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ヘブル語の「日ごとの糧」(レヘム)の秘密

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MDRSH 5. ヘブル語の「日ごとの糧」(レヘム)の秘密

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フーケーヌー  レヘム
画像の説明

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ベレーシート

  • この祈りを「日ごとのパン」「日ごとの食物」と理解するならば、イェシュアが言わんとしたことを理解したことにはなりません。一見、単純に見えるこの祈りは、実は驚くべき内容を秘めています。この祈りが意味するところを正しく理解することなしには、主の祈りの全体の意味するところも薄っぺらいものにしてしまう懸念があります。
  • 四つの福音書がこぞって記している「五千人の給食」の奇蹟があります。ヨハネはこの奇蹟を、イェシュアこそ預言されたメシアであることを指し示す「しるし」としています。ところが、この奇蹟を目の当たりにした群衆はこの「しるし」としての意味を悟りませんでした。イェシュアは多くの群衆が自分を王としようとしているのを知って、ただひとり、山に退かれました。その後も群衆はイエスを捜してガリラヤ湖の向こう岸までやってきて、ついに見つけました。そのときイェシュアはこう言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」と群衆を皮肉っています。往々にして、私たちがイェシュアを求めるのは、自分のパンの保障を得るためです。生存の保障を求めることが何よりも優先されてしまいます。そのことをイェシュアは十分すぎるほど知っておられます。群衆のイェシュアを求める動機が、「いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物(パン)」のためではなく、「なくなる、朽ちるパン」を求めて、それによって満腹になることにあるからです。
  • かつて、イスラエルの民が長い間、奴隷となっていたエジプトの国から脱出して、荒野の旅を余儀なくされた時、民は水や食べ物のことで「つぶやき」はじめました。もし、そのような視点から「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください」と祈るならば、イェシュアの意図からは離れたものとなってしまうのです。「私たちの日ごとの糧を、きょうもお与えください。」(マタイ10:11)という祈りを正しく理解して祈るためには、ヘブル的視点から「ミドゥラーシュ」する必要があると信じます。

1. 「日ごとの」と訳された語彙

  • 「主の祈り」のミドゥラーシュの第五回目は、私たちがしばしば「日ごとの糧をきょうもお与えください」と祈っている部分です。「きょうも」ということばが後ろにあるために、「糧」にかかることばが「日ごと」と訳されると、どうしても「毎日の糧」(デイリー、Daily)というイメージが抜けません。ギリシア語ではここにしか使われていない「エピウーシオス」(ἐπιούσιος)が使われていますが、実は、珍しい語彙のようです。
  • この語彙をヘブル語聖書では「フーケーヌー」(חוּקֵנוּ)、現代訳では「フッケーヌー」(חֻקֵּנוּ)ということばが充てられていますが、その言葉が意味しているのは、「神が定めておられる」「神が私たちに食べてほしいと願っておられる必要な」という意味になります。それは私たちにとって食べやすいものではなく、むしろ堅い食物かもしれません。しかしそれは必要不可欠な、無くてはならない「神から受けるべきものとして定められた」ものを意味しているのです。
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「日ごとの」という言葉をヘブル語に戻してみると、חקを親語根とするいくつかの語彙が浮かび上がります。
(1) 動詞「ハーカク」(חָקַק)は、刻みつける、制定する、確立するという意味を持つ。
(2) 動詞「ハーカー」(חָקָה)は、彫り込まれる、しるしをつける
(3) 名詞(女)「フッカー」(חֻקָּה)は、おきて、ならわし、定め
(4) 名詞(男)「ホーク」(חֹק)は、定められたもの、分け前、受ける分、一定の分。

