****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

ダビデをめぐる人間模様の真相

41. ダビデをめぐる人間模様の真相

【聖書箇所】 16章1節~14節

はじめに

  • ダビデの息子であるアブシャロムが父ダビデに対して反旗を翻したため、ダビデは涙ながらに都落ちします。本来、エルサレムは難攻不落の町であるにもかかわらず、ダビデが戦うことなく、部下を引き連れてエルサレムを急遽去ったのは、対応が手遅れだったという単純な理由とエルサレムを戦火から守りたいという思い、さらには民衆を犠牲にしたくないというダビデの気持ちがあったと言えます。
  • 有能なリーダーがその地位を失うとき、そこにかかわっている人々はおうおうにして様々な思惑から行動し始めるものです。そしてその行動や態度はその人の心の真の姿を映し出します。しかしダビデの場合は親衛隊をはじめてとして、イタイという人物や多くの人々はダビデに忠誠を保っています。ダビデは「聖なる諦め」をもってエルサレムを後にしたのです。しかしその「聖なる諦め」とは、神の意志に自らの運命をゆだねきってしまうという真の自由があるのです。そうした自由が16章において、シムイの呪いに対する対処にも見ることが出来きます。

1. ヅィバの打算

  • ダビデの都落ちにすばやく動いた一人としてツィバという人が登場します。彼はヨナタンの息子であるメフィボシェテに仕える家来です。彼はダビデが突然、権力の座を放棄した途端にすばやくこのことを利用しようとした人でした。
  • ツィバがしたことは、ダビデとその一向に食べ物を持ってきたことです。ダビデは「これはなんのためか」と不信感を抱きつつ尋ねます。それはメフィボシェテが同伴していなかったからです。ツィバは「今、エルサレムにおられます。あの人は、『きょう、イスラエルの家は、私の父の王国を私に返してくれる。』と言っていました。」と告げます。これは事実ではありません。本当は、ダビデと運命を共にするつもりだったのですが、ツィバがそうさせなかったのです。しかし、このときはダビデをツィバの言葉を信用して、「メフィボシェテのものはみな、今、あなたのものだ。」と約束します。自分の思うどうりに事が運んだことで、ツィバはダビデに感謝しています。まさに計算高いツィバの一面が聖書は記しています。

2. シムイの呪いに対するダビデの反応

  • ダビデの落ち目に対して、ベニヤミン属出身のシムイがダビデを盛んに呪う場面が記されています。「出て行け、出ていけ。血まみれの男・・・・」と。「血まみれの男」とは「人殺し」という意味です。
  • 16章5節~13節までの中に、8回も「呪う」ということばがてできます。「呪う」と訳されたヘブル語動詞は「カーラル」(קָלַל)です。基本形では「軽んぜられる、卑しめられる」という意味ですが、強意形ピエル態で用いられると「呪う」という意味になります。ちなみに、「ハーラル」(הָלַל)は同じく強意形ピエル態では「ほめたたえる、賛美する」と訳されます。「カーラル」(קָלַל)と「ハーラル」(הָלַל)の最初の文字が「コーフ」(ק)か「へー」(ה)かでこのように意味が異なります。とても面白いです。
  • ここで重要なことは、ダビデがシメイの前で取った態度が中傷された者がどのように対処すべきを示す実に良い例だという事です。これはまことに深遠な高度なたましいの訓練です。アブシャロムの計略によって都落ちするという憂き目だけでなく、自分をのろう者に出会うということはダビデにとってこれまでにない残酷な拷問と言えます。一つの呪いのことばでも深く傷つくところですが、シムイは、呪ったり、石を投げたり、ちりをかけたりと、侮辱の限りを尽くした。ダビデの部下の方はこれに我慢ができなかった。ダビデはこのシメイの行為に対して、「彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。」と言って説得しています。「主が彼に命じられた」という表現は、おそらくそれを許容されたという意味だと思われます。
  • ダビデはこの中傷されるという問題を、冷静に自分と神とのかかわりの中でとらえたのです。そして、12節「たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私をしあわせを報いてくださるだろう」と受け止めています。しかも部下たちもダビデの神への信頼をそのまま受けています。
  • このダビデの神への信頼は、やがてこの世に来られるイエス・キリストを指し示しています。

【新改訳改訂第3版】Ⅰペテロ2章19~23節
19 人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。
20 罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。
21 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。

  • ダビデの中傷に対する訓練は、これよりも前に何度となく同じような出来事に会い、すべてを正しくさばかれる主にゆだねるということを体得していたのです。ダビデがまだ若かったころ、ナバルの忘恩と毒舌に対してついに堪忍袋が切れてしまったことがありました(Ⅰサムエル25:2~13)。しかし、神の恵み深い摂理によって、ナバルの妻アビガイルから柔和に道理を聞かされて思いとどまったのでした。ダビデはこのときも悪をもって悪に報いることをすまいと決心し、神が必ず彼の疑いは晴らしてくださることを学びました。このダビデの訓練は私たちにも必要です。詩篇39篇1節にはこうあります。

「私は言った。私は自分の道に気をつけよう。
私が舌で罪を犯さないために。私の口に口輪をはめておこう。
悪者が私の前にいる間は。」


2012.8.10


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