****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

シメオンの賛歌「ヌンク・ディミティス」

6. シメオンの賛歌 「ヌンク・ディミティス」

幼子を抱くシメオン

はじめに

  • シメオンの賛歌を瞑想するに当たって、ルカが注目している二人の老預言者―シメオンとアンナーについて目を留めてみたい。みどり児イエスの母の律法の定めるきよめの期間が満ちて(このきよめの期間は男子の場合は40日間、女子の場合はその倍の80日間)、ヨセフとマリヤは幼子イエスを主にささげるためにエルサレムに行きました。初子はすべて主に聖別された者として主にささげることがならわしであったからです。
  • エルサレムを訪れたこの幼子に対して注意を引いた人物がシメオンとアンナでした。シメオンは「正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた」(2:25)人であり、メシアを見るまでは「決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた」(2:26)人でした。シメオンが幼子イエスを取り上げて主を賛美し、預言をしたときに、ちょうどそこにアンナという女預言者もいて、神に感謝をささげています。シメオンのような賛歌は記されてはいませんが、彼女もまた「エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々」に幼子のことを語ったとあります(2:38)。
  • 「イスラエルの慰められることを待ち望む」ことと、「エルサレムの贖いを待ち望む」こととは同義です。当時のイスラエル、その中心地であるエルサレムは、ローマの支配下にあり、ユダヤの最高議会(サンヘドリン)の主宰者である大祭司も単なるローマの傀儡に過ぎませんでした。それゆえ、来るべきメシアの来臨、すなわち神の国の到来を熱心に待ち望んでいる人々がシメオンやアンナの他にも多くいたようです。十字架につけられたイエスの亡骸の下げ渡しをピラトに願ったアリマタヤのヨセフもその一人でした(マルコ15:43、ルカ23:51)。
  • 特に、シメオンについては、彼の上に聖霊がとどまり、聖霊のお告げを受け、御霊の導きを敏感にキャッチする人物としてルカは特記しています。その彼が幼子イエスを抱いて聖霊に満たされて歌った(語った)預言的賛美には、二つの内容があります。

