****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

ブライダル・パラダイム (5)

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6. ブライダル・パラダイム (5) ー雅歌から学ぶ花嫁②

【聖書箇所】雅歌2章1~7節、ローマ人への手紙11章34節

ベレーシート

  • 今回は、花婿と花嫁とのかかわりの背景にあるヘブル的時間感覚について取り上げてみたいと思います。雅歌を学ぶうちに、そこにある季節感は私たち日本人とは異なることに気づきました。日本人には春夏秋冬という四つの季節感覚がありますが、聖書の世界(ヘブル的な世界)には二つの季節感覚しかないということです。それは神のご計画を考える上できわめて重要な事柄なのです。

画像の説明

  • 上の図を見ると分かるように、一年は二つの季節、つまり冬と夏の季節しかありません。私たちの言う「秋」は夏の季節の「終わり」であり、冬の季節の「始まり」なのです。また、「春」は冬の季節の「終わり」であり、夏の季節の「始まり」でもあるのです。そうしたニ季感覚がヘブル的季節感覚なのであり、「秋」とか「春」というヘブル語の語彙はないのです。聖書はそうした時の概念をさまざまな自然の風物によって描き出していると言っても過言ではありません。聖書における季節は「四季」ではなく、「二季」なのです。

【新改訳改訂第3版】雅歌2章10~13節
10 私の愛する方は、私に語りかけて言われます。「わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。
11 ほら、冬は過ぎ去り、大雨も通り過ぎて行った。
12 地には花が咲き乱れ、歌の季節がやって来た。山鳩の声が、私たちの国に聞こえる。
13 いちじくの木は実をならせ、ぶどうの木は、花をつけてかおり
を放つ。わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。・・・・」

  • 花婿と花嫁の出会いは、冬が過ぎ去った夏の季節においてです。すなわち、それは花が咲き乱れる歌の季節であり、「いちじくの木は実をならせ、ぶどうの木は、花をつけてかおりを放つ」季節なのです。やがていちじくの実やぶどうの実が収穫されるその時には、花婿と花嫁が結ばれる時なのです。
  • 夏の季節の中には、主の三大例祭があります。「過越の祭り」「七週の祭り」「仮庵の祭り」です。その中でも「仮庵の祭り」は重要であり、単に「主の祭り」と言えば、「仮庵の祭り」のことを意味するほどです。なぜなら、その祭りは神のご計画(マスタープラン)においてとても重要だからです。過越の祭りに婚約した花婿と花嫁は、仮庵の祭りの始まる「ラッパの祭り」の時期に花婿が迎えに来ることで結婚するのですが、その時がいつかは知らされていません。しかし、イェシュアはこう言われました。

【新改訳改訂第3版】マタイの福音書24章32~33節
32 いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。
33 そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。

  • 上記のイェシュアのことばは、文字通りの意味ではなく、二つの季節の中に隠されている神のご計画(マスタープラン)についての真理を悟るようにと促しているように思います。
  • ところで冬の季節は「雨季」です。反対に夏の季節は「乾季」です。冬の季節の終わりには多くの穀物が収穫されます。そして多くの花が咲き乱れます。一方、夏の季節の終わりには多くの果実(ざくろ、いちじく、ぶどう、オリーブなど)が収穫されます。この「冬から夏へ」という時間感覚は、創世記1章5節にある「こうして夕があり、朝があった」というリズムから来ています。一日は夕から朝だけでなく、朝から夕までの流れがありますが、ヘブル人たちは、一日のリズムを「夕があり、朝があった」と表現するのです。そのリズムは、詩篇においては「嘆きから賛美へ」という感覚として現わされるのです。それは「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」(詩篇30:5)とあるように、神への信仰から来る希望に満ちた感覚であり、神の恩寵、ないし救済のリズムと言えるのです。あるいは、終わりの徹底的な破滅の向こうに、新しい喜びの世界が始まることを示唆しています。このヘブル的時間感覚を意識しながら聖書を読むことで、今まで気づかなかった多くの事が見えるようになると信じます。それは花婿と花嫁の愛の歌である「雅歌」においても然りです。

