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トーラーの改革者、「主のしもべ」イェシュア

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49. トーラーの改革者、「主のしもべ」イェシュア

【聖書箇所】マタイの福音書12章15~21節

ベレーシート 

  • 前回と前々回の「安息日問題」―安息日に「穂を摘むこと」と「人を癒すこと」―を巡って、律法(トーラー)理解に対するイェシュアとの決定的な相違を知ったパリサイ人たちは、会堂から出て行って、どうやってイェシュアを殺そうかと相談しはじめたとあります。これはイェシュアの働きに対する彼らの最終的な決定と言えます。パリサイ派の人々というのは本来、イスラエルで最も聖書に熱心で、モーセの律法(トーラー)をだれよりも徹底し純粋に守ろうとした人たちで、旧約宗教の華と言われたほどでした。ところが彼らは自分で掘った穴に落ちてしまい、イェシュアの言っていることが全く理解できません。「あいつは神の律法を破り、律法を侮辱する者だ。自分たちの宗教的伝統と慣習を守るためには、あいつを殺さなければならない。」、そのように確信した彼らがイェシュア殺害の相談を始めたというのが12章14節でした。それに対するイェシュアの行動が15節以降に記されています。そこを読んでみましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書12章15~16節
15 イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると大勢の群衆がついて来たので、彼らをみな癒やされた。
16 そして、ご自分のことを人々に知らせないように、彼らを戒められた。

  • イェシュアは「それを知って、そこを立ち去られた(ἀκολουθέω)」とあります。これは敵対する者の思いを知って、彼らとの距離を置く行為を意味する動詞です。いたずらに敵対者を刺激せずに、神のみこころを伝えるための知恵です。イェシュアのやるべきことはまだ残されており、神の時ではなかったからです。一方、そんなことをまったく問題視しない大勢の群衆たちは癒しを求めてイェシュアの後について行きます。そんな彼らをイェシュアは癒されましたが、同時にイェシュアは自分のことを人々に知らせないようにと彼らを戒めています。
  • 水と油は決して交わらないように、これから先は、宗教指導者のパリサイ人たちだけでなく、大勢の群衆たちまでも、神のご計画とみこころを伝えようとするイェシュアとの食い違いがはっきりとしてきます。イェシュアが神の思いを正面から伝えようとすればするほど、パリサイ人たちの怒りは燃え上がり、群衆たちも意味が分からずに失望していきます。ですから私たちはイェシュアの語られる神のみこころの深みを、これまで以上に正確に理解して読み取らなければならないのです。もっともこのためには御霊なる働きが不可欠なのです。御霊はイェシュアを信じる者に与えられる神の最高のプレゼントです。なぜなら、御霊は神の視点に私たちを立たせてくれる唯一の助け手だからです。その方の助けによって、私たちは神の隠された世界にますます導かれるようになります。というよりは、神が隠されているのではなく、私たちに覆いがかかっているために神の視点が見えないだけです。ですから私たちは自分たちの中にある「理解の型紙」が打ち破られるように、心を柔軟にして、御霊の助けを求めなければなりません。
  • マタイの12章17節に「これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。」とあります(脚注)。「これは」とは、メシアがイェシュアであることを正しく理解するためにという意味です。「預言者イザヤを通して語られたこと」とは、マタイが引用しているイザヤ書42章にある「主のしもべ」の歌です。この歌を通して、「主のしもべ」こそ、イェシュアなのだとマタイは教えようとしているのです。「主のしもべ」のことをヘブル語では「エヴェド・アドナイ」(עֶבֶד יהוה)と言います。イザヤ書では「わたしのしもべ」(「アヴディー」עַבְדִּי)で単数です。この「アヴディー」(עַבְדִּי)こそ、神の遣わされたメシア・イェシュアであると理解した人は当時のユダヤの世界ではほとんどいなかったと思われます。今日のユダヤ人の中でも、一部のユダヤ人(=メシアニック・ジュー)を除いてはいません。このメシアニック・ジュー(=イェシュアをメシアと信じる人たち)は今でもユダヤ人からかかわりを断たれ、嫌われているのです。
  • さて、今回はマタイが引用しているイザヤ書42章に預言されている「主のしもべ」こそ、預言されたメシアなるイェシュアなのだということを理解したいと思います。マタイ自身もこのことを御霊によって知らされたのです。まずはテキストそのものを読んでみましょう。そしてあなたが一番心惹かれることばを少し時間を取って選び出してみましょう。ここではマタイ12章18~21節に引用されたものと、引用元のイザヤ書42章1~4節を比較できるように載せたいと思います。太字の部分はマタイに引用されたギリシア語をヘブル語訳に、引用元のイザヤ書ではそのままのヘブル語で示しています。ヘブル語をべースにして読み比べますが、煩わしいと思われる方は、ご自分の聖書を開いてご覧ください。

