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ダビテ王の所有する財産を管理する者たち

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23.の付記. ダビデ王の所有する財産を管理する者たち

【聖書箇所】Ⅰ歴代誌 27章25~31節

ベレーシート

  • 27章にはダビデ王に第一から第十二の月に交替制に従って仕える12の軍団(分団)の長、ダビデ王国のイスラエルの各部族の長、および王の財産をつかさどる人々の名前が列記されています。特に、31節に「これらはみな、ダビデ王の所有する財産の係長であった。」とあります。「係長」と訳された語彙は原文では「サル」(שַׂר)の複数形「サーレー」(שָׂרֵי)です。「サル」は位の高い、リーダー的役割を担う者を意味します。
  • ダビデ王国はメシア王国の型です。さまざまな人々が秩序をもってその働きに従事しているのです。そしてその働きはメシア・イェシュアによって定められているのです。メシア王国においては無駄な人はひとりもいないのです。何らかの役割が与えられていることを信じなければなりません。メシア王国においては争いがなく、平和が実現しているので、そこには麗しい秩序があります。この秩序こそメシアが統治される王国の特徴なのです。27章には、「12」とその倍数である「24」の数が至る所にありますが、それらは御国の完成にかかわる象徴的な数です。

1. ダビデ王の所有する財産の目録数は「12」

  • 以下は、王の所有している財産の目録です。興味深いことに、、12からなっています。王の所有であるならば、王は自由自在に扱うことができはずです。そこには、「宝物倉」「土地を耕す働く人々」「畑の産物」「家畜(牛、ろば、羊)」があります。
(1)25節王の宝物倉
(2)25節野と町々と村々のやぐらにある宝物倉
(3)26節土地を耕して畑仕事をする者たち
(4)27節ぶどう畑
(5)27節ぶどう酒にあるぶどう畑の産物
(6)28節ぶどうの木といちじくの木
(7)28節油の倉
(8)29節シャロンで買われる牛の群れ
(9)29節谷にいる牛の群れ
(10)30節らくだ
(11)30節雌ろば
(12)31節羊の群れ


2. ダビデの財産はメシア・イェシュアの型

  • イェシュアの話の中には、ダビデ王の所有財産にまつわる話が多く出てきます。

(1)(2) 宝物倉
●「宝物倉」のヘブル語は「オーツァール」(אוֹצָר)、その動詞は「積み重ねる」ことを意味する「アーツァール」(אָצַר)です。預言者イザヤはヒゼキヤ王にこう言いました。「主のことばを聞きなさい。見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる日が来ている。何一つ残されまい、と主は仰せられます。」(Ⅱ列王記20:16~17)と。「宝物倉」について、イェシュアは人のいちのは財産にあるのではないことを教えるために、「ある金持ちのたとえ」を話されまた(ルカ12:16~21)。これは神の前に富むことを教えている話です。

●イェシュアは「天に宝を積む」話をされました(マタイ6:19~20)。つまり「自分の宝を地上にたくわるのはやめなさい。自分の宝は天にたくわえなさい」という教えです。なぜなら、決して失われたり、損なうことがないからです。

●「天の御国」は「畑に隠された宝のようなもの」で、その「宝」を見つけたなら、持ち物を全部売り払ってその畑を買うほどに価値のあるものだと教えています(マタイ13:44)。


(3) 土地を耕して畑仕事をする者たち

●王の土地を耕すとはどういうことでしょうか。「耕して」と訳されたヘブル語は動詞「アーヴァド」(עָבַד)の名詞形「アヴォーダー」(עֲבוֹדָה)です。神である主は最初の人をとって、エデンの園に置き、そこを耕させました(創世記2:15)。どの木からでも思いのまま食べてよいと言われたエデンの園で、なにゆえに「耕させ」る必要があったのでしょうか。「耕す」とは祭司用語です。神から与えられたものすばらしさを見出しす務めです。

●エデンの園は天の御国の型です。つまり、御国のすばらしさを発見する務めが人には与えられているのです。そのような人々をダビデは所有していたとすれば、御国の王であるイェシュアも同様に、御国のすばらしさを見出す学者をもっているということです。その学者こそイェシュアの「弟子」たちなのです(マタイ13:52)。


(4) (5) 「ぶどう畑とその産物」

●「ぶどう畑」は神に選ばれたイスラエルの民の象徴です。やがて完成する神の家である「天の御国」において、王がいても、王を慕う民がいなければなりません。イスラエルの民は王によって選ばれた民の象徴です(イザヤ5:7)。また、旧約聖書における「ぶどうの木、ぶどうの房」とその実から造られるぶどう酒はいのちの豊かさの象徴でもあります。

●「わたしはぶどうの木です」と言われたイェシュアは、ぶどう畑と農夫のたとえ話をされました(マタイ21:33~39)。ぶどう園の主人がぶどう園を造って、それを「農夫」たちに貸して旅に出かけます。収穫の時期が近づいたので、主人は自分の分を取ろうとして、農夫たちのところにしもべたちを遣わしました。ところが農夫たちは彼らをつかまえて、袋だたきにしたり、殺したり、石で打ったりしました。そこで主人は最後の切り札として自分の息子遣わします。この「息子」とは御子イェシュアのことです。


