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パウロ自身のためのとりなしの要請

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B-15. パウロ自身のためのとりなしの要請



はじめに

  • Bの「人々とのかかわりを育てる」では、教会という共同体の枠におけるとりなしに強調点を置き、パウロ書簡に見られるとりなしの祈りをフォーカスしてきた。前にも述べたように、現代の教会の課題は、教会が共同体としての祈りを発見して、それを共同体の歩みの中心に据えることである。共に分かち合う共同体を建て上げることである。そのためのそのモデルとして、使徒パウロのとりなしの祈りを学んできたが、そのすべてを取り上げることができたわけではない。まだまだ不十分である。使徒パウロのとりなしの祈りに学ぶことは、単に、その祈られている内容にとどまることなく、その重要性を痛感し、その奥義にふれてそれを実際に生きることにある。
  • 「人々とのかかわりを育てる」の終わりとして、パウロが書簡の中で自分自身のためにとりなしの祈りの要請をしている箇所に注目し、その意義を考えてみよう。

(1) パウロ自身に対する祈りの要請・・個人的な祈りのパートナーの価値

  • 使徒パウロは自分が執筆した書簡の中で、何と以下のように懇願している。

    ①「兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。」(ロマ 15:30)
    ②「また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。」(エペソ 6:19)
    ③「私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。」(エペソ 6:20)
    ④「同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください」(コロサイ4: 3)
    ⑤「私がこの奥義を当然語るべき語り方で、はっきり語れるように祈ってください。」(コロサイ4: 4)
    ⑥「兄弟たち。私たちのためにも祈ってください。」(Ⅰテサロニケ 5:25)
    ⑦「終わりに、兄弟たちよ。私たちのために祈ってください。主のみことばが、あなたがたのところでと同じように早く広まり、またあがめられますように。」(Ⅱテサロニケ 3: 1)
    ⑧「私たちのために祈ってください。私たちは、正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動しようと願っているからです。(ヘブル 13:18)

  • このようにパウロは、キリストのからだの一部分として、他の兄弟たちの祈りに依存している。20年間福音を宣べ伝えてきた後も、彼はなお語るべきことを十分に語れるように祈ってほしいと、兄弟たちに頼んでいるのである。それも一度だけではない。しばらくの期間でもない。毎日、絶え間なく、彼の働きのために恵みが求められるように祈りの要請をしているのである。これは何を意味しているのだろうか。
  • ピーター・ワグナーは『祈りの盾』(1992年)という本を執筆しているが、彼はその本を執筆した理由をこう記している。「それは霊的力の源が、今日、教会で最も活用されていない<霊的指導者のためにとりなす祈り>にあると個人的に確信しているからである。・・現代のクリスチャンは、霊的指導者のための個人的な祈りのパートナーの力を活用しないばかりか、祈りのパートナーの存在自体がそもそも認識されていない」と述べている。この『祈りの盾』という本は、単なるとりなしの祈りについて扱われているのではなく、牧師をはじめとする「霊的指導者のためのとりなしの祈り」という明確な主題が取り扱われている。
  • パウロも書簡の中で、自分のために祈ってほしいと切願している。「私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください」(ローマ15章30節)は、とりなしの務めが、祈る相手と共に霊的な協力体制をとることを意味している。ピーター・ワグナーは、パウロの個人的な実際の祈りのパートナーとして、ピリピ教会のユウオデヤとスントケという二人の人物がいたと述べている。彼は、彼女たちがパウロの日常的なサポートよりもはるかに重要な役割を果たしていたと述べている。その根拠は「私に協力して戦ったのです」(ピリピ4章3節)という表現に用いられている言葉が非常に強い意味合いを含む動詞(シナスレオ)であることをあげている。このことばは「反逆し、戦いに挑んで来る敵を前にして一致団結して、戦いを進めること」を意味する。つまり、ピリピの町に福音が定着するために、彼女たちはパウロの兵卒として戦いを共にしているということである。それゆえワグナーは、彼女たちがパウロの個人的な祈りのパートナーであるとしている。
  • イタリヤの経済・社会学者ヴィルフレード・パレートは、19世紀の終わり頃、驚くべき発見をした。それは「パレートの法則」といわれるもので、20パーセントの人の働きが他の80パーセントの人を動かすという法則である。しかし、ピーター・ワグナーは、とりなし手にあてはめた場合、全体を動かす必要不可欠な数は全体の5パーセント程度だとしている。そしてこの少数派のとりなし手の働きがいかに驚くべき霊的力をもったものであるかを、多くの教会は理解していないとしている。

(2) とりなしの祈りを必要としている牧師、霊的指導者

  • クリスチャンであるならば、だれもがとりなしの祈りを必要としている。しかながら、牧師をはじめとする霊的指導者の場合は、キリストの体なる教会の中でもひときわ多くのとりなしを必要としているのである。その理由は以下の通りである。

① 牧師はより大きな責任があるゆえに

  • ヤコブ書3章1節に「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」とある。世の終わりにすべてのクリスチャンはキリストの裁きの座に立たなければならないが、牧師や他の霊的指導者に対しては、二重のさばきがなされると警告されている。言い換えるならば、神の目からすれば、同じ罪でも他の人々が犯す罪よりも牧師が犯す罪の方が、刑罰が重いということである。このように指導的立場に立つことは大きなリスクを伴うのである。もし信頼が失われるような罪を犯すならば、キリストの体に対して多大な損害を与えることになるということである。それゆえ、霊的指導者はより多くのとりなしの祈りを必要とする。

② 牧師の方がより多くの誘惑に会うゆえに

  • 霊的指導者として用いられればもちいられるほど、サタンのブラックリストの上の段階に名前が記されることになる。サタンは「食い尽くすべきものを捜して歩き回る、ほえたける獅子のような存在」である。それゆえだれよりも先に、指導者を食い物にしようと狙っている。

③牧師はより大きな影響力を持っているゆえに

  • 牧師が他のクリスチャンよりもとりなしの祈りを必要とする理由は、働きの性質上、多くの影響力を持っているからである。牧師が霊的に倒れると、他の人々が倒れた場合よりも、より多くの人々が傷つき、また霊的生活もダウンする。霊的に成熟したクリスチャンは裏切られたという思いに押しつぶされ、また、まだ成熟していないクリスチャンは牧師があのようなことを行っているのだから、私も同じ事を行なおうと思うようなる。また、牧師が倒れるならば、諸教会にも大きな痛手を与えることとなる。

④牧師は目立つ存在・・つまり批判の対象となりやすいゆえに

  • 仕事の性質上、牧師は人の前により多く立たなければならない。そして当然、絶えざる噂話、そして批判の対象となりやすい。人々は牧師の良い点ばかりを見ているわけでは決してない。
  • このように、牧師たちは超自然的な助けを必要としているのである。そしてその超自然的な助けを提供するのが、とりなしの祈りであり、個人的な祈りのたちの存在なのである。しかも頻繁に、継続的なとりなしが必要なのである。
  • もし、こうしたとりなしの祈りによる霊的な協力体制を取ることが出来るならば、以前にはなかったほど、心の健やかさ、聖霊の実の豊かな現われ、個人的な祈り生活、すぐれた上からの知恵、新しい啓示、そして指導者としてのすぐれた面が現われてくるのである。それゆえ、パウロは自分のために祈りを要請したのである。
  • とりなしの祈りのパートナーとなって霊的指導者をカバーすることは、キリストの体なる教会に大きな霊的力を生み出すことである。あなたはその祈りの務めに献身する心がありますか。


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