1. 預言された主の「しもべ」の務め

【新改訳2017】マタイの福音書12章18~21節
18「見よ(הִנֵּה)。わたしが選んだ(בָּחַר)わたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ(רָצָה)、わたしの愛する(יָדִיד)者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は異邦人(גּוֹיִם)にさばき(מִשְׁפָּט)を告げる(יָצָא)。
19 彼は言い争わず、叫ばず、通りでその声を聞く者もない。
20 傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない。さばき(מִשְׁפָּט)を勝利に導く(יָצָא)まで。
21 異邦人(גּוֹיִם)は彼の(שֵׁם)に望みをかける(יָחַל)。」


【新改訳2017】イザヤ書42章1~4節
1「見よ(הֵן)。わたしが支える(תָּמַךְ)わたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ(רָצָה)、わたしの選んだ(בָּחַר)者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々(גּוֹיִם)にさばき(מִשְׁפָּט)を行う(יָצָא)。
2 彼は叫ばず、言い争わず、通りでその声を聞かせない。
3 傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実をもってさばき(מִשְׁפָּט)を執り行う(יָצָא)。
4 衰えず、くじけることなく、ついには地にさばき(מִשְׁפָּט)を確立する(שִׂים)。島々(אִיִּּים)もそのおしえ(תּוֹרָה)を待ち望む(יָחַל)。」


(1) 語彙の説明 

  • 比較して見ると分かるように、内容的に全く正確な引用でないことが明らかです。ではマタイはギリシア語の七十訳聖書(LXX)から引用しているのかと言えば、それも正確でもないのです。LXX訳はヘブル語本文ともかなりの部分が異なります。例えばイザヤ書42章1節の「見よ、・・・わたしのしもべ」を、LXX訳は「見よ」が消えて「ヤコブはわたしのしもべ」と解釈して訳しています。マタイはこの部分の「ヤコブ」を除いています。またへブル語本文(ほんもん)にある語彙も少し変えています。例えば「支える」を「選んだ」というように。要するに、マタイはLXX訳からそのまま引用してはいないということです。しかし今回はそうした違いを研究することが目的ではないので、できるだけヘブル語本文からメッセージを汲み取ることに専念したいと思います。以下、マタイとイザヤ書のテキストにある語彙を簡単に説明します。


●マタイの「見よ」と訳された「ヒンネー」(הִנֵּה)と、イザヤ書の「ヘーン」(הֵן)は語幹が同じです。預言書で「見よ」という「ヒンネー」(הִנֵּה)、あるいは「へーン」(הֵן)があるときは要注意です。それは「終わりの日」に起こる出来事を指し示している語彙だからです。特にここでは「主のしもべ」に焦点が置かれています。ギリシア語は「イドゥー」(Ἰδοu)です。このマタイの福音書の講解説教ではこの語彙をとても重要視しています。なぜなら、御国の視点から解釈する上での重要語だからです。