1. 救いの普遍性

  • 第一の預言は「救いの普遍性」ということです。御子イエスの誕生は、神の救いが神の民イスラエルのみならず、異邦人に対しても備えられた救いの啓示の光であったということです。これは当時のユダヤ人には想像すらできないことであり、受け入れがたいことでした。
  • 特に、当時の宗教的指導を担っていたパリサイ派の律法学者たちは、ローマの手先となっていたサドカイ派(祭司階級の人々)とは異なり、熱烈な愛国主義で、他民族排斥の思想を持っていました。彼らは他の民族をさげすみ、憎悪し、祖国の栄光の回復を必死になって信じ、それにかじりついていました。しかし、そうした状態があまりに長く続いたために、ただアブラハムの子孫であるというだけで自分たちは特別な存在であると思い込み、神の律法の真の精神をユダヤ人特有の宗教的な慣例や儀式―断食、祈祷、十分の一税の納入、身体を洗うこと、犠牲―といった外面的なものにすり替えられて行きました。そうした状況の中で神の民イスラエルは知らず知らずのうちに堕落の道へと進んでいたのです。
  • しかしこうした時代の中にあって、来るべきメシアの来臨、すなわち神の国の到来を熱心に待ち望む者たちも少なからずいたのです。パリサイ人たちもメシア待望をしていましたが、彼らがメシアに期待していたことは、奇蹟を行ない、強力な力によって人々をローマの支配から解放して、最高の繁栄をもたらしてくれることでした。彼には自分たちの国のことしか念頭にありませんでした。
  • イスラエルの慰められるのを待ち望んでいたシメオンが歌った預言的賛歌には、自分が抱いた幼子イエスのうちに彼が待ち望んでいた以上の「救い」を見ました。朝露の一雫の中に太陽さえも映しだすことができるように、この幼子のうちに「救いの全貌」を彼は見ることができたのです。その「救い」とは「万民に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」(2:31, 32)とあるように、なんと異邦人も含む救いだったのです。これは決して新しい啓示ではなく、すでにイザヤ42:6/49:6/52:10などに預言されていたことでした。
  • 神の平和の福音がユダヤ人から異邦人の世界へと拡大していくさまを記した「使徒の働き」を読むならば、それが決して容易ではなかったことが分かります。厳然と存在するユダヤ人と異邦人との間にある「隔ての壁」が立ちはだかりました。しかし教会はその「隔ての壁」を乗り越えて、聖霊に励まされて、前進し続けていきました。
  • 世界には多くの民族が存在しますが、聖書の中では民族には二つの範疇しか存在していません。それはユダヤ人と異邦人という範疇です。この二つの間にある「隔ての壁」はこの世に存在するすべての隔ての壁のルーツと言えるものです。今日でも、多くのクリスチャンたちはユダヤ人と共に共同相続人となることを正しく理解していません。ですから、彼らの存在すら認めることなく、彼らのために祈ることもしません。
  • クリスチャンとはイエスを信じる異邦人たちの呼び方です。今日、イエスをメシアと信じるユダヤ人はクリスチャンとは呼ばず、メシアニック・ジューという言い方をします。異邦人の救いが個人的であるのに対して、ユダヤ人の救いは大筋としては民族的です。それがはっきりと示されるのはキリスト再臨のときです。
  • 今日においても、ユダヤ人たちはキリストの歴史においてキリスト教会から痛ましい多くの迫害を受け続けてきた(その事実も多くのクリスチャンたちは知っていません)ために、クリスチャンたちのあかしに耳を傾けません。未だに、クリスチャンたちが彼らに犯した罪のゆえに隔ての壁が大きく立ちはだかっているのです。御使たちが「いと高きところには栄光が神にあるように、地の上には平和が、みこころにかなう人々にあるように」と賛美したように、神の国の福音は「平和の福音」です。御子イエスの存在は、この地にあるすべての人間の罪がつくり出す隔ての壁を打ち壊して。平和を実現することです。
  • 老シメオンは、まさにこの幼子イエスのうちに「平和を実現する救い」を見たということができます。ユダヤ人と異邦人との間にある「隔ての壁」は、この世に存在するあらゆる「隔ての壁」のひとつの「型」です。私たち一人ひとりうちにもこの壁が存在します。この壁は、私たちが自分で良いと思っている事柄によって築かれるものです。ですから、争いが起こります。分裂が起こります。私たち一人ひとりが十字架の前に立つことなくして、この「隔ての壁」を崩すことはできません。「神さま、こんな罪人の私をあわれんでください。」と祈ったあの取税人のように(ルカ18:13)祈る者でありたいと思います。イエスはパリサイ人ではなく、この取税人を「義」と認めました。このことはパリサイ人にとっては青天の霹靂だったのです。

2. イエスの存在が多くの人々の反抗のしるしとなる

  • 第二の預言は「イエスが多くの人々の反抗のしるしとなる」ということである。事実、イエスは神の民によって憎まれ、疎外され、殺されました。なぜ、そのような反抗を受けたのか。それは「多くの人の心の思いが表わされた」からです。つまり、自分たちこそ正しいとして人をさばく基準もって歩んでいるからです。
  • アダムとエバが神によって禁じられていた「善悪の知識の木」の実を取って食べた時から、人は自分の善悪の知識を持つようになり、その基準をもって生きるようになりました。善悪の知識を持つとは自分が神のようになり、自分の善悪の基準を作って生きるようになるということです。まさに、「あなたがたはそれを食べると神のようになれる」と言った蛇のことばが実現してしまったのです。
  • 神から遣わされた御子イエスは神の善悪を示す存在でした。その神の善悪が人の善悪と立ち向かったのです。イエスが「わたしは真理です」と言われたのはそのことを意味しています。それゆえ、人は真理であるイエスに対する態度によって「倒れ」もし、「立ち上がり」もするのです。
  • 当然、神の真理(善悪)のしるしであるイエスに対して、人間の反抗が浮き彫りにされます。その反抗のしるしがはっきりと浮き彫りにされたその頂点こそ、あの「十字架」の出来事でした。それゆえ、聖霊に導かれて、シメオンは母マリヤに、「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」と語り得たのです。
  • 正に、このイエスこそ私たちの人生の試金石と言えます。聖書は「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石。尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることはない」(Ⅰペテロ2章6節)と語っています。この主イエスこそ私たちの唯一の望みなのです。


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