****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

ベルゼブル論争

文字サイズ:

50. ベルゼブル論争

【聖書箇所】マタイの福音書12章22~37節

ベレーシート 

  • マタイの12章22~37節は、一回の説教テキストとして取り上げるには少々長い感じがあります。しかしここには四つの部分からなる一連の流れがあります。もしキーワードがあるならば、そのつながりが読み取れるのです。それを考えながらみことばを学びたいと思います。タイトルを「ベルゼブル論争」といたしました。

(1) 事の発端・・「悪霊につかれた者」の癒しと群衆、パリサイ人たちの反応 (12:22~24)
(2) イェシュアの反論 (12:25~30)
(3) パリサイ人たちへの警告 (12:31~32)
(4) 教訓―人は口にする言葉への責任が問われる (12:33~37)


1. 事の発端・・悪霊につかれた者の癒しと群衆、パリサイ人たちの反応 (12:22~24)

  • 旧約聖書では「悪霊」についての言及は極めて少なく、以下の二例のみです。

①【新改訳2017】申命記 32章17節
彼らは、神ではない悪霊ども(שֵׁדִים)にいけにえを献げた。彼らの知らなかった神々に、近ごろ出て来た新しい神々、先祖が恐れもしなかった神々に。            悪霊の語源は、
②【新改訳2017】詩篇106篇37節             
「荒らす、滅ぼす」を意味する彼らは自分たちの息子と娘を悪霊(שֵׁדִים)へのいけにえとして献げ 

●「悪霊」の語源は、「荒らす、滅ぼす」を意味する「シャーダッド」(שָׁדַד)です。

  • 悪霊とは異教の神々(偶像)を軽蔑した表現です。偶像礼拝と悪霊とは密接な関係にあります。使徒パウロもⅠコリント書10章20節で「・・彼らが献げる物は、神にではなくて悪霊(複数)に献げられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊(複数)と交わる者になってもらいたくありません」と記しています。つまり、悪霊とは偶像の神なのです。偶像にささげ物をすることによって悪霊と交わる者となることを言っています。新約聖書では大勢の「悪霊につかれた者たち」がイェシュアのもとに連れて来られて、悪霊が追い出されていくのを多く見ることができます。マタイだけでもその例が以下のようにあります(8:28~34、9:32~34、12:22~24、15:21~28、17:14~18)。イェシュアが公生涯に入られた時に御霊が注がれたことで、悪霊たち(「ダイモネス」δαίμονες)の存在とその働きはより顕著になっていることが分かります。人が悪霊につかれるその侵入口はすべて偶像礼拝によるものです。
  • 人が悪霊につかれると、ひどく凶暴になったり、口がきけなくなったり、目がみえなくなったり、てんかんの症状があらわれたり、人によってその現れに差があるようです。中には、「食べもせず飲みもしないでいる人」(=バプテスマのヨハネのこと)を見て、つまり人として尋常ではない姿を見て、人々は悪霊につかれていると思ったようです。ここでマタイの福音書の9章と12章に出て来る「悪霊につかれた人」と群衆の反応、およびパリサイ人たちの反応を比較してその違いを観察してみましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書9章32~34節
32 その人たちが出て行くと、見よ、人々はイエスのもとに、悪霊につかれて口のきけない人を連れて来た。
33 悪霊が追い出されると、口のきけない人がものを言うようになった。群衆は驚いて、「こんなことはイスラエルで、いまだかつて起こったことがない」と言った。
34 しかし、パリサイ人たちは、「彼は悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出しているのだ」と言った。

【新改訳2017】マタイの福音書12章22~24節
22 そのとき、悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが癒やされたので、その人はものを言い、目も見えるようになった。
23 群衆はみな驚いて言った。「もしかすると、この人がダビデの子なのではないだろうか。」
24 これを聞いたパリサイ人たちは言った。「この人が悪霊どもを追い出しているのは、ただ悪霊どものかしらベルゼブルによることだ。」