(6) ぶどうの木といちじくの木

●「ぶどうの木といちじくの木」とは神によって選ばれた民の祝福の象徴です。この二つの木は荒野には無く、「約束の地」の祝福のしるしでした。神は民と結んだ契約においては常に真実ですが、神の民が神のみこころに反逆するとき、「主は彼らのぶどうの木と、いちじくの木を打ち、彼らの国の木を砕かれた。」(詩篇105:33)とあります。それは、アッシリヤによる離散、および、バビロンによる捕囚を意味しています。

●「終わりの日」に、主の家の山(エルサレム)に、国々の民(異邦の民)が流れて来ます。そのとき、「彼らはみな、おのおの自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下にすわり、彼らを脅かす者はいない。」(ミカ4:4)とあります。メシア王国に集められた人々は、呪いが解けたこの地において、無上の喜びに浸るのです。そして、「その日には、-万軍の主の御告げ。--あなたがたは互いに自分の友を、ぶどうのの下といちじくの木の下に招き合うであろう。」(ゼカリヤ3:10)と預言されています。

●またイェシュアが弟子たちに終末について話された時、いちじくの木のたとえ話をされました。「32いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。33 そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」(マタイ24章32~33節(ルカ21:29~31)と。


(7) 油の倉

●ここでの「油」(「ハ・シェメン」הַשֶּׁמֶן)は、オリーブから取られる油ですが、冠詞付であることから、特別な用途に使われるものだと考えられます。オリーブの実から取れる油はあらゆるものを聖別するために注がれました(創世記28:18、出40:9、Ⅰサムエル10:1)。香油は神からの特別な歓迎を意味していました(詩篇23:5)。

●油は神の霊(聖霊)の象徴です。イェシュアが公生涯に入られる前に、パブテスマを受けると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って下り、天から「これはわたしの愛する子、わたしこれを喜ぶ」(マタイ3:16~17)という御父の声を聞いています。この神の御霊は承認の象徴です。神のことばを語るために「神が御霊を無限に与えられたから」です(ヨハネ3:34)。

●ダビデが「油の倉」という財産を持っていたように、イェシュアは天にある「油の倉」から御霊という油注ぎを無限に与えられていたのです。


(8) (9) 牛

●「息子と牛は同じ価値と見られていたようです(ルカ14:5)。牛は価値ある家畜の中の代表であったようです。「二人の息子を持つ父」のたとえ話(ルカ15:23)で、放蕩していた弟息子が帰って来たとき、父は「死んでいたのが生き返って来た」と言って喜び、子牛をほふり、祝いました。


(10) らくだ

●パレスチナでは、「らくだ」は物や人を運ぶ上できわめて貴重な乗り物であり、価値のある動物です。アブラハムの息子イサクのために嫁さがしにでかけたシモベエリエゼルは、10頭のらくだを連れていました。そのらくだに水を与えることは並大抵のことではありませんが、イサクの嫁となるラケルはらくだに水を与えることのできた生活力ある女性でした。

●イェシュアは金持ちとらくだとを比べてこう言いました。「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」(マタイ19:24、マルコ10:25、ルカ18:25)。「針の穴」とはエルサレムの正門のわきにある狭き門のことですが、金持ちが神の国に入る難しさを、らくだが針の穴を通ることと比較しています。


(11) 雌ろば

●「雌ろば」はヘブル語で「アートーン」(אָתוֹן)ですが、雄の「ろば」は「ハモール」(חֲמוֹר)です。イスラエル(ヤコブ)はその生涯の最後に子どもたち一人ひとりに対して預言しますが、ユダの預言の中に「王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロ(=メシアの別称)が来て、国々の民は彼に従う。彼はそのろばをぶどうの木につなぎ、その雌ろばの子を、良いぶどうの木につなぐ。・・」(創世記49:10~11)とあります。この預言は、マタイ21章5節にあるゼカリヤ書9章9節と結びつきます。このことが成就するために、イェシュアの弟子たちは命じられたとおりに、「ろばと、ろばの子」とを連れてくるのです。そしてイェシュアはそのろばの子に乗られてエルサレムに入場されたのです。

●「ろばと、ろばの子」(マタイ21:7)とありますが、前者の「ろば」は「雌ろば」のことで、後者の「ろばの子」は雄のろばの子です。


(12) 羊の群れ

●ダビデは本来「羊飼い」でした。ダビデが生まれたベツレヘムの近くには、エルサレムの神殿にささげるための特別な羊たちを飼う者たちがいたようです。

●ダビデは本来「羊飼い」でした。ダビデが生まれたベツレヘムの近くのミグダル・エデルには、エルサレムの神殿にささげるための特別な羊たちを飼う者たちがいたようです。

●ヨハネの福音書10章には、イェシュアは「わたしは羊の門です。」(7節)とか、「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(11節)。「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものはわたしを知っています。」(14節)とあります。イェシュアはダビデと同じベツレヘムで生まれた方であり、この方こそ私たちにとってなくなてならない永遠の血による贖いをしてくださる「傷なき子羊」であると同時に、私たちを導く永遠の良き大牧者なのです。


2017.3.22


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