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ヘブル語の「御心」(ラーツォーン)の秘密

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MDRSH 4. ヘブル語の「御心」(ラーツォーン)の秘密

ラーツォーネハー

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ベレーシート

  • 「主の祈り」のミドゥラーシュの第四回目。今回は「御心がなされるように」という祈りについてです。主の祈りの前半にある「御名があがめられること」、「御国が統治されること」、「御心がなされること」―これらはみな密接なつながりをもっており、いわばパラレリズム(同義的並行法)的構造をもっています。

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  • ヨハネの黙示録の4章の最後に、24人の長老たちが、自分の冠を御座の前に投げ出して、「あなたは、栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は創造されたのですから。」(4:11)と賛美している箇所があります。その箇所にある「あなたのみこころゆえに」という部分を「あなたの喜びのゆえに」と訳している本に出会いました。あいにくその本のタイトルが何であったのか未だに思い出せないのですが、「あなたのみこころのゆえに」が「あなたの喜びのゆえに」と解釈できるのだと知って感動し、興奮したことを今でも忘れません。どうしてそのように訳せるのか(解釈できるのか)、私には分かりませんでした。
  • ところが、ヘブル語を勉強するようになってからその箇所をヘブル語訳の聖書で見た時、驚きました。何とその「みこころ」という言葉に「ラーツォーン」(רָצוֹן)というヘブル語が当てられていたからです。ギリシア語では「セレーマ」(θέλημα)で、新約では神の意志、御旨、思い、願い、望みという意味で62回使われているのですが、ヘブル語の「ラーツォーン」は被造物に対する神の好意、喜び、恩寵、受容を表現する語彙なのです。ギリシア語のニュアンスには感じられない神の被造物に対する喜びが、ヘブル語の「ラーツォーン」という言葉で表されているのです。このことのゆえに、黙示録4章の「24人の長老たち」は神から与えられた金の冠を投げ出してまでも、ひれ伏して創造主を礼拝しているのです。
  • 創世記1章の神の創造のみわざにおいて、神はご自身がお造りになったものをご覧になって、「見よ。それは非常によかった」とあります。すべての被造物は「はなはだ良かった」という神の感動の下に存在しているのです。そもそも、私たちは神に受け入れられている存在なのです。神のお望みどおりの、実に美しい存在なのです。この信仰こそ、私たちの被造物としてのアイデンティティの根を太いものにしていきます。そして、それは神とのかかわりにおける成熟への憧憬(あこがれ)をも抱かせる力だと信じます。実に、私たちは神の喜びの対象なのです。
  • 結論を先取りするなら、「主の祈り」の御父の「みこころがなされるように」との祈りは、この地において、人に対する神の救いの恩寵が満ち溢れることへの祈りなのだということです。今回はこのことについてミドゥラーシュしてみたいと思います。

1. 「ラーツォーン」(רָצוֹן)の語義

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  • 「ラーツォーン」(רָצוֹן)という名詞は旧約聖書では54回使われています。その動詞は「ラーツァー」(רָצָה)で56回、「受け入れる、好意をもって受け入れる」、そのために「償いをする、埋め合わせをする」という意味があります。常に人に対する恩寵的かかわりがあります。これが神がみこころを行なうというニュアンスです。
  • 名詞の「ラーツォーン」を検索し、それが使われている聖書箇所を一つ一つ丁寧に調べていくことで、この言葉の持つ意味をより正確に把握することができます。特に、詩篇は重要です。
    5:12/19:15/30:6,8/40:9/51:20/69:14/89:17/103:21/106:4/143:10を参照。

    (1) 自らの意志や願い・望みを表わす
    「ほしいままに」「思うがままに」「意のまま」「思い通りに」「自分の好みのままに」「self-will 」。肯定的な意味においても、否定的な意味においても用いられます。

    (2) 神に対する主体的・自発的行為を表わす
    「喜んで」、「主のみこころを行なうこと」を求める。

    (3) 主によって受け入れられることを表わす(礼拝におけるささげものの規定)
    そのためには、傷があったり、欠陥があったりしてはならない。

    (4) 主の恵み、好意、恩寵、御旨を表わす
    主が人を受容する喜び、いのちを得させる恵みこそが、主の御旨とされる。また、主はご自身の民を愛をもって喜び迎えられる。


2. 「ラーツォーン」は「二人の息子の父のたとえ話」に啓示されている

  • 主の祈りにおける「御心(みこころ)が行なわれるように」の祈りのイメージは、ルカの福音書にある「二人の息子を持つ父のたとえ話」における父の息子たちに対する態度の中に啓示されています。そこには、神の「受容」と神の「懇願」の二つの概念が含まれています。

