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パウロのとりなしのkeyword<1>Christ’s Love

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B-09. パウロのとりなしのkeyword <1> 

Christ’s Love

キリストの愛をすべての聖徒とともに経験できるように

はじめに

  • パウロの書簡はパウロのとりなしの祈りによってもたらされた結晶である。パウロは教会につながる人々(聖徒たち)のために、「昼も夜も」「絶えず」「いつも」「思わぬ時がないほど」祈っていた。これはパウロが気まぐれではなく、毎日、定期的に祈っていたことを意味する。書簡の中でパウロが実際に「~のことを祈っています」という表現を使っている箇所のみならず、パウロが諸教会のために宛てた手紙の内容(感謝、勧告、命令等)そのものが、絶えずとりなされた祈りから生まれた結晶と言える。新約の書簡は旧約聖書でいうならば詩歌書に匹敵する。(注1)
  • パウロはエペソ人への手紙の中で二つの偉大なとりなしの祈りを記している。その一つの箇所は1章15~19節である。そしてもうひとつの箇所は今回取り上げる3章14~21節である。

(1) エペソ書3章14節~21節の祈りの構造

  • 「こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。」
  • 「どうか」で始まるパウロのとりなしは、16節末尾の「強くしてくださいますように」と17節中央の「住んでいてくださいますように」と、19節中央の「知ることができますように」と末尾の「満たされますように」によって、四つの祈願に分けられるように見えるが、内容的には三つのことが祈られている。その三つとは、以下の通りである。
    ①キリストが心のうちに内住されること(16~17前半)、すなわち「内なる人の強化」
    ②キリストの愛を知ること(17後半~19前半)
    ③神の充満(プレーローマ)に満たされること(19後半)
  • ここで重要なことは、①②③は互いに並列しているのではなく、むしろ積み重ねるように関係しているということ、つまりクライマックスに上りつめるように並んでいるということである。キリストが心のうちに住んでくださるようにという個人的な祈りは、聖徒たちとともに、人知をはるかに越えたキリストの愛を知るためであり、さらに、それは神のプレーローマに満たされるための祈りなのである。たとえば、「キリストがあなたがたの心のうちに住んでくださいますように」という祈りは、神のプレーローマに満たされますようにという祈りの実現につながる。また、第二の祈願「キリストの愛を知ることができるように」との関連で第三の祈願を見るなら、「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、ほんとうに自分のものとして把握」することは、私たちを変える力がある。そして「人知をはるかに越えたキリストの愛を知る」人は、キリストのようになりたいと願うようになり、キリストに似せられていくのである。そしてそれは神のプレーローマへと満たされていくのである。

(2)「あなたがたの内なる人」の解釈

  • ところで、16節で最も難しいのは「あなたがたの内なる人」とは何かという問題である。「あなたがたは」は複数形なのに、「内なる人」は定冠詞のついた単数形なのである。
  • 「内なる人」という表現は、ここ以外に2箇所しか出ていない。
    ①ローマ7章22節「すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに」
    ②Ⅱコリ4章16節「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされている。」
  • そこで、コリントのほうから考えていく人は、これを、からだのような外から見た人に対比して心や魂から見た人、内面的な人、霊的な人と解釈する。反対に、ローマ書から考えて行く人は、聖霊によって新しく生まれ変わった人、と解釈する。しかし、エペソでは結論的に言うならば、イエス・キリストのことである。(注2) 
  • ギリシヤ語原文では、「あなたがたの内なる人を強くしてください」と書いてあるのではなくて、「あなたがたの内なるひとりの人へと強くされますように」と書かれているからである。「内なるひとりの人」とは、目的語ではなく目標なのである。つまり、「内なる人は」「強くされ」ていくゴールであると取る読み方が自然である。エペソ人への手紙の他の箇所でも、教会の成長のゴールはキリスト(2章20節、4章12、13節)、個々の信者の成長のゴールもキリスト(4章14、15節)であることがはっきりしているので、強化のゴールである「内なるひとりの人」はイエス・キリストと解釈できる。