  • まず異なる点は、「悪霊につかれた人」の症状です。9章では「口のきけない人」であったのに対し、12章では「目が見えず、口もきけない人」だということ。さらなる違いは群衆の反応です。「驚いた」という語彙が9章では「サウマゾー」(θαυμάζω)であるのに対し、12章では「エクシステーミ」(ἐξίστημι)となっている点です。この「驚き」の違いは、前者が普通に奇蹟を見て驚いたのに対し、後者はより常軌を逸した驚きを意味します。また「驚き」の内容も異なっています。前者は「こんなことはイスラエルで、いまだかつて起こったことがない」と言ったのに対して、後者は「もしかすると、この人がダビデの子なのではないだろうか。」と言ったことです。「ダビデの子」とはメシアの称号です。この群衆の反応はパリサイ人たちにとって気に障るものでした。
  • 共通している点は、パリサイ人たちがイェシュアのことを「悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出している」と非難したことです。二度も同じことを記しているのは、そのことが強調されているからです。群衆が「もしかすると、この人がダビデの子なのではないだろうか。」と言ったことに対して、イェシュアがしているのを「悪霊どものかしらベルゼブルによる」とパリサイ人たちが非難したことから、この箇所が「ベルゼブル論争」と言われる所以(ゆえん)になっています。24節を直訳すると「諸々の悪霊の君であるベルゼブルによるのでなければ、この者に悪霊など追い出せるはずがない」となります。「ベルゼブル」とはヘブル語の「ヴァアル・ゼヴール」(בַעַל־זְבוּל)で、「ヴァアル」(בַעַל)は「主人」、「ゼヴール」(זְבוּל)は「住まい」を意味します。単にそれだけの意味なのですが、パリサイ人たちはイェシュアのことを「悪霊どものかしらベルゼブル」(同12:24)と呼んで、「ベルゼブル」を「悪霊の支配者、悪霊たちの家長」という意味で使ったようです。それは神のご計画を阻もうとする敵以外の何ものでもありません。ですからイェシュアは「ベルゼブル」のことを「敵」という意味の「サタン」(「サタナス」Σατανᾶς、ヘブル語の「サーターン」שָׂטָן)という言葉に変えて使っています(12:26)。パリサイ人たちがイェシュアのしたことを「悪霊どものかしらベルゼブルによる」と非難したこ‘とに対する反論が25~30節に記されています。

2. イェシュアの反論 (12:25~30)

【新改訳2017】マタイの福音書12章25~30節
25 イエスは彼らの思いを知って言われた。
「どんな国でも分裂して争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも分裂して争えば立ち行きません。
26 もし、サタンがサタンを追い出しているのなら、仲間割れしたことになります。それなら、どのようにしてその国は立ち行くのですか。
27 また、もしわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているとしたら、あなたがたの子らが追い出しているのは、だれによってなのですか。そういうわけで、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく者となります。
28 しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。
29 まず強い者を縛り上げるのでなければ、強い者の家に入って家財を奪い取ることが、どうしてできるでしょうか。縛り上げれば、その家を略奪できます。
30 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです。

(1) 「彼らの思いを知る」イェシュア

  • 論争と言っても、24節でパリサイ人たちが言ったことに対するイェシュアの反論が大半を占めているのですが、その意味するところを正確に理解したいと思います。まずイェシュアは25節で「彼らの思いを知って」とあります(マタイ9:2と同様)。イェシュアの反論は、単なる「売り言葉に買い言葉」ではなく、相手の「思いを知って」の反論でした。彼らの「思い」とは「エンスメーシス」(ἐνθύμησις)の複数形で、彼らの内に潜む思いや考えのことです。つまりそれは「イェシュアを陥れようとする策略」を意味します。さらにそれを「知って」の「ホラオー」(ὁράω)は、「ものごとを見抜く能力」を意味します。イェシュアは人の内にある思いや考えをすばやく見抜く能力をもっていた方です。つまり人からだまされることのない方だということです。