  • 「日ごとの」という意味は、文字通りの「毎日、日ごとに、受けるべき定まった一定の分」というだけでなく、むしろ「神が私たちに与えようとしておられる」という意味です。私たちが願っているものではなく、神が私たちに与えようとしているものを意味すると言えます。与える主体は常に神にあります。神とのかかわりにおいて、神が決めておられる大切なこと、望んでおられるものです。神の子どもとして生きるためのみことばという意味だけでなく、私たちが永遠のいのちに至る食物の働きのために必要な「受けるべき分」を御父に求める祈りと言えないでしょうか。多くもなく、少なくもなく、受けるべき分です。


2. 「食物、パン、糧」を意味する「レヘム」

  • 「糧、パン、食物」を意味する名詞の「レヘム」(לֶחֶם)。その動詞は「ラーハム」(לָחַם)で「食べる」ことを意味しますが、それ以上の頻度で動詞の「ラーハム」は「戦う、攻撃する」という意味として使われています。ちなみに、類義語として、「食べる」という動詞は「アーハル」(אָכַל)、その名詞で「オーヘル」(אֹכֶל)がありますが、実は、その方がむしろ一般的です。
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  • ところで、「食べる」ことと「戦う」ことが、どうつながるのでしょうか。「食べる」ことも、「戦う」ことも、生存という面においては密接な関係があります。動物の世界では弱肉強食であり、「食べる、食べられる」という戦いは日常茶飯事です。人間も生きるために「食べ」、また、生きるために「戦う」ことを余儀なくされています。食べるものがなく、戦いに負けることは、生存の危機、つまり死を意味します。

(1)「食べる」を意味する動詞の「ラーハム」(לָחַם)の使用頻度は6回、その名詞の「糧」「レヘム」(לֶחֶם)で 298回。「あなたは、顔に汗を流して糧を得(る)」(創世記3:19)とあります。なぜ顔に汗を流して糧を得るのかといえば、それは、罪のゆえに土地がのろわれて、荒地の象徴である「いばらとあざみ」が生えるようになり、それゆえに、「いばらとあざみ」と戦って糧を得るための苦しい戦いを余儀なくされてしまったからです。しかし神は、神の民が主を信頼する時に、必要な「糧」(マナ)が天から与えられることを荒野の経験を通して教えられました。生存の保障は主を信頼することによって得られるという真理です。

(2) 「戦う」を意味する動詞の「ラーハム」(לָחַם)は177回。その名詞の「戦い」は「ラーヘム」(לָחֶם)で1回しか使われていません(士師記5:8)。重要なことは、「戦う」主体は主ご自身です。神の民は「つぶやくことなく」、主に信頼して「黙っていること(沈黙)」が求められました。

①出14:14
「主があなたがたのために戦われる。だからあなたがたは黙っていなければならない。」
②出14:23~25
23 エジプト人は追いかけて来て、パロの馬も戦車も騎兵も、みな彼らのあとから海の中に入って行った。
24 朝の見張りのころ、【主】は火と雲の柱のうちからエジプトの陣営を見おろし、エジプトの陣営をかき乱された。
25 その戦車の車輪をはずして、進むのを困難にされた。それでエジプト人は言った。「イスラエル人の前から逃げよう。【主】が彼らのために、エジプトと戦っておられるのだから。」
③出17:10~11
10 ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。
11 モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。・・・etc.

  • このように、生存と防衛の保障は主の主権的な御手の中にあることなのです。ですから、神の御子イェシュアは言われました。「何を食べるか、・・・と言って心配するのはやめなさい。・・あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:31~33)

3. イェシュアが語られた生けるいのちのパン

  • 「レヘム」(לֶחֶם)に対応するギリシア語は「アルトス」(αρτος)です。新約で最初にこのことばが登場するのはマタイの福音書4章3~4節です。「パン」にかかわるサタンとの戦いの場面です。

    【新改訳改訂第3版】
    4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
    4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」