1. 「花」という語彙を中心とした愛のかかわり

  • 雅歌は花婿と花嫁の愛のかかわりが描かれていますが、それが呼応している描写に注目する必要があります。雅歌の解釈については、これまで多くの解釈が試みられてきました。大きく分けると「比喩的(寓意的)解釈」と男の女の愛をありのままに描いたものとして解釈しようとする「自然的解釈」の二つです。しかし、私はこの雅歌を先の二つの解釈を踏まえながら、神のご計画の目的という聖書の鳥瞰的な視点とヘブル的視点から、そして「御国の福音」の視点からの解釈を試みたいと考えます。なぜなら、花婿と花嫁の比喩はキリストと教会の愛のかかわりの奥義であると使徒パウロは理解したからです。旧約の中にありながら、やがて啓示される花婿なるキリストと花嫁なる教会の奥義がこの「雅歌」の中にあると信じます。その向き合い方を、まずは雅歌2章1~2節から見てみたいと思います。

【新改訳改訂第3版】雅歌2章1~2節
1 私はシャロンのサフラン、谷のゆりの花。
2 わが愛する者が娘たちの間にいるのは、いばらの中のゆりの花のようだ。


(1) 花嫁のことば

  • 「私はシャロンのサフラン、(私は)谷のゆりの花。」これはヘブル語特有のパラレリズムです。つまり、ここで花嫁は自分のことを春先(正しくは夏の初め)に咲く花にたとえているのです。「シャロン」はイスラエルの西海岸の平野を意味します。「サフラン」(新改訳)と訳された花の原語は「ハヴァッツェレット」(חֲבַצֶּלֶת)で、新共同訳は「ばら」、岩波訳は「百合」、フランシスコ会訳・バルバロ訳は「水仙(すいせん)」とそれぞれ訳しています。
    アネモネ.JPG
  • 後半の「ゆり」(新改訳・新共同訳・フランシスコ会訳・バルバロ訳)と訳された原語は、「シューシャン」(שׁוּשַן)です。おそらくこれは「アネモネ」という赤い花のことを示唆しています。「谷」と訳された「ハアマーキーム」(הַעֲמָקִים)は谷間であっても比較的広々とした平野を意味します。「ハヴァッツェレット」(חֲבַצֶּלֶת)にしても、「シューシャン」(שׁוּשַן)にしても、春先に咲く花として、花嫁の愛の初々しさを表している表現と言えます。たとえその花がどこに咲いていようとも、花婿はそれを決して見逃さないということが重要なのです。2節はそのことを示しています。ちなみに、イェシュアが「野のゆり」のことを話したことがありますが(マタイ6:8)、その「野のゆり」もヘブル語では「シューシャン」(שׁוּשַן)の複数形です。「ゆり」は神に選ばれた者の象徴なのです。

(2) 花婿のことば

【新改訳改訂第3版】雅歌2章2節
わが愛する者が娘たちの間にいるのは、いばらの中のゆりの花のようだ。

  • ここでも、「いばらの中にあるゆりの花」と「娘たちの中にいるわが愛する者」は同義(パラレリズム)なのです。「わが愛する者」(これは花婿が花嫁を呼ぶ呼び方)が、たとえ多くの娘たちの中に紛れていたとしても、花婿はその存在をいち早く見つけることができるだけでなく、「わが愛する者」がひときわ目立つ存在として目に映っていることがここでは重要なのです。そのことを「いばらの中のゆりの花のようだ」と描写しているのです。1節と2節をつないでいるのは「花」です。「花」の季節に花婿と花嫁が出会ったことが描かれているのです。

2. 「林檎の木」という語彙を中心とした愛のかかわり

  • 2節では、花婿が花嫁の存在をいばらの中にある「ゆりの花」として注目しましたが、3節では反対に、花嫁は林の中にある木々の中にある「林檎の木」として花婿の存在を見ています。

