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サウル王の王位剥奪の真の理由

12. サウル王の王位剥奪の真の理由

【聖書箇所】 15章1節~35節

はじめに

  • サウルの王国が失脚することをすでにサムエルは13章において宣言していますが、その真の理由がなんであるかがアマレクとの戦いにおいて露見されています。
  • 人間的な視点から見るならば、サウルは最初の王であり、模範となるものかせありませんでした。その点、次の王となるダビデはサウルを反面教師として学ぶ面は多かったと言えます。ある意味では、ダビデはサウルによって訓練されたと言えます。その意味では、サウルは気の毒な王であり、同情される面が多くあります。しかし神の視点からするならば、神、預言者サムエルの期待を大いに裏切っしまう面を持っていた王として及第することはできない人物だったのです。

1. 人を恐れるという弱さ

  • サウルが人を恐れる弱さを持っていたことが王としての資質に欠けている要因でした。すでに13章のペリシテ人との戦いにおいても、民が自分から離れていくのを恐れたサウルはサムエルを待つことができずに、人間的な手段で民心をつなぎとめようとしました。戦いの勝利を補修する方は主なる神であり、その主に対する信頼の欠如は「人を恐れる」ところから来ています。
  • 15章のアマレクとの戦いにおいてサウルが取った行動も、すべて民を恐れることから来ています。サウルの言葉を拾ってみましょう。

    (1) 「しかし民は・・・」(21節)
    (2) 「民を恐れて彼らの声に従ったのです」(24節)
    (3) 「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください」(30節)

  • 神から権威を与えられて人の上に立つ者は、神を恐れ、人を恐れてはならないのです。箴言にも「人を恐れるとわなに陥る」(29:25)とあります。ペリシテ人との戦いでも民心をつなぎとめようとしたサウルは、アマレク人との戦いにおいても、民を恐れたのです。そのために、主のことばに従うことができませんでした。イスラエルの王の理念は、あくまでも王は神の代理者としての存在であって、イスラエルの真の王は神なる神であることを指し示すことでした。しかし、その理念から全く外れたことをサウルはしてしまったのでした。サムエルが示したイスラエルの王としての理念に、サウル王はふさわしくなかったのです。

2. サムエルの悲しみ

  • 15:35「サムエルはサウルのことで悲しんだ」とあります。預言者サムエルは最初はサウルに対して「怒って」いましたが、最後には「悲しみ」に変わっています。
  • 「悲しんだ」と訳されている原語は「アーヴァル」(אָבַל)の強意形のヒットパエル態で、ここでは「泣き悲しむ、慟哭する、悲しみ痛む」という意味で使われています。似たような用法では、ヤコブが最愛の子ヨセフが獣に引き裂かれて死んだをことを聞かされたときに何日も「泣き悲しんだ」とあります(創世記37:34)。金の子牛を造ったことで主は民を打たれたことがありますが、そのあとに主はモーセに「乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせよう。しかしわたしは行かない」と言われたことを知った民は、「悲しみ痛んだ」とあります。主の怒りを感じ取ってだれひとりとして飾り物を身に着ける者はいなかったとあります(出33:4)。また、約束の地に斥候として言った者たちがとても行けないということを聞いた民たちに対して、主は怒り、自分のとがを負わなければならないとして、カレブとヨシュアを除くすべての者がしななければならないと聞かされた時に、民は「ひどく悲しんだ」とあります(民14:39)。

3. 神は悔いた

  • 第一サムエル15章には4回も使われている同じ動詞があります。それは「悔いた」と訳された動詞です。原語は「ナーハム」(נָחַם)で、本来は「慰める」という意味の動詞ですが、「悔いた、悔まれた」という意味で使われています。

【11節】
「わたしはサウルを王に任じたことを悔いる。彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかったからだ。」
【29節】
「実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔いることもない。この方は人間ではないので、悔いることがない。」
【35節】
「・・・主もサウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた。」

  • 本来、悔やむことも心変わりすることもない神が、「悔やまれた」ということは異常なことです。神が「悔やまれた」ことが他にもあります。それはノアの洪水によって滅ぼす前に、「主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた」とあります(創世記6;6)。
  • 神が「悔やまれた」ことは尋常ではないのですが、期待していたことが裏切られたという思いが全面に表されています。同じ動詞で「慰める」と訳される場合は、期待していた以上に力づけられたり、励まされたりした場合の表明です。「慰める」のも「悔やまれる」のも同じ感情の裏表ということがてきます。

4. 付記

(1) 「裂く」という語彙
27節のサムエルの上着のすそが「裂けた」という動詞と、28節の「あなたからイスラエル王国を引き裂いて」の「引き裂く」は同じ語彙です。サムエルの上着のすそが「裂けた」ことが、「イスラエルの王国を引き裂く」ことの象徴的行為として表されています。「裂けた」という動詞はヘブル語の「カーラー」(קָרַע)です。聖書では「着物を引き裂くこと」と「嘆き悲しむこと」が、しばしばワンセットで用いられます。

(2) 33節に、サムエルがアマレクの王アガクを「ずたずたに切った」(岩波訳「斬り殺した」)という表現はきわめて印象的です。「八つ裂きにした」とも訳されますが、聖書ではここにのみ使われている語彙です。


2012.6.9


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