(3) 17節前半は、16節の言い換えである

  • 17節文頭の「こうして」という接続詞は原文にはない。したがって、17節前半は16節と並行し、同じ事の別の言い方(言い換え)と言える(榊原康夫氏)。つまり、私たちの心のうちに住むキリスト、それが「私たちの内なるひとりの人」キリストなのである。このように、私たちがかの内なる人キリストへと霊的に強められることを、別の言い方で、キリストが私たちの心のうちに住み込むことだと語っているのである。信者になっているからには、むろんすでにキリストは御霊において宿っておられる。「あなたがたの信仰によって」キリストの内住が生じる、と言われるように、信仰をもっているならば、キリストはすでにあなたがたの内におられるのである。16節の「御霊により」と並行した言い換えが、17節の「信仰によって」である。信仰のある人は、御霊が宿っておられキリストは内に宿っている。
  • 「住んでいてくださいますように」の「住む」とは、「居を定める」ことを意味している。つまり2章19節の「寄留者」に対して、腰を下ろして定住することを表わす。御霊においてキリストはすでに信者の心に宿ってはおられるが、キリストが本当に心に定住し、心の王座に着いてくださることをパウロは祈っているのである。あなたがたのかの内なるひとりの人キリストに達するまで、霊的に強められるように、と祈ったのと同じように、その内なるキリストがクリスチャンの心の寄留者や間借り人のようではなく、本当の住人になること、いや、家長になってくださるように、という意味である。
  • キリストが私たちの心に本当に定住してくださるということは、具体的に言うならば、どのようなことなのか。
    ①イエス・キリストに似た思いと心と性質が私たちの中で支配的になることを意味する。
    • a. ピリピ2章4、5節「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
    • b. コロサイ3章15節「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。」
    • c. 同上、3章16節「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせなさい。」
  • ②キリスト者を受け入れることにおいて、キリストご自身をお迎えすることになるという、兄弟への尊敬、特にいと小さい者の尊重と愛とが教えられる。マタイ25章40節。「まことにあなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちにしたのは、わたしにしたのです。」

(4) 人知をはるかに越えたキリストの愛を知るために

  • 人知をはるかに越えたキリストの愛、しかも「その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する」ためには特別な力が必要である。キリスト者の祈りの生活の大切さがここにある。「理解する」「知る」とは、単なる頭で分かるということではなく、本当に自分のこととして把握することを意味している。キリストの愛を知るためのライフスタイルは、
  • ①「愛に根ざし、愛に基礎を置く」・・私たちの生活の土台をキリストの愛に置くこと。
  • ②「すべての聖徒ともに」知る・・聖徒の交わりの生活を築く。キリストの愛の広さ(誰に対しても寛容であり、親切な愛)、キリストの愛の長さ(すべてをがまんし、信じ期待し、すべてを耐え忍ぶ愛)、キリストの愛の高さ(この世にない神の志向の愛)、キリストの愛の深さ(どんな罪人をも受け入れていく愛)。「あなたの隣人を自分と同じように愛せよ」(マルコ12章31節)。
  • 〔ポイント〕・・・このようなキリストの愛を、すべての聖徒たちとともに体験し、自分のものとしていけるように、互いに祈り合おう !!

(注1)

  • 旧約聖書は①モーセ五書、②歴史書、③詩歌書、④預言書からなっているが、新約聖書において、それぞれに対応する部分は、①福音書、②使徒の働き、③書簡、④ヨハネの黙示録である。旧約の詩歌書(ヨブ記、詩篇、伝道者の書、箴言、雅歌)は、歴史の断面において、神とその民の関係において、どのように礼拝し、祈り、人生の様々な状況において学んだ知恵について書かれているが、新約聖書における書簡は、神の民が神がキリストにおいてなされた救いをどのように理解し、どのように神に仕え生きるべきか、実際のとりなしの祈りの中で啓示された主の知恵と知識に基づいて書かれている。つまり、書簡は使徒パウロ、ペテロ、ヤコブといった使徒たちのとりなしの祈りによって生み出されたものと言える。

(注2)

  • 「内なる人」をイエス・キリストとする解釈は、榊原康夫師に教えられることが多い。その著『エペソ人への手紙<上>』(いのちのことば社、1989年) の510~512頁に詳しく論じられている。


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