●「主としもべ」の関係を表わす表現も異なります。イザヤ書では「わたしが支える(תָּמַךְ)わたしのしもべ」、「わたしの心が喜ぶ(רָצָה)、わたしの選んだ(בָּחַר)者」とあるのに対し、マタイでは「わたしが選んだ(בָּחַר)わたしのしもべ」、「わたしの心が喜ぶ(רָצָה)、わたしの愛する(יָדִיד)者」となっています。いずれにしても、しもべに対する主の主権的なかかわりはゆるぎないものであることが分かります。この「しもべ」が御子イェシュアを表わしているなら、「わたし」は父なる神ということになります。



●「彼の上にわたしの霊を授け」という部分はイザヤ書もマタイも共通しています。ここでの「彼」とは「しもべ」のことで「イェシュア」を指し、「わたし」は御父、「わたしの霊」とは「御霊」(רוּחַ)を指すと考えられます。なぜなら、「神が遣わした方(=イェシュア)は、神のことばを語られる。神が御霊を限りなくお与えになられるからである。」(ヨハネの福音書3:34)とあるからです。神のことばを語るためにそこに御霊が働いておられるのです。三位一体という言葉がなくても、ここに神の三つのペルソナ(位格)のかかわりを通してそれぞれの働きが啓示されています。



●神のことば(ῥήμα)を語ることによって、メシアなるしもべは「さばき」を行われます。イザヤ書では「さばき」ということばが3回出てきます。「さばき(מִשְׁפָּט)を行う(יָצָא)」、「さばき(מִשְׁפָּט)を執り行う(יָצָא)」、「さばき(מִשְׁפָּטを確立する()」となっています。マタイは2回で「さばき(מִשְׁפָּט)を告げ(יָצָא)」と「さばき(מִשְׁפָּט)を勝利に導く(יָצָא)」です。マタイが2回なのは、イザヤ書の2回目と3回目を合体しているからです。

●新改訳2017では「さばき」と訳されていますが、新改訳改定第三販、岩波訳、関根訳は「公義」と訳しています。口語訳は「」、新共同訳は「裁き」、聖書教会共同訳は「公正」、中澤訳は「定め」、フランシスコ会訳では「正しい法」、バルバロ訳は「公正」、ATD訳では「判決」と訳しています。聖書によって訳語がまちまちですが、原語である「ミシュパート」(משְׁפָּט)はそのような多様な意味合いがあることを示唆しています。したがってこの「ミシュパート」を神の統治概念を統括する語彙だと理解できます。それゆえ、「ミシュパート」は天の御国における「神の統治(支配)」理念と考えることができます。



●主のしもべが、どこで、だれのさばきを「行い、執り行い、確立される」のかと言えば、それは、イザヤ書では「地」における「国々」(גּוֹיִם)と「島々」(אִיִּּים)です。マタイではいずれも「異邦人」(גּוֹיִם)となっています。なぜ「主のしもべ」はイスラエルではなく、異邦人においてミシュパートされるのでしょうか。実はここが重要なところです。本来、もうひとりの「主のしもべ」がイザヤ書42章14以降に描かれているのですが、その「主のしもべ」とは「イスラエル」のことを指しているのです。神のご計画においては、この「主のしもべイスラエル」こそが、地の「国々」および「島々」に、神の支配(統治)をもたらす器とされたのです。ところが、彼らは「主の道に歩もうとせず、その教えに聞き従わなかった」(イザヤ42:24)ために、神はそれに代わるひとりの「主のしもべなるメシア」を立てられたのです。これが「主のしもべ」の歌とされている所以です。このあたりのことは後程、再び取り上げたいと思います。



