを意味するからです。

●イェシュアの十字架の前の「大祭司としての祈り」と言われるヨハネの福音書17章を見てみましょう。そこには御父と御子とが「一つ」であるように、弟子たちも「一つ」であるように祈っています。また、それは御父と御子との交わりの中に弟子たちも入ることによる「一つ」です。この祈りの特徴は「一つ」(「エハード」אֶחָד)です。なぜなら、これが神のご計画における目的であり、神の家の本質だからです。それゆえ、「愛をもって互いに仕え合う」ことが求められるのです。そして、それを可能にしてくれるのが御霊なのです。私たちの肉にはそれができません。なぜなら、肉は「罪と死の律法」に支配されているからです。

●ユダヤ人キリスト者の律法主義は、「罪と死の律法」に支配されているとパウロはみなしていました。ローマ書8章2節にある「律法」と訳されたギリシア語の「ノモス」(νόμος)は、新改訳改定第三版まで、「原理」と訳されていました。しかしヘブル語では「教え」を意味する「律法(トーラー)」です。かつて「善悪の知識の木」から取って食べたアダムとその子孫(私たちも含めて)は「罪と死の律法(トーラー)」に支配されています。ところが、「罪と死の律法(トーラー)」(=この世の幼稚な教え、文字に仕える死の務め、消え去る栄光、律法主義、人間の言い伝え、義の教えに通じていない乳飲み子)に縛られている者たちが、「いのちの御霊の律法(トーラー)」によって生きるように解放され、自由にさせられたのです。これがガラテヤ書のいう「信仰による自由」なのです。このことを、パウロはローマ書8章で詳しく語っています。

【新改訳2017】ローマ人への手紙8章2~11節
2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。
3 肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。
4 それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。
5 肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。
6 肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。
7 なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。
8 肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。
9 しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。
10 キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。
11 イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。


(「サルクス」σάρξ)とは、パウロによれば、「罪と死の律法(トーラー)」と一つになっている者のことです。これは最初の人アダムがサタンにそそのかされて「善悪の知識の木」から取って食べたことによって、それとひとつ(אֶחָד)になっている姿で、神に逆らう性質です。律法に従おうとする者は、「罪と死の律法(トーラー)」の支配にあるために、自分には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないのです。「しかし、肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。」と述べています。パウロの言う「自由」の積極的な面とは、「御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるため」なのです。

●「罪と死の律法(トーラー)」に固執する者は「肉(サルクス)に従う者」です。しかし、「いのちの御霊の律法(トーラー)」は神の律法を全うさせるのです。神のトーラーにおける「愛する」ということは、隣人と「一つになる」ことを意味します。つまり、御国の民が御霊によってお互いが「エハード」(אֶחָד))となることを意味します。御父と御子が一つであるように、御国の民たちも一つであることが神のみこころであり、神の喜びです。それは私たちの生来の力ではなく、「罪と死の律法(トーラー)」でもなく、ただただ御霊の力によるのです。

■ 5章14節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙5章14節
律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。

●原文の14節の冒頭には理由を示す接続詞「ガル」(γὰρ)があります。つまり、「なぜなら(というのは)、律法全体は・・・という一つのことばで全うされるから」です。「全うされる」と訳された語彙「プレーロオー」(πληρόω)は、「満たす、完成・成就する、集約する」の現在受動態です。つまり、律法(トーラー)全体はこの一言に集約されているということです。この「一言」の中身は、レビ記19章8節にある「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」となっています。原文では「あなたの隣人を自分自身のように愛するようになる(未来形)」ことによって律法が満たされるのです。特に、マタイの福音書には、「このすべての出来事は、主が預言者たちを通して言われたことが成就するためであった」というフレーズで、この「プレーロオー」(πληρόω)が頻繁に用いられています。この語彙は86回中、パウロは23回も使っています。しかし最初にこの語彙を使った人は、パウロではなく、「律法の成就者としてのイェシュア」です。

【新改訳2017】マタイの福音書 5章17 節
わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。

●「律法」と聞くと、法律とか、規則とか、守り行う、違反、罰則とかと理解されがちですが、「律法(トーラー)」には預言的側面があるのです。ということは、律法には神と神の民との契約規定があって、その契約規定によって約束(預言)がなされているのです。つまり、神のご計画は、まず預言によって語られ、それが世の終わりに成就されなければなりません。

■ 5章15節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙5章15節
気をつけなさい。互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。

●15節には逆説の接続詞「デ」(δὲ)があります。「エイ」(εἰ)は「もし・・なら」の意味で、「もしあなたがたが互いにかみつき、食い合ったりしているなら」、「~しないように気をつけなさい」(「ブレポー・メー」βλέπω μὴの現在命令形)という構文となっています。「~しないように」とは、「互いの間で滅ぼされないように」ということです。新改訳は、あえて「気をつける」ことを強調する訳となっていますが、原文の流れとしてはこうなります。
「しかし、もしあなたがたが、互いにかみつき、食い合っているなら、互いの間で滅ぼされないように気をつけ続けていなさい。」

●パウロの言う文脈を考えると、ここは一般的な隣人愛ではなく、あくまでも一義的には「真理によって聖(きよ)め別(わか)った者たち」のことのように思われます。

●13節でもすでに「その自由を肉の働く機会としないで」と注意を与えていますが、15節でも、再度、「互いの間で滅ぼされないように気をつけなさい」と命じています。「罪と死の律法」の中で互いにかみつき合うならば、互いに「滅びてしまう」ことを警告しているのです。

●そこで次回は、「御霊によって歩み続ける」ことの重要性を考えていきたいと思います。

2019.10.31(宗教記念日)

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