ツァーディ瞑想(2)「義」
詩篇119篇の22の瞑想の目次
צ ツァーディ瞑想(2) 「義」
- ツァーディ(137~144節)の段落には、「義」に関する語彙が5回出てきます。
①137節の「主よ。あなたは正しく(形容詞ツァッディーク צַדִּיק tsaddiyq)あられます。」
②138節の「あなたの仰せられるさとしは、なんと正しく(男性名詞ツェデクצֶדֶק tsedeq)、」
③142節の「あなたの義(女性名詞ツェダーカーצְדָקָה tsedaqah)は、
④142節の「永遠の義(男性名詞ツェデクצֶדֶק tsedeq)」
⑤144節の「あなたのさとしは、とこしえに義(男性名詞ツェデクצֶדֶק tsedeq)です。」
- 要約すると、男性名詞ツェデクが3回、女性名詞ツェダーカーが1回、そして形容詞のツァッディークか1回、合計5回です。
- 作者のいう「あなたは正しい」「あなたの義は、永遠の義」とはどのような意味で用いているのでしょうか。実は、この語幹のצדקが持つ意味はそう簡単ではありません。私の神学校の恩師であった小林和夫教授は、「義」は「救い」と同義と考えてよいと教えられました。「義」が単なる倫理的以上のものであり、神と人との関係概念として理解するならば、神が人とのかかわりにおいて、本来の状態に戻すべく神の意志が樹立されることを「義」というならば、それは「救い」と同義です。神と人とかかわりが「義」であるとき、倫理的・社会的な面において、「義」は正義と公正をもたらします。
- N.H.スネイスの『旧約聖書の特質』によれば、「義」(ツェデク、ツェダーカー)の本来の意味は、「まっすぐなこと」だとしています(同書、98頁)。詩篇111:3に「その義は堅く立つ」とあるように、「真直ぐである」こととは、「堅固さ」の意味も含めた、首尾一貫していること、筋が通っていること、曲がることも反れることもないことを意味したことばと言えます。
- バビロン捕囚から解放された後にエルサレムが困難にあることを知ったネヘミヤは、自分たちに及んだ辱しめの経験を次のように告白しています。
「私たちに降りかかって来たすべての事において、あなたは正しかったのです。あなたは誠実をもって行なわれたのに、私たちが悪を行なったのです。」(ネヘミヤ9:33)
とあります。ここでの「あなたは正しかった」とは、神が神の民に語られていたとおり、警告されていた通りのことがそのまま起こったという意味で、「あなたは正しかった」と認めています。神の言われることをそのままに聞くことをせず、神が語られていた警告をまっすぐに心に留めずにいたという反省に立っています。そのために、今や自分たちが異国の支配下のもとにあるのだと告白しています。ネヘミヤの告白は、詩篇119篇137節の「主よ。あなたは正しく(形容詞ツァッディーク צַדִּיק tsaddiyq)あられます。」とつながります。
- 「義」は倫理概念ではなく、関係概念です。イエスは「神の国とその義とを第一に求めなさい。」(マタイ6:33)と言われましたが、イエスこそまさに「神の国」という御父の支配統治の中で、「神の義」を、つまり神とのゆるぎない信頼のかかわりをもって生きることを第一とされた方でした。それゆえ、新約において現わされた神の義はイエス・キリストを信じる信仰による神の義です。律法の行いによる神の義ではなく、律法を完全に成就されたイエス・キリストを信じる信仰による神の義です。したがって、イエス・キリストを信じる信仰だけが、いつでも、どこでも、だれにで、救われるべき唯一の首尾一貫した基準であり、神の堅固な約束なのです。
- 詩篇119篇における「義」と「真実」と「さばき」は、同義的並行法によって密接な関係にあることがわかります。
75
主よ。私は、あなたのさばきの正しいことと、
あなたが真実をもって私を悩まされたこととを知っています。
123
私の目は、あなたの救いと、
あなたの義のことばとを慕って絶え入るばかりです。
128
それゆえ私は、すべてのことについて、
あなたの戒めを正しいとします。
私は偽りの道をことごとく憎みます。(逆の表現をすれば、「真実の道を愛する」ということになる)
137
主よ。あなたは正しくあられます。
あなたのさばきはまっすぐです。
138
あなたの仰せられるさとしは、なんと正しく、
なんと真実なことでしょう。
142
あなたの義は、永遠の義、
あなたのみおしえは、まことです。
160
みことばのすべてはまことです。
あなたの義のさばきはことごとく、とこしえに至ります。
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