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ヒヤシンス石

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1. 大祭司の胸当てに埋め込まれている12の宝石

(7) 「 ヒヤシンス石」ー「 エフライム部族」

画像の説明

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ベレーシート

  • 「ヒヤシンス石」と訳された「レシェム」(לֶשֶׁם)、口語訳・岩波訳では「黄水晶」、新共同訳では「オパール」と訳されています。不思議なことに、この「レシェム」(לֶשֶׁם)という言葉から語源的な意味を探り出す情報はなにも見出すことができません。もしかしたら、「レシェム」ならぬ「マーシャール」(レシェムの文字順を逆にしたמָשָל「なぞ」という意味)、あるいは「モーシェール」(מֹשֵׁל「支配者」という意味)の間違いではないかと思わされるほどです。いずれにしても、この「ヒヤシンス石」にヨセフの二番目の息子であるエフライム(אֶפְרַיִם)という名前が刻まれているのです。

1. 「エフライム」の語源は「実り多い」という意味の「パーラー」

  • なぜ、ヨセフは自分の息子に「エフライム」という名前をつけたのか、その経緯が聖書の中に記されています。

    【新改訳改訂第3版】創世記41章41~52節

    41 パロはなおヨセフに言った。「さあ、私はあなたにエジプト全土を支配させよう。」
    42 そこで、パロは自分の指輪を手からはずして、それをヨセフの手にはめ、亜麻布の衣服を着せ、その首に金の首飾りを掛けた。
    43 そして、自分の第二の車に彼を乗せた。そこで人々は彼の前で「ひざまずけ」と叫んだ。こうして彼にエジプト全土を支配させた。
    44 パロはヨセフに言った。「私はパロだ。しかし、あなたの許しなくしては、エジプト中で、だれも手足を上げることもできない。」
    45 パロはヨセフにツァフェナテ・パネアハという名を与え、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテを彼の妻にした。こうしてヨセフはエジプトの地に知れ渡った。
    46 ──ヨセフがエジプトの王パロに仕えるようになったときは三十歳であった──ヨセフはパロの前を去ってエジプト全土を巡り歩いた。
    47 さて、豊作の七年間に地は豊かに生産した。
    48 そこで、ヨセフはエジプトの地に産した七年間の食糧をことごとく集め、その食糧を町々にたくわえた。すなわち、町の周囲にある畑の食糧をおのおのその町の中にたくわえた。
    49 ヨセフは穀物を海の砂のように非常に多くたくわえ、量りきれなくなったので、ついに量ることをやめた。
    50 ききんの年の来る前に、ヨセフにふたりの子どもが生まれた。これらはオンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテが産んだのである。
    51 ヨセフは長子をマナセと名づけた。「神が私のすべての労苦と私の父の全家とを忘れさせた」からである。
    52 また、二番目の子をエフライムと名づけた。「神が私の苦しみの地で私を実り多い者とされた」からである。

  • ヨセフにとって苦しみの地であったエジプトが、はからずも、実り豊かな地とされました。彼は兄たちによる妬みによって深い穴に投げ入れられ、奴隷としてエジプトに売られ、そこで罪の濡れ衣を着せられて投獄され、足かせにつながれ、捕らわれの身となりました。しかしそんな苦しみの地で、彼は突然、牢獄から王座へと引き上げられます。ヨセフは七年の豊作の最中に、二人の息子であるマナセとエフライムを与えられました。まさにヨセフは、神の不思議な導きによって、苦しみから実り多い祝福へと変えられたのでした。
  • 「エフライム」の語源(ルーツ)は「実を結ぶ、繁殖する、より多くの実を結ぶ、多く実らす、多くの子を与える」という意味を持つ動詞「パーラー」(פָּרָה)のヒフィル(使役)態です。ヨセフの父イスラエル(ヤコブ)が臨終の時にそれぞれの息子たちを祝福しましたが、ヨセフに対する預言的祝福のことばは「ヨセフは実を結ぶ若枝、泉のほとりの実を結ぶ若枝、その枝は垣を越える。」(創世記49:22)でした。ちなみに、ヨセフは父から長子の権利を相続しています。長子の権利とは、他の息子に勝って二倍の祝福(相続)が与えられます。

2. 「エフライム」の精神

  • 「エフライム」の精神とは、なによりも「長子とその権利」をあかしすることです。
  • イスラエル(ヤコブ)から長子の権利を譲り渡されたのはヨセフでした。しかもその継承に当たっては、他の息子たちがだれひとり文句のつけようのない形で、当然のように、かつ自然な形で与えられたのです。しかも、「苦しみが多くの実をもたらす」というヨセフの人生は、そのままキリストの型となっています。御父が御子イェシュアをこの世に遣わし、そのイェシュアが一粒の麦として地に落ちて死に、そのことで多くの実を結んだことの型です。長子は多くの兄弟たちの祝福のために、代わってその苦しみを受けるべく定められています。

    【新改訳改訂第3版】ヘブル人への手紙2章9b~10節

    9 イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。10 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。

  • 御子は「多くの兄弟たちの中で長子となられ」ました(ローマ8:29)が、長子の権利とは人を祝福することのできる権利です。それはアブラハムからイサクへ、イサクからヤコブへ、ヤコブからヨセフへ、ヨセフからモーセへ・・と連綿と受け継がれました。そして今や御子イェシュアから私たちへと受け継がれているのです。そのために必要なのは、御子イェシュアにとどまることです。

    【新改訳改訂第3版】ヨハネの福音書15章4~5節

    4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
    5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

  • 御子イェシュアが私たちの長子でなければ、私たちは天の父なる神の祝福にあずかることはできません。私たちも御子のうちに、決意的に、かつ、継続的にとどまらなければその祝福を人々に与えることができません。
  • 驚くべきことに、今や私たちはキリストにあって「長子の権利」を与えられているのです。それは人を祝福していく権威です。イスラエル(ヤコブ)がエジプトの王パロを祝福したように、私たちも神の権威によって祝福する権威が与えられています。ヘブル人への手紙の著者は、エサウのようにそれをないがしろにしてはならないと警告しています。人を祝福するすばらしいこの務めを果たすために、私たちは天の門を開く鍵が与えられていることを心に留めたいと思います。この世の地位あるものや、力ある者の前でも決してたじろぐことなく、堂々と祝福することを神は求めておられるのです。それは私たちがキリストにある長子として、神の無尽蔵な天の富をこの世に分かち与えるためなのです。


2014.5.5


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