バビロンを襲う突然の破滅
39. バビロンを襲う突然の破滅
【聖書箇所】47章1~15節
ベレーシート
- イザヤ書47章では、バビロンに対し一日のうちに、またたくまに破滅が襲うことが預言されています。特徴的な言葉としては「またたくまに」「突然」と訳された語彙です。預言通り、まさに思いもよらない、はからずもの出来事がバビロンを襲ったのは歴史的事実であり、そのことが起こる前に預言者イザヤを通して予告されていたのです。
1. 「私だけは特別だ」というバビロンの過信
【新改訳改訂第3版】イザヤ書47章1節
「おとめバビロンの娘よ。下って、ちりの上にすわれ。カルデヤ人の娘よ。王座のない地にすわれ。もうあなたは、優しい上品な女と呼ばれないからだ。
- 国、町、都はヘブル語では女性名詞です。ですから、バビロン、そしてその雅名の「カルデヤ人」も「娘」や「女」と表現されます。特に、バビロンが「おとめ」と表現されているのは、バビロンが外敵によって侵略されたことがないことを意味しています。またカルデヤ人の娘が、「もうあなたは、優しい上品な女と呼ばれない」とあるのは、敵軍の侵略によって都が破壊されてしまうからです。
- バビロンの破滅の原因は、6節に記されています。
【新改訳改訂第3版】イザヤ書47章6節
わたしは、わたしの民を怒って、わたしのゆずりの民を汚し、彼らをあなたの手に渡したが、あなたは彼らをあわれまず、老人にも、ひどく重いくびきを負わせた。
- 神の祝福を相続する民として定められたイスラエルの民は、その背信によって神の懲罰的さばきとして、神によってバビロンの捕囚とされました。バビロンはそのためのさばきの鞭として用いられた神の器にすぎませんでした。彼らはそのことを理解せずに、この時とばかりに自分たちの残虐性を満足させる行為を行いました。神はそのことに対して激しい怒りをもって復讐されるのです。それゆえ、8~9節、および11節で次のように語られています。
【新改訳改訂第3版】イザヤ書47章8~9節、11節
8 だから今、これを聞け。楽しみにふけり、安心して住んでいる女。心の中で、『私だけは特別だ。・・・』と言う者よ。
9 子を失うことと、やもめになること、この二つが一日のうちに、またたくまにあなたに来る。あなたがどんなに多く呪術を行っても、どんなに強く呪文を唱えても、これらは突然、あなたを見舞う。11 しかしわざわいがあなたを見舞う。それを払いのけるまじないをあなたは知らない。災難があなたを襲うが、あなたはそれを避けることはできない。破滅はあなたの知らないうちに、突然あなたにやって来る。
- 7節にあるように、破滅の予告のことを「心に留めず、自分の終わりのことを思ってもみなかった」だけでなく、むしろ「私だけは特別だ。私はやもめにはならないし、子を失うことも知らなくて済もう。」と過信していたのです。「やもめになる」とは王を失うことを意味します。また「子を失う」とは国土と住民を失うことを意味します。そのようなことは決して起こらないと彼らは豪語していたのです。ところが、この二つのことが「またたくまに来る」と主は言われたのです。
2. 破滅は思いがけないときに、突然襲う
- 「私だけは特別だ」と思っているバビロンに対する破滅は、突然にやって来ることが語られています。そしてそれを払いのけることは決してできないのです。破滅は「突然」に来ることが強調されています。
- 鍵語となる「突然」という用語は9節と11節にありますが、その原語は以下のようにみな異なっています。以下はその訳語です。
- 9節の「レガア」(רֶגַע)は名詞です。イザヤ書では47章9節の他に4箇所で使われています(26:20/27:3/54:7, 8)。英語訳は、in a moment です。「またたくまに」という意味と、「ほんのわずかな間」という意味があります。※脚注
- 11節の訳語は中沢訳を除いてどの聖書も同じですが、9節の後半に使われている「ケトゥッマーム」(כְּתֻמָּם)の訳がまちまちです。この語は本来「完全」を意味する「ターム」(תָּמ)に、「~のように」を意味する前置詞「ケ」(כְּ)がついたものです。ですから、「余すところなく」「ことごとく」と訳すべきです。
- 時の速さを表わす副詞で、11節の「ピトゥオーム」(פִתְאֹם)の中沢氏の訳語「にわかに」は、新改訳のイザヤ書29章5節、30章13節、48章3節で同じ訳語として使われています。
- いずれにしてもバビロンの破滅は「突如」として、「またたくまに」、「ことごとく」なされるのです。このことについては、ダニエル書5章の「バビロン、最後の出来事」でも取り扱っています。そこを参照のこと。
3. バビロンの突然の破滅は、反キリストによる大バビロンの破滅の型
- 神の歴史の中で起こった出来事は、やがて終わりの日に起こる事の型であることが多々あります。そのような方法で、神は終わりの日に起きることを預言しているのです。ですから、神のマスタープランにおける最終ステージにおいて起こる出来事を知ることができるのです。旧約の預言書で語られている主のことばは、決して過去のものではなく、今日的なものなのです。
- ヨハネの黙示録18章には、終末に現われる独裁者である反キリストの支配する「大バビロン」(政治システム)に対するさばきが「一日のうちに」(8節)、「一瞬のうちに」(10節)来ることが語られています。この出来事こそ「本体」なのです。
※脚注
鍋谷堯爾氏が「旧約の時」と題する論文を書いておられます。「福音主義神学 9」(1978.10、日本福音主義神学会、1~21頁)
2014.10.17
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