(2) 内部分裂して争えば、荒れすたれ、立ち行かない

  • イェシュアの反論はまず一般的な真理についての言及から始まっています。一般的な真理とは、「どんな国でも分裂して争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも分裂して争えば立ち行かない」ということです。このことはだれにでも理解できることです。内輪もめしている国、町、家、どれ一つとっても同じことです。そこから始まって第一の反論は、26節の「もし、サタンがサタンを追い出しているのなら、仲間割れしたことになります。それなら、どのようにしてその国は立ち行くのですか」と質問しています。「その国」とは「サタンの国」のことです。神がサタンを追い出すということはあっても、サタンがサタンを追い出すというようなことはあり得ないはずだとイェシュアはここで言っているのです。
  • さらに第二の反論は、パリサイ人たちの言うように、「もしわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているとしたら、あなたがたの子らが追い出しているのは、だれによってなのですか」とここでも質問しています。特に後半のことばは、当時のユダヤの国で悪霊を追い出していたのはイェシュアだけではないことを知っていなければなりません。パリサイ人たちの中にも悪霊を追い出すことをしていた者がいたようです(マタイ7:22参照)。そのことを踏まえて、「もしわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているとしたら、あなたがたの子らが追い出しているのは、だれによってなのですか」と言っているのです。パリサイ人たちも同じことをしているのだから、イェシュアに対する非難は当たらないし、もし非難が当たるとしたら、それはあなたがたにも及ぶことになると言っているのです。

(3) 神の国はすでに来ている

  • この二つの反論を通して、イェシュアは28節で「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」と語っています。ここは「しかしもし(εἰ)わたしが・・しているなら、結果として(ἄρα)神の国は来ている」という構文になっています。ここはとても重要な箇所です。イェシュアの公生涯は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ4:17)という宣言で始まりました。神の国はいまだ完成してはいなのですが、ここでは神の国がすでに到来したことを強調しています。

4章17節 「天の御国が近づいた」・・・・・「エンギゾー」(εγγίζω)の現在完了形。(Heb) קָרְבָה
12章28節「神の国は・・来ているのです」・「フサノー」(φθάνω)のアオリスト。(Heb) נָגַעのヒフィル形
へブル訳は「ヒンネー・ヒッギーアー」(הִנֵּה הִגִּיעָה)で「見よ。到着して今ここにある」という意味。

  • そのことを示しているのが、「わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら」ということなのです。イェシュアの悪霊追い出しの奇蹟は「神の御霊」によるものだということです。ルカはこれを擬人的表現で「神の指」によるとしています(ルカ11:20)。
  • マタイが28節で「天の御国」とせず、あえて「神の国」としているのは、おそらく26節の「彼(=サタン)の国」と対応しているためだと思われます。つまり「神の国」と「サタンの国」、「神の王国」と「サタンの王国」が対比されているのです。イェシュアの来臨の目的は「悪魔のわざを打ち壊すため」(Ⅰヨハネ3:8)であり、「サタンの支配から神に立ち返らせて・・御国を受け継ぐため」(使徒26:18)に他なりません。

(4) 泥棒(強盗)のたとえ

  • イェシュアの反論は続きます。29節に「まず強い者を縛り上げるのでなければ、強い者の家に入って家財を奪い取ることが、どうしてできるでしょうか。縛り上げれば、その家を略奪できます。」とあります。28節の「神の御霊によって悪霊どもを追い出しているなら、もう神の国はあなたがたのところに来ている」ことを説明するために、イェシュアはここで「泥棒(強盗)のたとえ」を使っています。「強い者」とはおそらく「サタン」のことを指しています。それを縛り上げることで、はじめて泥棒は家に入って家のすべての家財を奪い取ることができるという話です。御国(神の国、神の支配)が到来するということは、神の敵が追い出されることを意味しています。そのことを顕著に示しているデモンストレーションが「悪霊が追い出される」という奇蹟なのです。そのことが30節につながっています。ここでイェシュアを泥棒? 強盗? と深く考えないでください。それはたとえの要点ではないからです。

