****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

ツォファルに対するヨブの反論(1)

文字サイズ:

10. ツォファルに対するヨブの反論(1)

【聖書箇所】12章1節~14章22節

ベレーシート

  • ヨブの軽率なため息混じりの愚痴から端を発したヨブの三人の友人とヨブとの対論は、11章で一巡しました。その対論はこれからも継続していきますが、12章から第二回目の対論がはじまります。対論によってますますヨブと三人の友人たちの間に「感情的なもつれ」が生じ、双方に皮肉と悪意が顔をもたげてきます。それは32章1節で「この三人の者はヨブに答えるのをやめた」と記されている前まで続きます。
  • 今後の展開としては、以下のように、12~20章までが一括りです。

    12~14章 ヨブの対論
    15章    エリファズの第二回目の対論
    16~17章  ヨブの対論
    18章    ビルダデの第二回目の対論
    19章    ヨブの対論
    20章    ツォファルの第二回目の対論


1. ヨブの強烈な皮肉(12:1~6)

  • 三人の友人たちは、ヨブに対してなんら同情することもなく、ヨブの苦難を罪のしるしであるとして得意になって語っていることに対して、ヨブは怒りを秘めた皮肉を語っています。
  • 特に、12章2節のヨブのことばはかなりきつい皮肉です。それは「あなたがたが死ぬと、知恵も共に死ぬ」(新改訳)という表現です。この表現は、確かにあなたがたの言い分は模範的ではあるが、あなたがたが私に悟らせようとしている応報思想の知恵は、あなたがたが死ぬとそれで終わってしまうような程度の陳腐な知恵だと言っているのです。そのようなレベルの知恵はヨブも十分にわきまえているからです。苦しんだことのない者に対するヨブの強烈な怒りが「あなたがたが死ぬと、知恵も共に死ぬ」ということばに込められています。
  • さらに4~5節で、ヨブは彼らの態度を次のように表現しています。

    4 私は、神を呼び、
    神が答えてくださった者であるのに、(脚注1)
    私は自分の友の物笑いとなっている。
    潔白で正しい者が物笑いとなっている。
    5 安らかだと思っている者は
    衰えている者をさげすみ、
    足のよろめく者を押し倒す。

  • ヨブは自分が見下されているのを感じています。かつては神に祝福された者(ヨブのこと)が、今や友人や周囲の人々の嘲笑の対象となっている。ヨブはこの事実を、神の恵みの中で自分は安全だと思っている人が、病気や逆境に陥った人々に対して、軽蔑のまなざしを向けて、それを楽しんでいるのだと訴えています。

2. 黙って、私の言うことに耳を傾けよ(13:1~19)

  • 13章でもヨブの友人たちに対する皮肉的表現は続きます。「能なしの医者」もそのひとつ(これを中澤氏は「藪医者」と訳す)です。ところで、13章は大きく二つに分かれています。その二つとは、「友人に対する懇願」(1~19節)と「神に対する懇願」(20~28節)です。

(1) 友人に対する懇願

  • ヨブは友人たちに「黙って」ほしい、そして自分が言うことを「聞いてほしい」、自分の言い分に「耳を傾けてほしい」と繰り返し懇願しています。「ああ、あなたがたが全く黙っていたら、それがあなたがたの知恵であったろうに。」(5節)、「さあ、私の論ずるところを聞き、私のくちびるの訴えに耳を貸せ。」(6節)、「黙れ。私にかかわり合うな。」(13節)、「あなたがたは私の言い分をよく聞け。私の述べることをあなたがたの耳に入れよ。」(17節)
  • ちなみに、13章の中には特徴的な語彙が使われています。それは「黙する、静かにする、沈黙する」という意味の「ハーラシュ」(חָרַשׁ)で4回登場します(13:5, 5, 13, 19)。(脚注2)

(2) 神に対する懇願

  • ヨブは神に二つのことを懇願しています。ひとつは「苦難をもたらす神の手を遠ざけること」。もうひとつは、「自分にかかわってほしいということ」です。それは神が完全に沈黙しているからです。自分の不義と罪がどれほどか、自分のそむきの罪と咎を「知らせてください」と嘆願しています(23節)。これがヨブが真に知りたいことだからです。

3. ヨブのことばに見られる預言的啓示の光

(1) 人間に関する語彙

  • 14章では、ヨブの独白と神への問いかけが交錯する中で、預言的啓示の小さな光が差し込んでいます。その前に、この章に見られる特異な語彙があります。それは「人」、あるいは「人間」ということばです。注目すべきことに、この一つの章の中に旧約で使われている「人」に関するすべての語彙が使われているのです。ヨブ記のパラレリズムの豊かさと同時に、語彙・類語の豊かさの一端を垣間見させられます。