【新改訳改訂第3版】雅歌2章3節
私の愛する方が若者たちの間におられるのは、
林の木の中のりんごの木のようです。
私はその陰にすわりたいと切に望みました。
その実は私の口に甘いのです。

  • 3節の前半も「私の愛する方」(花婿に対する呼び名)の存在を、若者たちの間にいることを、林(森)の中に植わっている「りんごの木」のようだと描写しています。「りんごの木」と花嫁の呼応を、ここではその木を慕ってその木の「陰にすわる」という表現と、「その実が私の口に甘い」という表現で描写しています。
  • 3節の後半は、「りんごの木」に象徴される花婿の陰(=「ツェール」צֵל)に座わる(住む)ことを花嫁は切に望んでいます。それは花婿の保護のもとに身を寄せることを意味しています。なぜなら、「その木の実は私の口に甘い」からです。「甘い」という感覚はとても光栄に満ちた祝福で、しかも自分を「力づけて」くれることの象徴的表現です。詩篇91篇1節に、「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る」とあります。そこにある「隠れ場」(「セーテル」סֵתֱר)と「陰」(「ツェール」צֵל)は同義です。そこには親密な信頼と安心の保障があります。
  • キリストとその教会がそのようなかかわりを深めることが重要です。最近、私は、YouTubeで、「360年間解けなかった数学の難問を解いた超天才」の動画を見ました。彼は10歳の時にその難問を知り、それを解くことが自分の生涯の仕事だと直感しました。やがてそれに挑戦しようとしますが、勤めていた大学の教授からストップがかかります。なぜなら危険な賭けだからです。しかし、あることから再度チャレンジします。彼はその難問を解くために一人屋根裏部屋にこもりました。そして七年経って突然、答えが与えられたと言います。他にも、数学の難問を解くために結婚もせず、世俗から離れて一つのことに集中したことで、誰も解くことができなかった答えを見つけ出した天才たちがいることを知りました。そんな動画を見ながら、今日、神の隠された秘密を解くことのできる者はだれなのか。それはキリストの花嫁でしかないと悟りました。
  • 花婿の象徴であるりんごの木の陰に座ることを切に望む花嫁、その花嫁こそ、その木の実が口に甘いことを知るのです。神が「人がひとりでいるのは良くない」と言って、神は人に「ふさわしい助け手」を与えました。人の「ふさわしい助け手」とは、「彼と向き合ったふさわしい助け手」(「エーゼル・ケネグドー」)の存在です。「彼と向き合った者」とは名詞「ネゲド」נֶגֶד)ですが、その動詞「ナーガド」(נָגַד)は「解き明かす、示す、告げる」ことを意味します。そのような特権にあずかっているのは、まさに「キリストの花嫁」の他には存在しません。そのことをキリストの花嫁は自ら悟り、「御国の福音」の秘密を解き明かすためにますます花婿を尋ね求める必要があるのです。それが旧約聖書の意味する「愛」(「アハヴァー」אַהֲבָה)が意味することなのです。

3. 神のご計画における「すでに」と「いまだ」の啓示

  • 雅歌2章4~6節には二つの時制があります。その一つは完了形で、もう一つは未完了形です。

【新改訳改訂第3版】雅歌2章4~6節
4 あの方は私を酒宴の席に伴われました。私の上に翻るあの方の旗じるしは愛でした。
5 干しぶどうの菓子で私を力づけ、りんごで私を元気づけてください。私は愛に病んでいるのです。
6 ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。