  • イェシュアが言われた人が真に生きるために必要なパンとは、食べる食糧としてのパン(bread)ではなく、神の口から出る一つ一つのことばを意味しています。それは神がしようとしている御国の福音から発せられた神のご計画であり、みこころであり、御旨、そして目的です。このことを教えるために、神が口から出る一つひとつのことばか発せられるのです。この意味において、主の祈りの中にある「日ごとの糧」について考えなければなりません。もし、この「日ごとの糧」のことを、毎日食するパンのことだと思うならば、イェシュアが言おうとすることをまったく理解していないことになります。
  • 四つの福音書がみな共通に記している「五千人の給食」の奇蹟は、イェシュアこそ「天から下って来た生けるパン」であることを示唆するものでした。イェシュアは「わたしがいのちのパンです。」(ヨハネ6:35)、「わたしは、天から下って来た生けるパンです。」(同6:51)と言われました。また「それを食べると死ぬことがない。・・永遠に生きます。」(同6:50, 51)とも言われました。さらにイェシュアは弟子たちに、「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」(同4:32)と言われました。しかし、弟子たちも、また多くの群衆もその真の意味することを悟ることができませんでした。これは今日においても然りです。
  • 預言者のアモスは将来、「みことばの飢饉」が来ることを預言しました。それは神のみことばが語られていても、その真の意味を悟ることができないでいる状態のことです。そうした「みことばの飢饉」が現代の教会を襲っているのです。「まことに、まことに、あなたがたに告げます」と語られたイェシュアのことばだけが、私たちを真に生かすだけでなく、現実の中で襲いかかって来るさまざまな恐れに打ち勝たせる唯一の力です。
  • イェシュアの語ることばは天の父の心であり、その心を啓示するための御霊がかかわっておられます。みことばは三位一体の神ご自身なのです。したがって、私たちがイェシュアのことばを聞いてその真意を悟るためには御霊の助けが必要なのは言うまでもありません。人間的な概念や思考では悟ることができないのです。ユダヤ人の指導者ニコデモも、イェシュアを神のもとから来た教師として認めながらも、イェシュアの言うことばを悟ることができませんでした。このことは、ニコデモだけでなく、神のことばを学んでいるパリサイ派の人々、また多くの群衆もそうです。たとえ、彼らがイェシュアを探し求めたとしても、それはイェシュア自身を求めていたのではなく、目に見えるパンを求めていたのです。そのようなレベルでイェシュアとかかわっているならば、「みことばの飢饉」が訪れることは火を見るよりも明らかです。「あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。」(マタイ13:14)-なぜそうなのか、それは主を尋ね求めることをしていないからです。「みことばの飢饉」から救われるためには、ダビデのように主を尋ね求めることが必要なのです。ダビデの霊性が今日叫ばれているのは、そのためなのです。

    ⇒参照「ダビデの霊性に見倣って生きる」

4. この祈りを祈る今日的必要性

【新改訳改訂第3版】ヨハネの福音書6章26~27節
まことに、まことに、あなたがたに告げます。・・・・なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。

  • 「なくなる食物」(「朽ちる食物」とも訳されます)とは、私たちの肉体を支える食物のことです。もちろん、神は私たちがこの食物を必要としていることを、またその大切さを知っておられます。そしてその食物を必要な分だけ私たちに与えてくださる方です。しかしここでのイェシュアのことばは、「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。」というのです。
  • ここでの「働きなさい」ということばの意味は、私たちがからだのために食べる食物を得るために働かなければならないので、それと同様に、永遠のいのちに至る食物を得るために「働く」ということばが使われています。しかし、ここでの「働く」という意味は、「それを得ようと努力すること、それを得るようにと熱心に主を尋ね求めること」を意味します。永遠のいのち、それは神を知り、神との親しい交わりを意味します。それを得るために、しなければならないことがあるのです。「永遠のいのちに至る食物のために働く」とは、つまり神との親しい交わりを得ようと努力すること、熱心に神を尋ね求めて、御国の奥義(神のヴィジョンに隠された秘密)を知ることです。そのためには、私たちのライフスタイルを変えることが要求されるのではないでしょうか。そのことを知った上で、この祈りを祈る必要性があるのです。

2014.6.12


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