    (1) 1節
    女から生まれた人間(「アーダーム」אָדָם)は、日が短く、心がかき乱されることでいっぱいです。
    (2) 10節前半
    しかし、人間(「ゲヴェル」גֶּבֶר)は死ぬと、倒れたきりだ。

    画像の説明

    (3) 10節後半
    人(「アーダーム」אָדָם)は、息絶えると、どこにいるか。
    (4) 12節
    人(「イーシュ」אִישׁ)は伏して起き上がらず、・・
    (5) 14節
    人(「ゲヴェル」גֶּבֶר)が死ぬと、生き返るでしょうか。
    (6) 19節
    ・・・・そのようにあなたは、人(「エノーシュ」אֱנוֹשׁ)の望みを絶ち滅ぼされます。

    ●20節にある二つの「人」は、動詞の人称接尾辞3人称単数(彼)を「人」として訳しています。

  • 旧約の「人」に関する語彙のすべてがこの14章の中で使われているということは、明らかに、ヨブが人間の弱さ、はかなさ、汚れ、そして死について関心を持っていることを示しています。自分の潔白さに終始してきたヨブがここで人間そのものに関心が移っていることが分かります。そうした問いの中で、「人が死ぬと、生き返るでしょうか。」という問いかけは重要です。

(2) 14節の解釈

ヨブ記14章14節の諸訳
【新改訳】
人が死ぬと、生き返るでしょうか。私の苦役の日の限り、私の代わりの者が来るまで待ちましょう。
【口語訳】
人がもし死ねば、また生きるでしょうか。わたしはわが服役の諸日の間、/わが解放の来るまで待つでしょう。
【新共同訳】
人は死んでしまえば/もう生きなくてもよいのです。苦役のようなわたしの人生ですから/交替の時が来るのをわたしは待ち望んでいます。
【バルバロ訳】
ああ、人がひとたび死んで、生き返られるものなら、私は労役の日々を待ちたい、交代のものがくるまで。
【中澤洽樹訳】
人間は死んでも生きるだろうか。(この部分のみ10と11節の間に挿入されている)
わが苦役の日の限り、わたしは待とう、解放の日まで。
【関根訳】
人は死んでも生きるのだろうか。わたしはわが賦役のすべての日を耐えよう。解放の時が来るまで。

  • 太字になっている箇所のヘブル語は名詞の「ハリーファー」(חֲלִיפָה)の単数です。この名詞は、「変わること」「変化」「取り替え」「交換」「交替」「晴れ着」「救い」「解放」を意味し、古いものを新しいものに替えることを表わします。ヘブル語聖書(旧約)では12回使われていますが、ヨブ記ではこの14章14節と10章17節の二回です。10章では新しい証人が入れ替わる、次々と繰り出すという意味で使われています。ちなみに「ハリーファー」(חֲלִיפָה)の動詞は「ハーラフ」(חָלַף)です。なんとこの「ハーラフ」に「貫く」「刺し通す」という意味があるとは驚きです。
  • それぞれの訳を総合してみると、「私の代わりの者」「交代の者」が来るときが、「私の解放の日(時)」となるニュアンスです。そのときが来るまで、「私は待とう」につながっています。ここでの「待つ」という動詞は「ヤーハル」(יָחַל)。この動詞は、将来なされる神の善を信じることで、今日を生き抜く力をもたらすような待ち望みを意味します。「私の代わりの者」「私の交代の者」は、やがて19章25節に登場する「私を贖う方を指し示しているようにもみえます。
  • ヨブ記には復活の信仰は啓示されていません。しかし、「私の代わりの者」(単数)が来ることと「生き返る」こととが、密接な関係にあることを預言的な光として啓示されているように思われます。

脚注1
「神が答えてくださった」と訳されている「答えて」という原語は「アーナー」(עָנָה)です。この動詞は「答える」、受動態で「答えられる、聞かれる」という意味ですが、この動詞には「悩む、苦しむ」という意味もあります。それゆえ中澤洽樹氏は「神に呼ばわれば苦しみを招く」と訳し、この方が文脈に合うとしています。神の答えは、必ずしも、私たちが願うように、いつも心地良いものとは限らないのです。


脚注2
「ハーラシュ」(חָרַשׁ)の例として、比較的有名な箇所を挙げるとすれば、以下のニ箇所です。
①出エジプト記14章14節の「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」
②エステル記4章14節の「もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」

●上記の二つの例①②は、沈黙の積極的・消極的意味の二つの極の例です。ちなみに、この動詞の名詞は「耳しい」(「へーレーシュ」חֵרֵשׁ、イザヤ43:8)、および副詞は「ひそかに」(「ヘレシュ」חֶרֶשׁ、ヨシュア2:1)を意味します。


2014.6.3,4, 6


a:6873 t:7 y:1

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional