****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

パウロの「使徒性」について


3. パウロの「使徒性」について

ベレーシート

●パウロにとって、自分が「使徒」として召されたことはきわめて重要なことでした。なぜなら、パウロの使徒性が受け入れられなければ、パウロに啓示された奥義も否定されることになり、教会を建て上げることなどできないからです。特に、コリントの教会ではパウロの使徒性を疑う者が多かったために、パウロは苦慮したようです。またパウロはエルサレムの使徒たちとは違って、イェシュアと共に過ごした経験がないだけでなく、使徒たちによる按手もなく、また推薦状も持っておりませんでした。勝手に自分を使徒だと自称しているだけであり、パウロの教えに従う必要はないと思われていたのです。しかしパウロ自身は、使徒であることの証印とは、キリストのためにどれほど苦悩したかということにかかっていると主張したのです。

●パウロの召命の一連の出来事の中で、主がダマスコに住む弟子の一人アナニヤに語った言葉があります。「彼(サウロ=パウロ)がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します。」(使徒9:16)とあります。この苦しみこそ使徒職が与えられたことの証印だと彼は自覚していたのです。使徒とは、神のご計画のために苦しみを担うという責任を負わされた者で、人に権威を振りかざして支配しようということではありません。Ⅱコリント11章23~27節にはパウロの苦難のカタログが記されています。さらに、苦難の重さだけでなく、直接的啓示による神の奥義の豊かさも彼を使徒として確信させるものでした。

●パウロは「私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。」(【新改訳2017】Ⅰコリント15:9~10)としながらも、「月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました」と述べ、他の使徒たちだけでなく、自分も「使徒」とされたことに、一歩たりとも譲歩しませんでした。

1. 「使徒」とは「遣わされた者」、その原型

●「使徒」とは、キリストによって「遣わされた者」「派遣された者」(ギリシア語は「アポストロス」ἀπόστολος、ヘブル語は「シェリーアッハ」שְׁלִיחַ)という意味です。(脚注)

●「遣わされた者」の原型が「御父から遣わされたイェシュア」です。これはヨハネの福音書の特有の言い回しで、数多く見ることができます。特に、御父のことを「わたしを遣わされた方」と呼んで、イェシュアが御父から遣わされた者であることを表わしています。その中から少し選んでみると以下のとおりです。

【新改訳2017】ヨハネの福音書 5章24節
まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。

【新改訳2017】同 6章38節
わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。

【新改訳2017】同 7章16節
そこで、イエスは彼らに答えられた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。

【新改訳2017】同 7章33節
そこで、イエスは言われた。「もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて、それから、わたしを遣わされた方のもとに行きます。

【新改訳2017】同 12章44節
イエスは大きな声でこう言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです。

【新改訳2017】同 12章45節
また、わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのです。


●そして今度は、イェシュアが弟子たちを遣わすのです。

【新改訳2017】ヨハネの福音書 20章21 節
イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされた(ἀπέστέλλω)ように、わたしもあなたがたを遣わします(πέμπω)。」

●「使徒」とは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれもみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)と言われたイェシュアによって選ばれ、人々に福音を伝えるべく権威と賜物を与えられて「遣わされた者」なのです。いわぱ、神のご計画における「要としての務め」を託された者と言えます。

2. パウロの書簡に見る「使徒」

●パウロが書いた書簡において、「使徒として召されたパウロ」「使徒とされたパウロ」「使徒となったパウロ」「使徒パウロ」・・表現は微妙に異なりますが、いずれも「パウロ」=「使徒」から、という書き出しはとても重要でした。

●パウロの書いた手紙のうちで「使徒」と名乗らなかったのは、ピリピ、ピレモン、Ⅰ・Ⅱテサロニケの四つです。これらはパウロと親しい関係にあったゆえに、あえて「使徒」ということばを使わなかった可能性があります。そしてもうひとつがヘブル書です。これは教会に対してではなく、ユダヤ人に対して書かれたものであり、あえて匿名とした可能性があります。しかしこの書ほど「ヘブル人の中のヘブル人」と言った人でなければ、書けない書簡なのです。

●逆に、「使徒」と名乗った書簡は以下のとおりです。

【新改訳2017】ローマ書 1章1節
キリスト・イエスのしもべ、神の福音のために選び出され、使徒として召されたパウロから。

【新改訳2017】ローマ書 11章13節
そこで、異邦人であるあなたがたに言いますが、私は異邦人への使徒ですから、自分の務めを重く受けとめています。

【新改訳2017】Ⅰコリント書 1章1節
神のみこころによりキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、

【新改訳2017】Ⅱコリント書 1章1節
神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロと、兄弟テモテから、

【新改訳2017】ガラテヤ書 1章1節
人々から出たのではなく、人間を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によって、使徒とされたパウロと、

【新改訳2017】エペソ書1章1節
神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。

【新改訳2017】コロサイ書 1章1節
神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロと、兄弟テモテから、

【新改訳2017】Ⅰテモテ書 1章1節
私たちの救い主である神と、私たちの望みであるキリスト・イエスの命令によって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、

【新改訳2017】Ⅱテモテ書 1章1節
神のみこころにより、またキリスト・イエスにあるいのちの約束にしたがって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、

【新改訳2017】テトス書 1章1節
神のしもべ、イエス・キリストの使徒パウロから。──私が使徒とされたのは、神に選ばれた人々が信仰に進み、敬虔にふさわしい、真理の知識を得るためで、


脚注
●ヘブル語の「シェリーアッハ」(שְׁלִיחַ)の語源は「シャーラハ」(שָׁלַח)で「遣わす」という意味ですが、初出箇所の創世記3章22節では(いのちの木に手を)「伸ばす」という意味で、続く23節では(エデンの園から)「追い出す」という意味で使われています。なぜこれが「遣わす」とかかわりがあるのでしょうか。前者は人が「いのちの木に向かって手を伸ばす」意味であり、後者は神である主が人を「エデンの園から外に追い出す」という意味です。これは「人間の行為とその罰が対応している」言葉遊びだという解釈もあるようですが、いずれも神の配慮であると考えられます。それは「アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた」(創世記3章21節)と同様、「今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ」る罪から守るための神の配慮です。人が再びいのちの木に手を伸ばすことができるためには、神の新たな手立てが必要なのです。そのために「最初の人」(アダム)をエデンから追い出して、回復のための数々のプロセスを経たのち、「最後の人」(イェシュア)によっていのちに至る道が開くことを実現するゆえに、神が人を「遣わす」という意味の「シャーラハ」(שָׁלַח)が使われていると考えられます。つまり、「最初の人」と「最後の人」が預言的に重ねられていると考えられるのです。

●ちなみに、24節にも「神は人を追放し」とありますが、ここは「シャーラハ」(שָׁלַח)ではなく、「追い出す、追い払う、追放する」といった意味の「ガーラシュ」(גָּרַשׁ)が使われています。それは人がエデンの園から、文字通り、完全に締め出されたことを意味しています。


2019.1.8


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