(5) 味方か、敵か

  • イェシュアは30節で「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです」という言い方で、神と神の敵(サタン)が存在することを強調しています。聖書ではその中間はありません。「イェシュアに味方しない者はイェシュアに敵対し、イェシュアとともに神の国に人々を集めようとしない者は散らす者としてイェシュアに敵対する」のです。イェシュアは御父のご計画を実現するために遣わされた方です。イェシュアのしようとすることは御父がしようとすることです。ですから、イェシュアに味方する者は神に従う者なのです。すなわちイェシュアとのかかわりを通して、「神のご計画とみこころに従う者(味方)」か「それに従わずに、逆らう者(敵対者)」かのいずれかに区別されてしまうということです。そしてそこからパリサイ人たちに対してなされている警告が、31~32節なのです。

3. パリサイ人たちへの警告 (12:31~32)

31 ですから、わたしはあなたがたに言います。
人はどんな罪も冒涜も赦していただけますが、
御霊に対する冒涜は赦されません。
32 また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。
しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。

  • 上記のみことばはパラレリズムです。反意的パラレリズムと同義的パラレリズムが用いられています。人はどんな罪も冒涜も赦される。また、人の子(=イェシュアのこと)に逆らうことばを口にする者でも赦される。それなのに、御霊に対する冒涜、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されないとあります。これはどのように理解したらよいのでしょうか。特に、「人の子に逆らうことばを口にする者」と「聖霊に逆らうことを言う者」がどのように違うのか、それを説明するのは容易ではありません。前者は赦され、後者はなぜ赦されないのか。少し、ここで考えてみましょう。・・・・・・・・
  • ここでいろいろな解釈を紹介しましょう。「人の子に逆らうことばを口にする者」をAとし、「聖霊に逆らうことを言う者」をBとします。

(1) Aは「キリスト教に対して批判する者」で、Bは「イェシュアによる救いを拒む者」。
(2) Aは「回心以前に罪を犯した者」で、Bは「洗礼の受けた後に罪を犯した者」。
(3) Aは「復活以前のイェシュアに対して批判した者」で、Bは「復活後のイェシュアを否定する者」。
(4) Aは「福音に対して批判的である者」で、Bは「福音をよく理解した上で明確に拒絶する者」。
(5) Aは「弱さやつまずきから発したことばを口にした者」で、Bは「継続的、意識的に反逆する者」。
(6) Aは「人の子の神性に対して無知な発言をする者」で、Bは「キリストの神性を否定する者」。
(7) Aは「無知なゆえに神に逆らうことを言う者」で、Bは「神の国の到来を頑なに認めようとしない者」。
(8) Aは「どんな罪でも赦されるように定められた者」で、Bは「赦されないように定められた者」。

  • イェシュアが最も大切なこととして教えようとされたことは何だったのでしょうか。それは「天の御国が近づいている」ということでした。御国(王的支配)が「すでに到来していること」「やがて到来すること」を認めようとせず、それを否定するようなことを言う者こそ、「聖霊に逆らうことを言う者」ではないかと考えます。このことをさらに理解するために、33~37節のことが必要なのではないかと思います。

4. 教訓―人は自分の口にする言葉への責任が問われる (12:33~37)

  • 以下の箇所(33~37節)は、イェシュアがパリサイ人たちに警告したことを、別のたとえを用いながら、別の機会に語られたものを、マタイが編集してここに置いたものと思われます。「木と実」のたとえを用いて、特に31節の「冒涜」、32節の「聖霊に逆らうことを言う者」の「言う」、あるいは「口にすることば」がクローズアップされています。

【新改訳2017】マタイの福音書12章33~37節
33 木を良いとし、その実も良いとするか、木を悪いとし、その実も悪いとするか、どちらかです。
木の良し悪しはその実によって分かります。
34 まむしの子孫たち、おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えますか。心に満ちていることを口が話すのです。
35 良い人は良い倉から良い物を取り出し、悪い者は悪い倉から悪い物を取り出します。
36 わたしはあなたがたに言います。人は、口にするあらゆる無益なことばについて、さばきの日に申し開きをしなければなりません。
37 あなたは自分のことばによって義とされ、また、自分のことばによって不義に定められるのです。」