  • 原文では、4~6節にある動詞は四つですが、うち二つは5節にある「力づけよ」「元気づけよ」は命令形ですから、どちらかと言えば、すでに実現された事柄ではなく、いまだ実現されていない状況における願いを表しています。したがって、4~6節にある動詞のもう二つは、すなわち、「伴われた」と「抱く」です。
  • 4節には「あの方は私を酒宴(原文は「ぶどう酒の家」)に伴われた。」とあり、使役形の完了形が使われています。「伴われる」の原語は「ボー」(בּוֹא)」で、「来る」とも「行く」とも訳されます。ヘブル語は今その事が実現していなくても、必ずそのことが実現する場合には完了形で表わされます。そしてそれが可能であるのは「あの方の旗が愛」だからです。「酒宴の席」(=ぶどう酒の家「ベート・ハッヤーイン」בֵּית הַיָּיִן)とは「婚礼の宴会」を意味します。花婿が来られて「酒宴の席」に伴われたとは、やがて実現する婚姻です。しかし7節で、「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。」とは、いまだそのことが実現していないことを物語っています。すなわち、未完了形なのです。すでに確実な約束と、その実現を待望する中に揺れ動く花嫁の置かれた心情、それを「愛に病んでいる」と表現しているのです。
  • 今日のキリストの花嫁は「いまだ」と「やがて」というこの緊張に耐えなければなりません。そのためには「支えられ、力づけられる」(「サーマフ」סָמַךְ)こと、また「元気づけられる」(「ラーファド」רָפֲד)ことが必要です。なぜなら、花婿は必ず来られて、その右の手でしっかりと花嫁を抱く時が来るからです。それまでの緊張感の中に生きることこそが花嫁の霊性であり、花嫁の輝きです。そしてそれは時として花婿を慕う「病」のようにすら見えるのです。今日の教会がそのような花嫁であるかどうかを吟味されなければなりません。しかしそれは決して煽り立ててはならないことを花婿は望んでおられます。それが7節のことばです。

4. 愛の目ざめのときー愛の神秘

【新改訳改訂第3版】雅歌2章7節
エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿をさして、あなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、
かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。


  • 7節は花婿が語るリフレイン(反復句)です。というのは、2章7節の他に、3章5節、および8章4節にも繰り返されているフレーズだからです。繰り返されているということは、そのことが重要だからです。愛は、自分から、あるいは人から強制されて作り出せるものでありません。「この人を絶対に愛して行きます。永遠に愛して行きます」と口で言ったとしても、そうすることはできないのです。愛には「目覚め」(上からの霊的な促しによる主体性・自発性)が必要なのです。それゆえに尊いと言えます。そして、それが「目覚める」ときには「強さ」を表してきます。8章6節に「愛は死のように強く」とあるとおりです。そして、その愛(=目ざめの愛)は「大水も消すことができない」ほどです。このようにキリストの花嫁は主体的・自覚的に花婿なるキリストへの愛に目覚め、恋い慕うことが求められているのです。それは、毎日のように、「顔と顔を合わせる」ほどに花婿を慕い求め続けることを意味するのです。
  • 使徒パウロは、「いったい、『だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。』ところが、私たちには、キリストの心があるのです。」と言いました(Ⅰコリント2:16)。「キリストの心がある」というのは、キリストの花嫁が至るべき境地です。花婿の心を知らずして、どうしてその花嫁になれるでしょうか。同じく、ローマ人への手紙11章34節でもパウロは、「・・だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか」(新改訳)と語っています。キリストの花嫁とは、「主のみこころを知る」だけでなく、「主のご計画にあずかった」者だとしてパウロは理解しています。これはどういう意味でしょうか。
  • 新改訳は「主のご計画にあずかる」と訳していますが、原語は「スムブーロス」(σύμβουλος)で、顧問とか、相談役(カウンセラー)といった意味です。つまり、ここでパウロは、だれが「神の顧問」となったのかと言っているのです。神の顧問とは、御国についての相談に応じることのできる人なのです。これこそ、「花婿にふさわしい助け手」ではないでしょうか。イェシュアが語った「御国の福音」がいかなるものであるか、神のご計画はいかなるものであるか、その相談役として、その道の顧問となるために、さらなる渇望を持った花嫁となりたいと思います。「・・だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか、いや、だれが神のご計画を知る相談役となったのですかという「問いかけ」の言葉の背後には、それはまさに「キリストの花嫁」以外にはいないではないかという熱い思いが込められているのではないでしょうか。そのような、高められた「ブライダル・パラダイム」をもった者となれるように祈りたいと思います。

2015.8.16


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