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キリスト者の自由(3)ー御霊によって歩む


16. キリスト者の自由(3)ー「御霊によって歩む」

【聖書箇所】5章17~26節

ベレーシート

※5章17~26節の総論

●13節で「あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。」とあります。つまり、その自由は肉によって容易に失われ得ること、むしろ愛をもってキリスト者たちが愛し合うことを命じています。どうしたらそれが可能になるのでしょうか。16節以降にその答えがあります。

●今回の16~26節までに、「御霊」ということばが実に7回も出てきます。この御霊こそが肉に対抗し、それに打ち勝たせて、義の実を結ばせてくださるのです。キリストを信じる者には御霊が与えられますが、その御霊の継続的支配が、私たちのうちに自由を保って下さるのです。キリストにあって自由を与えられた者ですが、私たちのからだが完全に贖われるまでは、肉との戦いはあるのです。「肉」(「サルクス」σάρξ)という語彙は5回、「御霊」(「プニューマ」πνεῦμα)という語彙は7回です。まさに「肉」と「御霊」の戦いです。今回は、(1)「御霊によって歩みなさい」(16~18節)、(2)「御霊の実」(19~23節)、(3)「御霊によって進もう」(24~26節)という区分に沿って学びたいと思います。

【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙5章16~26節
16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。
17 肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。
18 御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。
19 肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、
20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
21 ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。
22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23 柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。
24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。
25 私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。
26 うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりしないようにしましょう。


■ 5章16節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙5章16節
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。

●原文には「そこで私は言います」(「レゴー・デ」Λέγω δέ)という、前の文をより限定する接続詞「デ」(δέ)があります。その内容は、「御霊によって(πνεύματι)歩み続けなさい(現在命令形)」。「そうすれば」(「カイ」καὶ)、「肉の欲望を満たすことは決してありません」と言い切っています。不変化詞の「ない」を意味する「ウー」(οὐ)と「メー」(μὴ)を重ねることで、「決してない」と表現しています。ヘブル語にも同じ動詞を二重にして否定することで強調する表現があります。神の言う食べると「必ず死ぬ」とか、蛇の言う食べても「決して死にません」(創世記3:4)がそれです。

●「歩みなさい」は「ペリパテオー」(περιπατέω)」で、一般的な「歩く」という意味です。信仰の父と言われたアブラハムの不信仰による失敗の後で、【主】はアブラムに現われ、こう言われました。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」(創世記17:1)と。そこでの「歩み」とは、アブラハム自身が自覚的・自発的・主体的に主の前を歩みなさい(ヒットパエル態)という命令です。キリスト者も同様に、「歩み続けなさい」と命じられているのですが、アブラハムと異なる点は、「御霊によって」という点です。御霊はキリストを信じる者に常に寄り添ってくださっている方で、「キリストの霊」です。私たちが神の子として正しい歩みをするために、与えられている助け主です。ですから、そのことを信じて、助け主がおられることをいつも意識し、その方と共に歩み続けなさい。そうするならば、「肉の欲望を満たすことは決してない」と言い切っているのです。

●ヘブル語の「歩む」(「ハーラフ」הָלַךְ)は、神の前における人間のすべての行為を要約する統括用語なので、まさに「生きる」と同義です。人は何かを拠り所にして生きている存在です。その拠り所となっているのは、突き詰めるなら、「霊」か「肉」かのいずれかなのです。前者は「いのちの御霊の律法(トーラー)」によって生きる(歩む)者であり、後者は「罪と死の律法(トーラー)」によって生きる(歩む)者です。その戦いについてパウロは述べようとしています。

■ 5章17節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙5章17節
肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。

●理由(なぜなら、というのは)を示す接続詞「ガル」(γὰρ)があります。その理由とは、「肉」が望むことと「御霊」が望むことが、それぞれ全く正反対で、対立しているからです。よく言われることですが、クリスチャンになると以前よりも苦しくなったというのは、この戦いがその人のうちで起こっているからです。もし、その戦いを避けるならば、自動的に元の状態。すなわち、自分の欲望を追求する「肉」の歩みに戻ってしまいます。

●あるキリスト者の相談。
「神さまって本当にいるんですか。教会に通って信じたんですけど、ひとつも私の祈りを聞いてくれません。信じていない人の方が自由にやっているし、社会でも、ごまかしながら、結構うまくやっているように見えます。そういうのを見ていると、信じていることがばからしくなってきます。本当に、このまま神を信じていく価値があるのでしょうか。今は教会にも行けず、足が遠のいています。・・・」

●まさにこれは、その人の内で「肉」と「御霊」が互いに対立していて、肉の方が勝っている状態になっています。キリストを信じることがその人の内にどのような戦いをもたらすようになるのか、次のステップに神が導こうとされているように思われます。サタンに惑わされて、信仰を捨てないように祈るばかりです。

■ 5章18節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙5章18節
御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。

●16節と同様、再び、「御霊によって」(「プニュマティ」πνεύματι)が強調されます。16節と異なる点は、16節の「御霊によって歩む」というのは能動的表現ですが、18節の「御霊によって導かれる」というのは受動的表現だということです。御霊はイニシアティブをもって、40日間、イェシュアを荒野での悪魔の試みに「導かれ」(「アゴー」ἄγω)ました。イェシュアのみならず、「神の御霊に導かれる人はみな、神の子ども」なのです(ローマ8:14)。

