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ソロモン体制に向けたダビデの公的な指令

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24. ソロモン体制に向けたダビデの公的な指令

【聖書箇所】Ⅰ歴代誌 28章1節~21節

ベレーシート

  • ソロモンの体制へと移行するに当たって、ダビデはまずイスラエルの代表者たちに対して(1~8節)、そして次に子ソロモンに対して(9~21節)、公の形で大切な指令を語っています。ある意味で、ここはダビデの訣別説教とでも言える内容です。次章の29章とともに、この二つの章は歴代誌の中でもとても重要な箇所と言えます。

1. 主のことばを語りながら、ソロモン体制への準備をするダビデ

(1) イスラエルの王座への導き

  • この箇所で最も重要なことは、ダビデが主の契約の箱のために家を建てる志を持っていましたが、その建設はダビデではなく、ダビデの子ソロモンがするということが神のみこころであるという布告です。
  • ダビデは彼の父の全家、すなわちユダ族の中から、しかも自分の多くの兄弟の中から主は選び、イスラエルを治める王とされたこと。またその後継者として、ダビデの多くの子どもたちの中から、ソロモンが王として選ばれたことが語られています。

(2) 子孫が神の嗣業を所有し続けていくための要件

  • ダビデがイスラエルのリーダーたち(「つかさたち」שָׂרֵי)に対して、「主の命令をことごとく守り、求めよ」(8節)ということです。このことばの背景には「モーセ契約」が背景となっています。主の命令を「守る」(「シャーマル」שָׁמַר)こと、そして主を「求める」(「ダーラシュ」דָּרַשׁ)ことです。命令を「守る」ということは理解しやすいですが、主を「尋ね求める」ということは、そうたやすく理解できることではないのです。

2. 息子ソロモンに対する勧告

  • ダビデが息子ソロモンに対して王となるために語ったことは二つのことがあります。それは、神を「知る」(「ヤーダ」יָדַע)ことと、神に「仕える」(「アーヴァド」עָבַד)ことです。この順序はきわめて重要なことです。「アーヴァド」とはしもべ(奴隷)のように仕えることを意味します。この点こそ他の国の王と全く異なるところです。イスラエルの王はあくまでも神の代理者としての存在であるというの独自の王制理念があることをさとしているのです。それゆえにイスラエルの王は神を「知る」ことにおいて率先すべきことであり、そのことが国の命運を決定するほどに重要なことなのです。
  • 神は人を「探り(尋ね求め)」(「ダーラシュ」דָּרַשׁ)、人も神を「「尋ね求める」(「ダーラシュ」דָּרַשׁ)必要があります。脚注
  • ダビデはソロモンに「もし、あなたが神を求めるなら、神はあなたにご自分を現わされる」と語っています。これはまさにダビデの経験による真実でした。ダビデは「神を尋ね求めた」ゆえに、神に愛された王となりました。しかし、初代のイスラエルの王サウルは神を尋ね求めることになく、霊媒師を通して、死者の霊に尋ね求めたのです。そのために王位を退けられました。
  • ちなみに、互いに「尋ね求める」という相互の関係性こそ、人が神のかたちに似せて造られた所以です。相互の関係性とは「信頼」です。たとえば、御父と御子が共におられるというのは、聖書では「向き合う関係」を意味しています。そのような神の「向き合う関係」性に似せて人間が造られた以上、人は神と向き合う必要があるのです。しかし、人は悪魔の誘惑によって騙され、そうした関係性を喪失してしまいました。それが霊的な死です。
  • ダビデがソロモンに「神を求めるならば、神はあなたにご自分を現わされる」とは、偉大な知恵でした。しかし、歴史を見ると分かるように、ソロモンの人生の後半は「神を尋ね求める」をしなくなり、やがて国は分裂し、そして国を亡ぼす結果となって行きます。そこで、神はダビデとの契約をもってメシアをこの世に遣わされ、人となったイェシュアは人間の失敗を再度、踏み直して、神と向き合う関係を修復してくださったのです。それゆえ、ダビデが息子ソロモンに語ったことばは、永遠性をもったいのちの事柄だったのです。

    画像の説明

3. 御霊によって示された神殿の仕様書

  • ダビデは後継者となる息子ソロモンに神殿の「仕様書」(Ⅰ歴代誌28:11, 12, 18, 19)を渡します。「仕様書」はヘブル語の「タヴニート」(תַּבְנִית)です。旧約では19回使われています。図面、設計図、見取り図なども含めた形、像、型(the pattern)です。何の型かといえば、それは天の宮の型です。モーセが神から言われたままの幕屋を建造したときも、それは天にある幕屋の設計図でした。その設計図は神と人との関係性を現わす型なのです。ダビデも同様にその型を示されました。ダビデの場合には「御霊により示されていた」とあります(28:12)。「御霊により」という表現は旧約においては珍しく、他にゼカリヤ書7章12節にしか出てきません。ゼカリヤ書では預言者が語ったみおしえとみことばについて「御霊により」と使われています。ダビデが手渡した神殿の「仕様書」は、天の写し(type)、あるいは影(shadow)なのです。その本体は、やがて神から遣わされることになる「イェシュア」であることは言うまでもありません。

脚注

熱心に見出そうとする 「ゼーテオー」ζητέωー出会いの神秘

ザアカイとイエスの出会いがルカの福音書19章に記されています。その箇所の中に同じ言葉が二度使われています。そのことばとは「ゼーテオー」ζητέωです。それはザアカイとイエスの双方の行動に使われています。

【ザアカイの場合】
3節「彼は、イエスがどんな方か見ようとした」
ここには「見る」という動詞「エイドン」είδονの不定詞と、「懸命に試みる、見出そうと探し求める」という意味の動詞「ゼーテオー」ζητέωが並んでいます。「ゼーテオー」の時制は「未完了」です。つまり、ザアカイは単なる興味本位にイエスを見ようとしたのではなく、懸命に、熱心に見ようとし続けたのです。ですから、そのことが彼をしていちじく桑の木に登らせたのです。ザアカイの側に熱心な求道が見られるのです。彼の求道の行為の中に御父が彼を引き寄せていることを伺わせます。

【イエスの場合】
10節「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
「捜して」と訳されている部分が「ゼーテオー」ζητέωです。人の子とはイエスご自身のことですが、イエスは完全に失われてしまった人を見出そうと熱心に捜し求めておられたのです。ここにも御父の引き寄せを見ることができます。「救い」は万軍の主の熱心によってのみなされるということを想起させます。


2014.2.5


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