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ユダの歴史的教訓としての飢饉の恐ろしさ

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6. ユダの歴史的教訓としての飢饉の恐ろしさ

【聖書箇所】 4章1節~22節

ベレーシート

  • 哀歌4章は、2章と同様、バビロン軍の包囲されたことによってもたらされたユダの民の凄惨な姿を描いています。特に、9~10節は、飢えの苦しみによる生き地獄を描いています。その箇所は以下の通りです。

【新改訳改訂第3版】 哀歌4章9~10節
9 剣で殺される者は、飢え死にする者よりも、しあわせであった。
彼らは、畑の実りがないので、やせ衰えて死んで行く。
10 私の民の娘の破滅のとき、あわれみ深い女たちさえ、自分の手で自分の子どもを煮て、自分たちの食物とした。


1. 兵糧攻めの恐ろしさ

画像の説明
  • 漢字には呪いといった恐ろしい字が多くありますが、「煮」という字も実は恐ろしいものがあります。私たちが食事をするために煮炊きする場合の「煮る」という場合には、それほど恐ろしくありません。料理の本の中に「煮る」という文字は頻繁に出てくるはず。ところが、飢饉に襲われ、あらゆる食べ物を食べ尽くしたあとで、「自分の手で自分の子どもを煮て、自分たちの食物とした。」という「煮」の文字は空恐ろしく感じます。
  • 結局は死ぬことになるにしても、「剣で殺される者は、飢え死にする者よりも、しあわせであった」(哀歌4:9)と記されるほどに、飢えには底知れぬ恐怖があるのです。
  • これは神の民が神の教えに耳を傾けず、「律法の呪い」を招いた結果です。申命記28章にその呪いが語られていますが、その呪いの一つが飢饉なのです。しかもそれは人間の尊厳性を喪失した凄惨さな姿に変えてしまうのです。

新改訳改訂第3版 申命記28章15節、53節~57節
15もし、あなたが、あなたの神、【主】の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。

53 あなたは、包囲と、敵がもたらす窮乏とのために、あなたの身から生まれた者、あなたの神、【主】が与えてくださった息子や娘の肉を食べるようになる。
54 あなたのうちの最も優しく、上品な男が、自分の兄弟や、自分の愛する妻や、まだ残っている子どもたちに対してさえ物惜しみをし、
55 自分が食べている子どもの肉を、全然、だれにも分け与えようとはしないであろう。あなたのすべての町囲みのうちには、包囲と、敵がもたらした窮乏とのために、何も残されてはいないからである。
56 あなたがたのうちの、優しく、上品な女で、あまりにも上品で優しいために足の裏を地面につけようともしない者が、自分の愛する夫や、息子や、娘に、物惜しみをし、
57 自分の足の間から出た後産や、自分が産んだ子どもさえ、何もかも欠乏しているので、ひそかに、それを食べるであろう。あなたの町囲みのうちは、包囲と、敵がもたらした窮乏との中にあるからである。

  • 日本でも築城するようになってから、戦法に「兵糧攻め」というのがあります。敵の城を包囲することで、必要な物質を入手するすべての路を遮断させてしまう戦法です。そうすることによって、戦わずして敵を降伏させることができます。城の中に立て篭もった者たちの食糧が尽き果てたとき、悲劇が襲うのです。
  • 預言者エレミヤもユダの民に語っていました。

    【新改訳改訂第3版】エレミヤ書 19章9節
    またわたしは、包囲と、彼らの敵、いのちをねらう者がもたらす窮乏のために、彼らに自分の息子の肉、娘の肉を食べさせる。彼らは互いにその友の肉を食べ合う。』

  • 預言者エレミヤを通して神が繰り返し警告していたにもかかわらず、多くのユダの民はそれを拒絶し、いい加減に聞いていたのです。

2. 歴史的教訓となった未曾有の悲惨な飢饉の経験

  • 原則として、聖書においては「飢饉は神の呪いであり、さばきです。」
  • 北イスラエルにおいても、アラムの王ベン・ハダデによるサマリヤ包囲によって兵糧攻めに遭いました(列王記第二6:28~29)。ただでも飢饉が襲っていたにもかかわらず、包囲されたことで、飢饉が限界に来た時に、やはり生き延びるためら死んだ自分の子どもたちを煮て食べたのです。ただし、この時は奇蹟的に神の介入があり、サマリヤを包囲していたアラム軍は陣営をそのままにし立ち去るということが起こりました。そのためにサマリヤの人々は助かったのです。しかしこの飢饉は、北イスラエルの民にとって歴史的教訓には至りませんでした。
  • ユダの民はバビロン軍によるエルサレム包囲によって未曾有の飢饉を経験しました。そして、それはやがて歴史的教訓として生かされることになります。バビロンの捕囚となった者たちは、申命記に記されている律法、神が与えた教えにある「呪い」をいい加減に考えていたことを深く反省し、律法を中心とたライフスタイルを築く努力を重ねました。神を尋ね求め、神を愛し、神を深く知ることを追い求めるようになりました。これが神の戦略でした。痛い経験をさせることで、真に大切なことを教えられたのです。それゆえ、捕囚の民たちは、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。わたしはそれであなたのおきてを学びました。あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。」(詩篇119篇71~72節)と告白するようになったのです。

2012.12.25


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