  • 「木と実のたとえ」は「原因と結果」を表わすたとえです。良い木ならば当然良い実を結ぶように、悪い木ならば当然悪い実を結びます。良い木が悪い実を決して結ぶことがないように、悪い木が良い実を結ぶことはあり得ないのです。とすれば、「まむしの子孫たち」であるパリサイ人たち、およびサドカイ人たち、律法学者たちから良いものが出ることはあり得ないのです。
  • また、「良い人は良い倉から良い物を取り出し、悪い者は悪い倉から悪い物を取り出します。」とありますが、ここで「良い」と「悪い」という概念をどのように理解すればよいのでしょうか。少なくともこれを人間的な基準で理解してはなりません。イェシュアは神の基準から「良い」「悪い」を区別しています。神の「良い」基準が分かれば、その反対の「悪い」も理解できるはずです。
  • 先週、「百万人の福音」5月号の「みことば一句」の原稿を書いて送りました。テーマのみことばは、「良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てます」というものです。このみことばにある「良い羊飼い」の「良い」とはどういう意味かを考えました。イメージとしてはエゼキエル書36章に出て来る「まことの牧者像」を思い浮かべました。その牧者像は羊たちを「捜し求め」「捜し出し」「救い出し」「導き出し」「集め」「連れて行き」「養わせ」「憩わせる」というものです。しかしそれは木と実の関係で言うならば「実」の部分です。そうした実を生み出す「木」は「良い」ものでなければなりません。聖書の言う「良い」ということばの初出箇所は創世記1章4節にあります。「神は光を良しと見られた。神は光と闇とを分けられた。」とあります。神が光を良しと見られたのは、光によって闇を分けるためです。そのことを神は良しとされたのです。私たちの「良し」「良い」とは全く異なります。神の永遠におけるご計画とみこころにおいて、その御旨と目的において「良い」のです。ここでの「良い」は形容詞の「トーヴ」(טוֹב)です。マタイの「良い木」「良い人」「良い倉」「良い実」の「良い」は、ギリシア語では形容詞の「カロス」(καλός)です。そしてヘブル語は「トーヴ」(טוֹב)です。
  • イェシュアの言う「良い」という概念は「木」に例えられるように「原因」としての「良い木」を意味します。それは神のご計画とみこころ、神の御旨(=喜び)と目的に沿うものでなければなりません。反対の「悪い」はそれに沿わないことがらです。神は光と闇を区別することを良しとされる方なのです。とすれば、「心に満ちていることを口が話す」のですから、私たちは心の中に神のご計画とみこころをしっかりと持っていなければなりません。それが「良い人は良い倉から良い物を取り出す」ことなのです。
  • 使徒パウロは「私は信じた。それゆえに語った」(Ⅱコリント4:13)という詩篇116篇10節にあるフレーズ、「ヘェマンティー・キー・アダベール」(הֶאֱמַנְתִּי כִּי אֲדַבֵּר)を用いて語っています。またローマ書10章でも申命記30章14節を引用して、「『みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。』これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことである」としています。これは口に語ることは心に信じていることがあふれ出たものであることを教えようとしています。心に信じていないことを語るわけにはいきません。信じていないことを語ったとしても、いつかは化けの皮がはがれてしまいます。「信仰のことば」とは何でしょうか。それは神が私たちに与えられた良き知らせ、御国の福音です。この福音は御霊の助けなしには理解できず、信じることもできないのです。この神の御霊が与えられてはじめて、神のご計画とみこころ、御旨とその目的を知ることができるのです。この御霊こそが神の最高の、しかも最も「良い」賜物(プレゼント)なのです。この賜物が与えられている人は決して滅びることにはならないのです。そしてこの御霊によって示される神の福音(良い知らせ)を信じて、それを自分の口で告白し、そして伝えることが、良い木であることのあかしなのです。

2019.3.10


a:1044 t:2 y:3

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional