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パウロのとりなしのkeyword<5>His Will

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B-13. パウロのとりなしのKeyword <5>

His Will

神のみこころを深く知ること

はじめに

  • コロサイにある教会はエパフラスによって開拓された教会である。エパフラスはパウロのエペソ伝道で主に導かれた人である。パウロはコロサイの教会に一度も訪れたことはないが、言うならば、霊的な孫たちのために祈り続け、手紙を書いた。ところで、コロサイ人への手紙にはパウロ自身とエパフラスのとりなしの祈りが以下のように記されている。
    • 「こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。」 (コロサイ1章9節)
    • 「あなたがたの仲間のひとり、キリスト・イエスのしもべエパフラス・・・はいつも、あなたがたが完全な人となり、また神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるよう、あなたがたのために祈りに励んでいます。」 (コロサイ4章12節)
  • パウロもエパフラスも共にコロサイのクリスチャンたちのために「絶えず祈り求め」「祈りに励んで」いた。これは文字通り、自分で定めた毎日の祈りの時間に彼らのためにとりなしをしているということである。そして、繰り返されたとりなしの祈りの内容(嘆願)には共通点がある。その共通点を一言でいうなら、「神のみこころを深く知り、従うことができるように」ということである。使徒パウロとエパフラスは、コロサイの教会の人々が神のみこころをわきまえて、みこころに自ら進んで、喜んで従っていくことができるように、そして成熟したクリスチャンとなるようにと祈ったのである。神のみこころに生きるためには、聖霊による霊的な知恵と理解力を必要とすることは言うまでもない。

(1) 神のみこころの二面性

  • ところで、パウロが「神のみこころに関する真の知識にみたされるように」と祈ったその「みこころ」には、二つの意味合いが含まれていると考えられる。一つは<神の定まったみこころ>であり、もう一つは<神の望んでおられるみこころ>である。()

①<神の定まったみこころ>

  • 神が主権をもって必ずなされるみこころ、環境や人間に支配されないみこころがある。この種のみこころには奥義があり、私たちは神の一部分しか知ることが許されていない。そのみこころが行なわれる目的は、神の栄光がほめたたえられるためである。だれも神の計画に逆らうことはできない。たとえば、パウロは「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロ」とある(エペソ1章1節)。使徒となることは、神がパウロの人生に起こるように定められた。一見、クリスチャンたちを迫害していた彼は、自分はまさか自分が「この道」に入るとは考えもしなかった。しかし神はこの世の基が置かれる前から、彼をキリストの使徒として選んでおられたのである。「だれが神のご計画に逆らうことができるだろう。」答えは「だれもできない。」である。特に神の選びと救いはそうである。それは起こってみてはじめて知ることが出来る。
  • また、自分がどのような両親から生まれ、どのような環境に育ち、どんな人との出会いを与えられるのか、どんな経験をするのか・・私たちの人生において起こったすべてのことは、神が私たちに定められたみこころの一部である。神が定めたからこそそうなったといえる。それを私たちは変えることはできない。自分がいつまで生きていられるのかも、それが起こってみるまでは分からない。しかし神はそれを定めておられるのである。ただ大切なことは、神の定まったみこころに対してどのような態度をとるべきかである。神の定まったみこころは最善である。そして「神は、神を愛する人々のために、すべてのことを働かせて益としてくださる」のである。このことを信じないかぎり、光は見えてこない。

②<神の望んでおられるみこころ>

  • 神がすべての人に望んでおられるみこころがある。それは絶対的なものではなく、私たちの決断に基づいている。それは奥義ではなく、それを知ることができ、また行なうことが出来るものである。それゆえ、「神のみこころは何か」をわきまえるために、心を一新して自分を変えること、が求められている(ローマ12章1節)。
  • たとえば、エペソ人への手紙4章1節からあるように、「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍びあい、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい」と。「召しにふさわしく歩む」・・「神に愛されている子どもらしく、神にならう者になりなさい。」「聖徒にふさわしく、不品行・・またどんなむさぼりも口にすることさえいけません。」「光の子どもらしく歩みなさい」・・・と。ここには神が私たち一人ひとりに、こうあってほしいと望んでおられるみこころがある。
  • 神のみこころは、いつも喜んでいること、絶えず祈ること、すべてのことについて感謝すること、聖くなること、成長してキリストのようになることである。もし、私たちが喜んでいないなら、祈っていないなら、またすべてのことついて感謝することができずに不平とつぶやきをこぼしているならば、私たちは神のみこころからはずれているのである。

(2) 神の望んでおられるみこころを実現するための父の訓練

  • 私たちはパウロと同じく「神のみこころを深く知る」ために祈りはじめるとき、そのプロセスにおいて私たちがしばしば予想できない出来事(痛み)が起こってくることを知らなければならない。というのも、私たち人間は神が望んでおられるみこころに対してなかなか「Say, Yes」と言えないからである。それゆえ神は、しばしばその愛する子に訓練を与えられるのである。そしてその訓練は、私たちに対する霊の父の愛の表現なのである。愛するゆえにそうするのである。

①罪には楽しさが伴う

  • 罪には楽しさがある。たとえ麻薬のように一時の興奮を得るだけだとしても。罪は確かに楽しいのである。罪は快楽をもたらす。もしそうでなかったら、罪にまつわる厄介な問題は起こらないに違いない。罪と戯れることは楽しい・・そのように悪魔は私たちを惑わすのである。悪魔は悪いものを良いものと思わせる天才なのである。これが悪魔の基本的な策略である。だから、神のみこころに反したことをしていながら、事はうまく運んでいるように見え、人生を結構楽しみ、幸せと感じている。私たちはしばしば自分たちの楽しい結果に欺かれる。罪にはある種の楽しみがあるからである。

②自業自得の原理・・自分が蒔いたものは必ず刈り取るという原理

  • しかし罪の楽しみははかない。楽しくない結果を生む。ガラテヤ書6章6~8節で「思い違いをしてはならない。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」とある。「神を侮る」とは、神に向かって「鼻を高くすること」である。「肉に蒔く」とは罪を犯すこと、神のみこころを退けること。「肉から滅びを刈り取る」とは楽しくない結果が起こることを意味する。これが原理であり、警告である。もし神のみこころに反したことを行なうならば、その結果に責任を取らなければならない。
  • しかし私たちの霊の父は私たちを愛しておられる。もし私たちが神の望まれるみこころのうちを歩んでいないなら、そのわがままのゆえに、神はむち(懲らしめ)を私たちにお与えになる。それは私たちのための父による矯正であり、それが神の愛の表現なのである。へブル12章6節。

③ 悔い改めに至る悲しみ

  • 神のみこころからはずれたために味わう楽しくない結果(悲しみ)に対して、私たちがどう反応するかが重要である。ダビデも詩篇32篇で、自分が罪を犯したことのゆえにもたらされ罪責感で苦しんだ。しかしそれを神の前で告白したとき罪の赦しが与えられ、彼はそこから解放された。
  • 神は、私たちが神のみこころに従って生きることを学ぶために、悔い改めに至る悲しみを私たちに与えられる。「神の知恵と知識の富は、何と底知れず深いことか。」(ローマ11章33節)
  • このように祈ろう!
    「主よ、あなたのみこころを知り、それを行なうことを教えてください。」
    「父よ、あなたの子にふさわしい平安の義の実を結ばせてください。」

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  • これについては、J・グラント・ハワードJr著『みこころを知り、みこころに従う』(聖書図書刊行会、1979)の良著がある。


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