****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

シオンを慰める主

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44. シオンを慰める主

【聖書箇所】51章1~11節

ベレーシート

  • イザヤ書51章を二つに分けて瞑想します。一つは1~11節、もうひとつは12~23節です。それぞれ語っている人称は、

    Aー(1) 1~8節
    主ご自身。
    Aー(2) 9~11節
    主のことばに応答して語る預言者イザヤ。

    Bー(1) 12~20節
    主ご自身。
    Bー(2)17~23節
    預言者イザヤ。

  • 今回は、Aの部分(1~11節)のみを取り上げます。

1. 「わたしに聞け」

  • 1~2節において主は、ご自身の民に対して「あなたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ」と命じます。そして、「父アブラハムとあなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。」と促します。つまり、彼らのルーツであるアブラハムの召しと彼に対する主の約束が果たされてきたことに目をとめることを命じています。
  • 神がアブラハムに対してなされた約束(子孫繁栄、土地の賦与、万民祝福)は必ず実現するということを思い起こさせています。この約束は、主の一方的な約束であり、イスラエルの民のいかんにかかわらず実現される約束なのです。この預言が語られる先には、神の約束を忘れて不信仰になった神の民が、主によって与えられた地を喪失してバビロンの地に捕囚となる運命にありました。にもかかわらず、神はそのすべての廃墟となったシオンを慰め(回復し)ようとしているのです。単に彼らを回復するだけでなく、ここにはそのことを越えた慰め、すなわち、地をかつてのエデンの園のようにし、楽しみと喜びを回復してくださることが語られています。「楽しみと喜び」というフレーズは終末における回復に見られる特徴的な表現です。
  • 4~8節はメシア王国の預言です。その内容は主の民が主の教えを心に持ち、国々の民(異邦人)の光となる、というものです。そのような位置への回復が預言されています。特に7節の「心にわたしのおしえを持つ民」とは、エレミヤが預言した「新しい契約」を結ぶことになる者たち(エレミヤ31:31~34で預言されている)を示唆しています。

    【新改訳改訂第3版】エレミヤ書31章31節、33~34節
    31 見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。

    33 ・・・わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
    34 そのようにして、人々はもはや、『【主】を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。──【主】の御告げ──わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」};


2. 「さめよ、さめよ、力をまとえ。主の御腕よ。」(「目覚めのテーマ」)

  • 1~8節の主の語りかけに対して、預言者イザヤが9~11節で「さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ。」と呼びかけ、「目覚めのテーマ」が始まります。ここでは「主の御腕」に向かってイザヤが語りかけますが、17節では主が「エルサレム」に向かって、52章1節でも主が「シオン」(エルサレム)に向かって語られます。
  • ここにもヘブル的な修辞法の一つがあります。それは同じ言葉を重ねることで意味を強調する修辞法です。ここでは「さめよ。さめよ」―「ウーリー(עוּרי)・ウーリー(עוּרי)」という言葉を重ねています。「ウーリー」は「目覚める、覚醒する、奮い立つ」を意味する「ウール」(עוּר)の命令形です。「ウール」はイザヤ書の特愛用語で18回使われています。50章4節では、主が主のしもべに対して朝ごとに「呼びさます」ところにこの動詞が使われています。

【新改訳改訂第3版】 イザヤ書51章5節
5 わたしの義は近い。わたしの救いはすでに出ている。わたしの腕は国々の民をさばく。島々はわたしを待ち望み、わたしの腕に拠り頼む。


【新改訳改訂第3版】 イザヤ書51章9~10節
9 さめよ。さめよ。力をまとえ。【主】の御腕よ。さめよ。昔の日、いにしえの代のように。ラハブを切り刻み、竜を刺し殺したのは、あなたではないか。
10 海と大いなる淵の水を干上がらせ、海の底に道を設けて、贖われた人々を通らせたのは、あなたではないか。

  • かつて、出エジプトの紅海渡渉において主の御腕による救いのわざが現わされたように、主の御腕が力をまとうことで、主に贖われた者たちがシオンに帰還することが語られています。そのときには、神はイスラエルの民のために、海ではなく、川を枯らして道を備え、山を海に移して彼らを導かれるのです。イェシュアがいちじくの木を枯らされたことに驚いた弟子たちに対して、イェシュアは「たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ。』と言っても、そのとおりになります。」(マタイ21:21)と言われました。そのようなことが、贖われたイスラエルの民がシオン(エルサレム)に帰還する時に実際に起こると信じます。
  • また、そのような奇蹟が起こって(千年王国が実現して)帰還する彼らは、「喜び歌いながらシオンに入り」、「その頭にはとこしえの喜びをいただく」(11節)のです。「楽しみと喜び」は、3節の「そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある」とも呼応します。まさにここに主の慰めがあります。
  • イザヤ書51章で語られていることは、バビロン捕囚から解放されて神の民が帰還する出来事をはるかに越えた、終末の救いが語られているのです。しかもそれは、神の視点からするならば、すみやかになされるのです。残念ながら、新改訳はそのことばを訳していませんが、新共同訳聖書は「瞬く間に」(「レガ」רֶגַע)と訳しています(4節)。

3. ヘブル語特有の修辞法「パラレリズム」を学ぶ上で最高のテキスト

  • イザヤ書51章1~11節は、ヘブル語特有の修辞法である「パラレリズム」を学ぶ上で最高のテキストです。この修辞法を知ることによって、ヘブル語の同義語、類義語を学ぶことができます。

    以下の箇所はすべて同義的パラレリズムによって記されているからです。
    (1) 5節「わたしのは近い。わたしの救いはすでに出ている。」
    (2) 6節「しかし、わたしの救いはとこしえに続き、わたしのはくじけないからだ。」
    (3) 8節「しかし、わたしのはとこしえに続き、わたしの救いは代々にわたるからだ。」

  • 「義」(「ツェデク」צֶדֶק)と「救い」(「イェシューアー」יְשׁוּעָה)は同義です。しかもすべてに「わたしの」という所有格代名詞がついています。「義」(「ツェデク」צֶדֶק)は、倫理的・道徳的正しさ、あるいは政治的・社会的な正義というより、本来的には「神との正しいかかわり」を意味する語彙です。そうしたかかわりを持つ者のことを、イザヤ書50章ではやはり同義的パラレリズムによって以下のように表現しています。

    (1) 1節「義を追い求める者」(原文は複数形)=「主を尋ね求める者」(原文は複数形)。動詞「追い求める」(「ラーダフ」רָדַף)の分詞と動詞のピエル態の「尋ね求める」(「バーカシュ」בָקַשׁ)の分詞形で、いずれも名詞として使われています。
    (2) 7節「義を知る者たち」(原文は複数形)=「心にわたしのおしえを持つ民」(原文は単数)

  • これらの者たちに、主は、「(あなたがたは)わたしに聞け」(「シムウー・エーライ」שִׁמְעוּּ אֵלַי)と命じています。旧約聖書では「聞く」(「シャーマ」שָׁמַע)は「従う」と同義です。
  • 以下の表は、一つの動詞でも翻訳によって表現が異なったり、あるいはだれが訳しても変わらないものがあるのに気づかされます。いずれにしても、「見る」「聞く」といった動詞は、常に神の「義」と「救い」に対する信仰と密接な関係にあるのです。

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2014.10.25


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