●マタイ12章19節のヘブル語訳の「彼は言い争わず、叫ばず、通りでその声を聞く者もない」は、イザヤ書42章2節の本文と全く同じです。三つの動詞「ツァーアク」(צָעַק)「ナーサー」(נָשָׂה)」「シャーマ」(שָׁמַע)が否定されています。
●往々にして敵対する者に対しては、どなって威圧しようとするものです。そのために対立は憎しみとなってしまいますが、「主のしもべ」は決してそのようなことはしないのです。言葉の争いではなく、落ち着きをもって勝利する、柔和な「しもべ」なのです。



●マタイの12章20節に「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない。さばきを勝利に導くまで」とあります。同じくイザヤ書42章3節にも「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく」とあり、この比喩的表現はあくまでも、主のしもべが「真実をもってさばきを執り行い、衰えず、くじけることなく、ついには地にさばきを確立する」ためなのです。とすれば、神の統治において、「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない」とはどういう意味なのでしょうか。ここが今回のメッセージの最も重要な部分です。


(2) 「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない」とは

  • 「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない」は同義的パラレリズムです。「傷んだ葦」と「くすぶる灯芯」の比喩的表現について、岩波訳の注では「イスラエルの侵害されて来た領土、失われゆく自由といった政治的情況を意味する」という解釈と、「神の愛への信頼が薄れて信仰が死に瀕した宗教的心情の描写である」という解釈の二つの意味合いを含んでいるとしています。フランシスコ会訳は「折れた葦」と「くすぶる灯芯」を、「打ち砕かれ、死んだも同然のイスラエルを指している」と註解しています。しかし多くの場合この二つの比喩は「抑圧された者、最も弱い者を示唆する表現」だとし、それを「折ることもなく」「消すこともない」のは、メシア・イェシュアの最も弱い者をも傷つけない思いやりのある「しもべ」の姿を描いていると説明されます。それは決して間違ってはいません。むしろそうした福祉理念は、神のみおしえ(トーラー)の中に明確に記されているからです。しかしここでの比喩の真意は、「トーラーに対する主のしもべの姿勢が説明されている」と考えます。
  • どういうことかと言えば、「葦」という⾔葉はヘブル語の「カーネ」(קָנֶה)で、実際、LXX訳は「葦」を意味する「カラモス」(κάλαμος)が使われています。しかし「カーネ」(קָנֶה)にはまっすぐに⽴つ葦のように、「物差し、尺度、法則、原理、基準」を表す意味があります。ギリシア語の「カノーン」(κανων)も、原義は「葦」(「カーネ」)です。ちなみに教会が正式に認めた教義・信仰生活の基準となる文書である聖書を「正典」と言いますが、それは「カノーン(カノン)」(κανων)の訳です。いずれにしても、ここでは主のしもべが神のトーラー(教え)によって御国を確立することが預言されているのです。このように考えるならば、「痛んだ葦を折ることもなく」とは、痛んでしまった神の律法(トーラー)を再び真っ直ぐに⽴たせて、回復させることを意味していないでしょうか。
  • また「灯芯」(「ピシュター」פִּשְׁתָּה)も、詩篇119篇105節の「あなたのみことばは私の足のともしび(「ネール」נֵר)、私の道の光(「オール」אוֹר)です」とあるように、神のトーラ―を表わす同義語の比喩と言えます。とすれば、「くすぶる灯芯を消すこともなく」も、消えかけている神のトーラーを、しもべなるメシアが再び燃え⽴たせることを意味していると考えられるのです。
  • 「わたしが来たのは律法(トーラー)や預⾔者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5:17)というイェシュアのみことばがあるように、イェシュアはパリサイ派や律法学者たちによって歪曲されてしまったトーラーの解釈を改革して、真のトーラーを回復しようとしているということです。それは次の箇所によっても理解が可能です。
  • イザヤ書42章4節本文にも「島々もそのおしえを待ち望む」とあるからです。「島々」は「異邦人」のことです。その異邦人が待ち望んでいるのは、「主のしもべなるメシア」の語る「みおしえ」、すなわち「神のトーラー」なのです。ところがマタイではその部分が「彼の(שֵׁם)」として引用されているのです。これはどのように考えたら良いのでしょうか。
  • LXX訳ではイザヤ42章4節で「名」を表わす「オノマ」(ὄνομα)が使われています。にもかかわらず、LXXを日本語に訳した秦剛平氏はヘブル語本文と同様に「教え」と訳しています(しかも「ノモス」(νόμος)と読みが入っています)。さらに脚注には「異民族の者たちは彼の教えに望みをかけるーこの語句はマタイ12:21で引用されている」と記しています。マタイ福音書のどんな訳に「教え」とあるのかは明記されていませんが、少なくとも、新改訳と新共同訳は「異邦人は彼の名に望みをかける」と訳しています。尾山訳は「名」も「教え」もなく、ただ「彼に望みをかける」と訳しています。どのように理解すればよいのか迷ってしまうところですが、次のように考えることができます。名は本質を表わすわけですから、「教え」も「名」も本来的には「同一」でなければなりません。その意味では、「彼の名」も「彼の教え」も同義とみなすことができるのです。イェシュアという名は、新しい契約においては、神の律法(教え)を私たちのうちに書き記して、それを行なえるようにしてくださる救い主なのですから。