●原文は「しかし、もしあなたがたが・・であるならば、あなたがたは・・・でない」の仮定の構文ですが、「導かれている」が現在形であることから、接続詞の「エイ」(εἰ)を「・・なのだから、・・あるからには」と直接法で訳すことが可能です。つまり、「しかし、あなたがたは御霊によって導かれているのだから、あなたがたは律法の下にはいません。」というようにです。これは25節にも言えます。

●18節の「律法」は「律法主義」の意味です。律法主義での「律法」はただ命令するだけで、それを実行する力を与えてはくれませんが、それに対して、いのちの律法はそれを行なう賜物としての御霊と不可分です。直接法とは「神が~~のことをしてくださったという事実」を含んでいるのです。律法主義では律法は単に命令法で語られますが、真のトーラーは直接法と命令法で語られるのです。そこが大きな違いなのです。

■ 5章19~21節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙5章19~21節
19 肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、
20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
21 ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。

●19~21節には、15の「肉のわざ」がリストアップされています。それらは、「ファネロス」(φανερός)の複数形で、「隠れた、秘密の」の正反対の意で、「目に見える、公然な」の意味です。
(1)「淫らな行い、汚れ、好色」は性的な悪。
(2)「偶像礼拝、魔術」は宗教的な悪。
(3)「敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ」は人間関係にかかわる悪。
※ビザンチン・テキストには、「ねたみ」の後に「殺人」があります。また、「妬み」は「党派心」と同義。
(4)「泥酔、遊興」はにかかわる悪。

●これらの諸悪の中で最も根本的な悪は、宗教的な悪である「偶像礼拝」です。自分は偶像を拝んではいないと思っていたとしても、その人自身が自分の偶像(神)なのです。エデンの園で「善悪の知識の木」を食べたアダムは、自分ですべての善と悪を決められる者となったのです。それは神になったことを意味します。すべては神との関係にかかわることから「肉のわざ」が出てくるのです。

●パウロは「このようなことをしている者たちは神の国を相続できません」と言っています。「このようなことをしている」の「している」と訳された「プラッソー」(πράσσω)は、「する、行なう」を意味する「ポイエオー」(ποιέω)とは異なり、習慣的にしていることを意味する語彙です。また。「相続できない」は未来形です。つまり、世の終わり(キリストの再臨時)には、「神の国を相続できない」ということです。パウロの手紙の中で「神の国を相続できない」と明記されている箇所が以下にあります。

【新改訳2017】Ⅰコリント人への手紙 6章9 ~11節
9 あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、
10 盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません
11 あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。

【新改訳2017】Ⅰコリント人への手紙15章50~53 節
50 兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません
51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。
52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
53 この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。

●パウロは「‥のような者」は「神の国を相続できない」ということを語ったあとに、「あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」と言うだけでなく、血肉のからだが朽ちない霊のからだに変えられることを奥義として語っています。つまり、神の国を継ぐことができるのは御霊によることなのです。ガラテヤ書においても、その希望が22節以降に語られています。

■ 5章22~23節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙5章22~23節
22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23 柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。

●「実」を表す「カルポス」(καρπός)は新約聖書で66回使われていますが、ガラテヤ書ではここ1回限りです。19~21節の「肉のわざ」の「わざ」(「エルゴン」ἔργον)は複数であるのに対し、22~23節の御霊の実は9つの実が挙げられているにもかかわらず、実としては単数です。これはどういうことでしょうか。それはぶどうの実の一房のようです。それは、
(1) 「愛、喜び、平安」は神とのかかわりにおける実
(2) 「寛容、親切、善意」は人とのかかわりにおける実
(3) 「誠実、柔和、自制」は自分自身に対する実

●この中で大切な実は、(1)の「愛、喜び、平安」という神とのかかわりの実です。なぜなら、神の愛がすべての実を代表し、包括しているからです。「御霊の実」は、あくまでも御霊か信じる者たちのうちにおいて結ぶ実です。私たちは御霊によって実を結ぶことを許された者にすぎません。

■ 5章24節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙5章24節
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。

●接続詞「デ」(δὲ)は「ところで、さて」の意。別の話題を呼び込んで展開しようとしています。「キリスト・イエスにつく者」とは、正確には「キリスト・イエスに属する者たち」です。「属する者」とは「主と一体」(「エハード」אֶחָד)とされることです。その者たちは「自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです」とあるように、すでに「自分の肉を十字架につけてしまった(アオリスト)」のです。

●「」(「サルクス」σάρξ)とは、神(御霊)に反するものすべてを意味します。人間の「血肉」そのものと言ってもよいものです。それを信仰によって、十字架のキリストとともに釘づけしたのです。「数々の情欲や数々の欲望とともに」です。そのことで、キリストとともに「新しいいのち」に生きる者とされているのです。

【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙2章20節
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。


■ 5章25~26節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙5章25節
25 私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。
26うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりしないようにしましょう。

●原文では「もし~なら」(εἰ)による仮定法ですが、18節でもそうであったように、直接法で表現することができます。つまり、「私たちは(今)御霊によって生きているのですから、御霊によって進もうではありませんか。」となります。私たちの生の原理も行動の原理も徹頭徹尾、御霊によって支配されなければなりません。新改訳は「進もう」と訳していますが、「歩く」という意味の「ストイケオー」(στοιχέω)が使われており、原意は「兵士たちのように、列を作って歩く」という意味です。すなわち、「分裂することなく、一致をもって、整列をもって歩む」ということです。そのために、パウロは消極的な表現で、「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりしないで」と付け加えています。原文では「互いに」を意味する「アッレーローン」(ἀλλήλων)が強調されています。これが、「御霊によって歩む」ことなのです。

2019.11.7


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