(1) 弟息子に対する父の先取的受容

  • 父から財産の分け前をもらった弟息子は、幾日もたたぬうちに、父から遠く離れ、「遠い国へと旅立った」とあります。そして、自分の好き勝手に生きようとしました。しかしその結果はなんとも悲惨なものでした。金の切れ目が縁の切れ目と言うように、やがてはだれからも相手にされず、孤独の空しさに陥りました。そこで彼ははじめて自分が父から離れたことが間違いであったことに気づき、父のもとに帰ろうと決心します。神に対しても、父に対しても罪を犯したことを認め、自分は子と呼ばれる資格がないと自覚しつつも、「立ち上がって」(「アニステーミ」ανιστημι、復活用語です)、父のもとへと帰って行きます。
  • ところが、まだずっと離れているにもかかわらず、そんな弟息子を見つけたのは父の方でした。父は、かわいそうに思い(神のあわれみを表わす重要な語彙「スプランクニゾマイ」σπλαγχνίζομαι)、走り寄って彼を抱き、(何度も)口づけしました。何とも感動的なシーンです。弟息子に対する父の動作を表わす四つの動詞に注目する必要があります。しかもそれはすべて「アオリスト(過去)時制」として表現されています。

    ①「見た」・・父の方が先に見つけたのです。父は息子の帰りを待っていたことが分かります。
    ②「かわいそうに思った」・・神のあわれみを表わす重要な動詞で、単なる同情ではなく、必ず行為を伴います。
    ③「走る」・・父の方から走り寄って・・ヘブル語では「ルーツ」(רוּץ)
    ④「抱きついた」・・正確には、首の上に抱きついた。
    ⑤「なんども口づけした」

  • この段階では弟息子は何も語っていません。ただ帰ってきたままの状態ですが、父は完全に彼を受け入れているのです。息子の言う「もう私はあなたの子と呼ばれる資格はありません」という人間的な価値観に左右されることなく、父は彼を自分の息子として喜んで迎え入れたのです。その証拠が、上等な着物を着せることであり、手に指輪をはめさせることであり、盛大な祝宴だったのです。これが「ラーツォーン」(רָצוֹן)の意味です。

(2) 弟の帰りを歓迎しない兄息子に対する父の「懇願」

  • 「私はもうあなたの子と呼ばれる資格はありません。」と帰還した弟息子を、「死んでいたのが生き返り、いなくなったのが見つかったのだから」と言って喜んで受け入れる父。肥えた子牛がほふられ、音楽と踊りを伴う盛大な祝宴。そこに兄息子が畑から帰って来て、家に近づきました。ところが、しもべから事の事情を聞いた兄息子は、おこって、家に入ろうともしなかったのです。なぜ兄は弟の帰りを喜ぶことができなかったのか。兄の怒りをなだめようとする父に対する兄の言い分が29, 30節に記されています。

    15:29『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
    15:30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』