(3) 待ち望む 

  • イザヤ書42章4節の「島々もそのおしえを待ち望む」も、マタイの12章21節の「異邦人は彼の名に望みをかける」も、太字の部分はいずれも動詞「ヤーハル」(יָחַל)です。この動詞は主を信頼しながら静かに待つことを意味します。将来なされる神の善を信じて今日を生き抜く力を得る、というニュアンスをもった言葉です。異邦人である私たちはそのようにして、主の預言を信じて「待ち望んでいる」のです。
  • このように、主のしもべであるメシア・イェシュアの使命は「みことばの回復」、すなわちイェシュアは神の「トーラー」の回復するために遣わされた改革者と言えます。それが4節の「地に神のミシュパートを打ち立てる」ことと密接な関係にあるのです。しかも主のしもべはそのおしえ(トーラー)の回復のためには、決して「衰えることもなく、くじけることもない」のです。単に、優しい、柔和な方というだけでは神のミシュパートを打ち立てることはできません。異邦人である私たちは、「彼(主のしもべ)のおしえ(トーラー)を待ち望む」ようになることが預言されています。とすれば、これからの時代は神のことばが速度を増して開かれていく時代になると信じます。ヘブル語やギリシア語を学ぶことも、神のことばの確かさを確信させるものでなければなりません。
    画像の説明
  • 天の御国(神の国)は地を治める王がおり、またその王の支配のもとに民(イスラエルと異邦人)がいます。王はその民を永遠のトーラーをもって統治されるのです。

【新改訳2017】イザヤ書2章2~3節
2 終わりの日に、【主】の家の山は山々の頂に堅く立ち、もろもろの丘より高くそびえ立つ。そこにすべての国々が流れて来る。
3 多くの民族が来て言う。「さあ、【主】の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。」それは、シオンからみおしえ(תּוֹלָה)が、エルサレムから【主】のことばが出るからだ。


2. トーラーを異邦人に輝かすことに失敗したイスラエル

  • 最後に、神のおしえ(トーラー)に聞き従わなかったもう一人の「主のしもべイスラエル」についても、同じくイザヤ書42章から簡単に学びたいと思います。これはイェシュアの時代に如実に起こることを預言しています。

