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ベニヤミン族に対する制裁のための戦い

士師記の目次

16. ベニヤミン族に対する制裁のための戦い

【聖書箇所】 19章1節~20章48節

はじめに

  • 士師記19章から21章までは一連の出来事について記されていますが、ここでは二回に分けてみたいと思います。19章はエフライムに住むレビ人の側妻が、ベニヤミンのギブアで殺されるという経緯が記され、レビ人が死んだ側妻の肉体を12に切り分けて各部族に送り、事件に対する問題を提起したことが記されています。
  • 20章では問題提起された事件の真相を確かめるために、ベニヤミン族を除く各部族の代表がミツパに結集し、そのままベニヤミンに対する制裁のための戦いがなされ、ベニヤミン部族が壊滅的な打撃を受けたことが記されています。

1. なぜ、ベニヤミン族が自分たちの身内である「よこしま(邪悪)な者」をかばって戦いに発展させたのか

  • レビ人によって提起された問題はイスラエルの歴史において前代未聞の汚行でした。口に出すのもはばかるような性的暴行を加えられたひとりの女性が死んだのです。真相を確認したイスラエルの11の部族がその悪を取り除くべく、ベニヤミン属にその者たちを引き渡すように勧告したときに、それを拒んで内戦にまで発展したのでした。これについての答えは聖書の中に記されていません。これまでは、外からの敵に対しては士師たちが登場し、その時その時の危機に対応しましたが、ここでは内部における問題です。かつて聖絶のものを盗んだ罪でアカンとその関係者が殺されたと同様、内部をきよめるために戦いが起こりました。
  • 「めいめいが、自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」時代において、ある部族の内部に干渉したり、干渉されることについてはこれがはじめてであったようです。士師記の時代は全体をまとめて問題を取り仕切る王がまだおりませんでした。それぞれの部族は他からの部属から干渉されることなく、それぞれが自治権をもっていました。共通の外敵に対して協力体制を敷くことができても、内政干渉に対してひどく非寛容であったと見ることができます。「よこしまな者たちを抱えているベニヤミン自体が自浄できない現実において、内政干渉されることは自尊心が許さなかったのかもしれません。

2. なぜ、イスラエル側は数の上では圧倒的でありながら二度も敗北したのか

  • 20章1節と8節に、イスラエルの民が「こぞって」しかも「ダンからベエル・シェバまで」(北から南まで、イスラエル全体を表わす表現)、主の前に集まり、戦いのために立ち上がっています。ここでの「こぞって」と訳されている部分は、原文では「ひとりの人のように」(「ケイーシュ・エハーッド」כְּאִישׁ אֶחָד)となっています。士師記においては珍しい現象です。カナン入国以来はじめて、ベニヤミン制裁の戦いで一枚岩のようになったと言えます。本来ならば、こうした問題が提起する事態を招く前に、事前に一つである神の民でしたが、そうなっていなかったことを逆に強調されているように思います。
  • イスラエルはベニヤミン属に対する制裁措置をする上で主に伺いを立てていますが二度の敗北を帰します。統率するリーダーがおらず、戦略的な面において足並みがそろわなかったのかもしれません。あるいは、イスラエルの数での優勢の自負を砕き、神に完全に拠り頼ませようとした主の配剤なのかもしれません。結果として、ベニヤミンの制裁措置は主のみこころであったようです。20:28には正規の祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスが主にうかがいを立てて、「攻め上れ。あす、彼らをあなたがたの手に渡す」」という主の仰せをいただていることからそれが分かります。

最後に

  • 実に不思議な事ですが、制裁措置を受けて部族存亡の危機にあったベニヤミン族からイスラエル最初の王サウルが登場しているのです。そのサウルが預言者サムエルから全イスラエルの君主となることを聞かされた時にこう述べています。「私はイスラエルの部族のうちの最も小さいベニヤミン人ではありませんか。私の家族は、ベニヤミン族のどの家族よりも、つまらないものではあませんか。どうして・・」とサムエルに詰め寄っています。
  • サウル王が登場する前の士師の時代には、ベニヤミン族の「左利きのエフデ」が、モアブの王エグロンを暗殺して、モアブの支配からイスラエルを救っています(士師記3:15)
  • また、ペルシャ時代の王の側近ハマンのユダヤ人撲滅計画からユダヤ人を救ったモルデカイと姪のエステルもベニヤミン族でした(エステル記2:5)。そして新約時代に、神から多くの秘密を啓示され、異邦人に神の福音を伝えるために召された使徒パウロもベニヤミン属の出身でした(使徒13:21、ローマ11:1、ピリピ3:5)。
  • 人の目にはどんな小さな事柄であっても、神はそこからご自身のご計画に参与する者たちを起こされる方です。ですから、主にある私たちも今置かれているところで、力を尽くして、主に忠実に仕えたいものです。特別な一輪の花として咲くことになるかも知れません。

2012.5.9


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