  • 怒りを伴う兄の言い分には、これまで長い間、どんなに一生懸命に父に仕え、父の言われることに従ってきたかという思いがあります。また放蕩三昧をし、財産を食いつぶして帰ってきた弟に対する妬みさえも感じられます。そしてその弟に対する父のあまりにも好意的な振る舞いに対して我慢がならないという思いが見て取れます。もし、この兄の言い分に「全く同感だ」という思いがあるならば、その人もこの兄息子と同じ問題を抱えているのかもしれません。父の家に共に住みながら、父の思いを共有することができず、本当の父を知らなかったと言えます。父の喜びを自分の喜びとすることなく、父の悲しみを自分の悲しみとすることなく、ただ良い行いによって父からの好意(愛)を得ようとひたすら頑張って生きてきた兄。そこには、感謝も自由も喜びもなく、文句の一つも言わずに、ただひたすら父に仕え、父に従ってきた兄の姿があります。
  • 兄は弟のように自由奔放に生きた経験がありません。したがって、自由奔放によって苦しみのどん底に突き落とされ、その苦痛と孤独を味わった経験もありません。弟が財産を食いつぶして帰ってきたとしても、それは自業自得で、特別に歓迎して祝宴を催すほどの父の必然性をなんら感じませんでした。ですからそんな弟を歓迎する父に対して腹立ちを感じたのです。「兄はおこって、家に入ろうともしなかった」(28節)という表現にそのことがよく表わされています。兄は自分自身の価値基準によって、弟を、そして父をも断罪することで、「隔ての壁」を作っているのです。これは、自分たちが作り上げた律法(神の律法ではなく、罪の律法)という価値基準で、取税人や遊女たちをさばき、また彼らを受け入れようとするイェシュアを拒絶しようとするパリサイ人の姿であり、多くの人々の姿でもあります。
  • そんな兄息子に対する父の「懇願」の中にもうひとつの「ラーツォーン」を見ることができます。「なだめてみた」と訳されているギリシア語は「パラカレオー」(παρακαλέω)という動詞の未完了形です。未完了形ということは、繰り返し、繰り返し「なだめ続ける」という意味です。興味深いことに、「パラカレオー」(παρακαλέω)には「そばに呼び寄せる、願う、頼む、懇願する、さとす、元気づける、慰める、なだめる」という意味がありますが、「なだめる」という訳語はここの箇所だけです。
  • 31節では父が兄息子に対して「子よ。」と呼びかけています。新改訳第2版にはその呼びかけのことばは訳されていませんでしたが、第3版では「子よ。」と訳され、改変されています。しかしこの「子よ。」という呼びかけには、「テクノン」(τέκνον)というギリシア語が使われています。「子」を表わす語彙としては他に「ヒュィオス」(υἱός)があります。それはルカ15章だけでも8回出てきます(11節、13節、19節、21節(2回)、24節、25節、30節)。ところが、31節で父が兄息子に呼びかける時には「テクノン」(τέκνον)が使われているのです。
  • いずれにしても、父は兄を責めることもなく、親愛の情をもってかかわろうとしているのですが、兄の方はその父の情を感じていないようです。最も父のそばにいながら、父の心を知らない現実、そこには大きな淵が存在しています。弟も父から離れていたのですが、兄の方も父から離れているのです。弟が父から離れていることを「死んでいた」と父は表現していますが、そばにいる兄も実は「死んでいる」のです。弟の方は「死んでいた」のが、父の家に帰ってくることで「生き返った」と表現していますが、兄は「死んだまま」です。この兄を父とのかかわりにおいて真に「生き帰らせる」ことはとても困難な状況にあると言わざるを得ません。聖書はこの兄が父の説得に応じたかどうかは記していません。しかしここにこそ、御父に対して、「御心を行ってください」という祈りの必要性と重要性があります。

3. 「御心」はメシア王国において「喜びの歓声」とともに実現する

  • 「二人の息子を持つ父のたとえ」における「兄息子」は、神の民イスラエル(ユダヤ人)を意味すると解釈できます。彼らは神の御子イェシュアをメシアと認めず、十字架にかけて殺しました。そしていまもなお多くのユダヤ人は神から遠く離れています。1948年にイスラエルは国家として再建され、長い間にわたって離散していた多くのユダヤ人が帰還しています。しかし、その多くは未だイェシュアをメシアとして信じていません。御父の継続的な懇願がなされているにもかかわらずです。
  • しかし、やがて来ようとしている反キリストによる未曾有の大患難の出来事を通して、彼らが「恵みと哀願の霊」が注がれて民族的に回心する時が来ることは聖書で預言されています(ゼカリヤ書12:10)。しかもそれはキリストが地上に再臨する直前です。キリストの地上再臨は復活のイェシュアが地上において王として統治される御国が完成(メシア王国の実現)することです。メシア王国とは「千年王国」のことです。
  • 預言者エレミヤは、「見よ。その日が来る」と繰り返し預言していました。「その日」には、イスラエルの全部族が神の前に世界の四方から集められます。これは神の驚くべき回復のみわざです。その時には爆発的な喜びが押し寄せることが預言されています。なぜなら、その日はモーセの契約とは異なる「新しい契約」が結ばれるからです。その「新しい契約」とは、主の律法が神の民の心に書き記されるだけでなく、人々はもはや、『主を知れ』と言って、おのおの互いに教えることもなく、彼らがみな、主を知るようになるからです。

    【新改訳改訂第3版】エレミヤ書31章13~14節
    13 そのとき、若い女は踊って楽しみ、若い男も年寄りも共に楽しむ。「わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませる。
    14 また祭司のたましいを髄で飽かせ、わたしの民は、わたしの恵みに満ち足りる。──【主】の御告げ──


    エレミヤ書31章31~34節
    31 見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
    32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。──【主】の御告げ──
    33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
    34 そのようにして、人々はもはや、『【主】を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。──【主】の御告げ──わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

  • この日が来るように、そのために祈るようにと、イェシュアは弟子たちに教えられたのです。


2014.5.10


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