【新改訳2017】イザヤ書42章18~24節
18 耳の聞こえない者たちよ、聞け。目の見えない者たちよ、目を凝らして見よ。
19 わたしのしもべほど目の見えない者が、だれかほかにいるだろうか。わたしが送る使者ほど耳の聞こえない者が、ほかにいるだろうか。わたしと和解した者のような目の見えない者、【主】のしもべのような目の見えない者が、だれかほかにいるだろうか。
20 あなたは多くを見ながら、心を留めない。耳が開いているのに、聞こうとしない。」
21 【主】はご自分の義のために望まれた。みおしえを広め、これを輝かすことを。
22 しかし、これは、かすめ奪われ略奪された民、彼らはみな穴の中に陥れられ、獄屋に閉じ込められた。かすめ奪われても、助け出す者はなく、略奪されても、返せと言う者もいない。
23 あなたがたのうち、だれがこれに耳を傾け、後々のために注意して聞くだろうか。
24 だれがヤコブを、奪い取る者に渡したのか。イスラエルを、かすめ奪う者に。それは【主】ではないか。私たちはこの方の前に罪ある者となり、主の道に歩もうとせず、そのおしえに聞き従わなかった。

  • 21節で、【主】はご自分の義のために、イスラエルの民がみおしえ(トーラー)を広め、これを異邦人に輝かすことを望まれたにもかかわらず、彼らは主の道に歩もうとせず、そのおしえ(トーラー)に聞き従わなかったことが預言されています。それゆえイスラエルに代わって踏み直す42章1~4節の「主のしもべ」が必要だったのです。18節以降の部分はマタイ12章には記されていませんが、マタイはイザヤ42章の「主のしもべの歌」を引用することで、文脈として、イスラエルの民に起こる預言を伝えたかったと考えられます。
  • 神によって選ばれたイスラエルの心の頑なさは尋常ではありません。しかし神のご計画には奥深さがあります。彼らがキリストに心を開かなかったために異邦人にその恵みが回って来たのです。彼らの頑なさによって、異邦人が神のトーラーを待ち望むようになるのです。とはいえ、イスラエルに対する神のあわれみは決して失われていません。彼らに対するこの契約は反故にはならず、神のご計画は終わりの日に、すなわちキリストの地上再臨の時に「イスラエルの残りの者」に成就するのです。

【新改訳2017】ローマ人への手紙11章33節
ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。
神のさばき(「ミシュパート」מִשְׁפָּט)はなんと知り尽くしがたく、
神の道はなんと極めがたいことでしょう。



脚注

●マタイ12章15~21節の箇所はマタイ独自の記事です。マルコにも、ルカにも並行記事はありません。なぜなら、この箇所にはマタイの常套句である「これは、・・を通して言われることが成就するためであった」というイェシュアの目的が記されているいるからです。ユダヤ人は旧約聖書(ユダヤ人は旧約聖書と言わずに、「タナフ」と呼んでいます)に最終的な権威を置いていたため、マタイは旧約聖書のことばを引用しながら、イェシュアのメシア性を「預言」と「成就」という視点から証拠立てる必要がありました。そのため、マタイの福音書では「預言者を通して言われたことが成就するためであった」という表現を11回も繰り返しています。

①1章22~23節・・・・イザヤ書 7章14節   
②2章15節・・・・・・ ホセア書 11章1節
③2章17~18節・・・・エレミヤ書 31章15節
④2章23節・・・・・・ イザヤ書 11章1節
⑤4章14~16節・・・・イザヤ書 9章1~2節
⑥8章17節・・・・・・ イザヤ書 53章4節
⑦12章17~21節・・・ イザヤ書 42章1~4節
⑧13章14~15節・・・ イザヤ書 6章9~10節
⑨13章35節・・・・・・詩篇78篇2節
⑩21章4~5節・・・・・イザヤ書 62章11節、ゼカリヤ書9章9節
⑪27章9~10節・・・・ ゼカリヤ書11章12~13節

●常套句という形式でなくても、マタイは他の福音書に比べて旧約聖書の引用が多くあります。今回は⑦のイザヤ書 42章1~4節を取り上げますが、マタイ12章7節の「これは」という文脈を理解しなければなりません。つまり、マタイがイザヤ書42章を引用しなければならなかった理由です。


2019.2.24


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