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パウロが誇りとしているテサロニケ教会

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7. パウロが誇りとしているテサロニケ教会

【聖書箇所】Ⅱテサロニケの手紙 1章1~12節


ベレーシート

  • テサロニケの手紙第二は、第一の手紙が書かれてから一年ほど経って書かれたと言われています。第二の手紙を書かなければならなかったのは、「主の日」がすでに来たかのように言う者が出て、教会に混乱をもたらしたからです。そのことは第二の手紙の2章に取り上げられています。1章では、テサロニケの教会が迫害と患難の状況にあってもそれに耐えながら、信仰が目に見えて成長していることに対して神に感謝するだけでなく、やがて主の再臨の時に、信仰のゆえに苦しめられている者は報いとして安息が、逆に苦しめている者はその報いとして神から退けられ、報いとしての永遠の滅びという刑罰が与えられることを記しています。

1. 迫害と患難の中で成長しているテサロニケ教会

  • パウロがテサロニケ教会のことについて神に感謝し、彼らを誇りとしていることが書き記されています。パウロが「誇り」と感じるのは、テサロニケ教会の人々が「すべての迫害と患難とに耐えながら主への従順と信仰とを保っている」からです。
  • パウロがテサロニケで福音を語って教会の土台が築かれつつあった時、ユダヤ人たちによる迫害が起こりました。特に、自分たちを家に迎え入れてくれたヤソンをはじめ、幾人かの兄弟たちが町の役人のところへ引っぱって行かれ、世界中を騒がせて来た者たちを家に迎え入れてローマの皇帝カイザルの詔勅にそむく行ないをしていると訴えられたために、パウロたちはその地を離れざるを得なくなってしまったのです。その後、迫害は継続していたようです。
  • パウロは第二の手紙をコリントから書いていますが、テサロニケでは継続して迫害と患難に耐えていたようです。しかしその患難により、教会の人々の信仰が目に見えて成長していたようです。
  • 新改訳は「目に見えて成長し」と訳していますが、新共同訳では「大いに成長し」と訳しています。原語の「ヒュペロークサノー」(ὑπεραυξάνω)はこの箇所にしか使われていない動詞で、「標準的な基準を越えた成長ぶり」を表わすもので、非常に目覚ましい成長が見られたことを意味します。おそらくそれは患難の中にあってもぶれることのない希望を生み出すような信仰へと成長したのだと言えます。
  • 後にパウロはローマ人に宛てた手紙の中で次のようなことを記しています。

【新改訳改訂第3版】ローマ書5章1~5節
1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

  • おそらく、このことを書くことができたのは、パウロ自身の経験だけでなく、テサロニケの人々の生きた信仰のあかしがあったからではないかと思います。タケノコが成長するとき一枚一枚外の皮が剥がれていくように、信仰による迫害と患難は信仰を弱めるどころか、むしろ信仰を強め成長させることになるということです。そもそもエルサレムに始まった教会がより成長し、拡散できたのは、ステパノの殉教があったからです。

2. 迫害と患難の中で耐えているテサロニケの教会を誇りとするパウロ

  • 患難による信仰の成長が目に見えて現わされたテサロニケの教会をパウロは諸教会の間で「誇りとしています」。この「誇りとする」(「エグコーカオマイ」ἐγκαυχᾶομαi)もこの箇所にしかみられない語彙です。
  • パウロという人はキリストに出会う前は、とても自信に満ち溢れ、自分を大いに誇っていた人でした。人間的な評価を気にして生きていました。ところがキリストに出会ってから、そうした自分が誇れるようなものをすべて糞土と思うようになった人です。しかしもしあえて人間的に誇る(自慢する)ものがあるとすれば、人以上だとパウロは言っています(Ⅱコリント11:21~27、ピリピ3:3~6等)。そのようなパウロが誇るというのは、人間的な視点からの評価ではなく、神の視点からの評価なのです。
  • Ⅱテサロニケ1章5節を見てみましょう。

【新改訳改訂第3版】Ⅱテサロニケ1章4~5節
4 それゆえ私たちは、神の諸教会の間で、あなたがたがすべての迫害と患難とに耐えながらその従順と信仰とを保っていることを、誇りとしています。
5 このことは、あなたがたを神の国にふさわしい者とするため、神の正しいさばきを示すしるしであって、あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。

  • 「神の国」(御国)と「この世」の価値観は全く異なります。この世は「神の支配」を受け入れることができません。それゆえに迫害が起こり、御国に生きようとする者は患難を経験するのです。もし神を知らないこの世の人々が、たとえ「キリスト教はすばらしい宗教だ」と評価したとしても、それを鵜呑みにしてはなりません。その評価はおそらく的外れだからです。正しく理解していないためにある面だけを見て誤解しているのです。
  • エルサレム教会で使徒ペテロとヨハネがユダヤ人の指導者たちから尋問を受け、手荒い仕打ちを受けたあとで、使徒たちがユダヤの指導者たちに何と言ったかを知らなければなりません。使徒たちはこう言ったのです。

    【新改訳改訂第3版】使徒の働き 4章19~20節
    19 ・・神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。
    20 私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。

  • 後に、ペテロはこう述べています。

    【新改訳改訂第3版】Ⅰペテロ 4章12~14節

    12 愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、
    13 むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。
    14 もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。

  • イェシュアの語ったことばも引用しおきましょう。

    【新改訳改訂第3版】マタイの福音書5章10~12節

    10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
    11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
    12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。

  • 最後に、患難は信仰を純化させる神の恵みと言えます。「忍耐」と訳された「ヒュポモネー」(ὑπομονή)はテサロニケの手紙において重要な語彙です(Ⅰ-1:3/Ⅱ-1:4, 3:5)。今日、初代教会が経験したような迫害や患難はないかもしれません。しかし今日は無関心がそれに相当します。たとえ耳を向けたとしても嘲笑するだけです。それに耐えながら、花婿なるキリストの再臨(「パルーシア」παρουσία)を信じて生きるのがキリストの花嫁です。花嫁は今日の無関心に耐えつつ、主が再び来られる時を待ち望まなければなりません。


2105.10.5


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