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ユダヤ人撲滅を公示したハマン

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3. ユダヤ人撲滅を公示したハマン

【聖書箇所】エステル記3章1節~15節

ベレーシート

  • エステル記で最も顕著なことばがあります。旧約聖書で85回使われていますが、そのうちの57回がエステル記で使われています。すでに2章5節で使われていました。3章では4回登場するその言葉とは「イェフーディー」(יְהוּדִי)、つまり「ユダヤ人」です。3章では、「モルデカイの民族」とも表現されています。
  • 「ユダヤ人」という用語は、ユダ族の民たちが自分たちを称して使った用語ではなく、軽蔑用語として、異邦人が彼らを指して使った用語です。この「ユダヤ人」の撲滅が王の名において公示されたその原因とそのプロセスについて記しているのが、今回の第三章です。

1. ハマンの激しい憤り

  • エステル記3章にはじめて登場する「ハマン」(「ハーマーン」הָמָן)という人物。この彼が、「この出来事の後」にはじめて登場するのです。「この出来事」とは、原文では複数になっているので、「エステルが新しい王の妃となったこと」、および「王暗殺未遂事件」等を意味すると考えられます。ハマンはペルシアの王アハシェエロス王によって引き立てられ、すべての首長たちの上の地位に置かれたナンバー・ツーの人物です。このハマンがなぜ王に引き立てられて昇進したのか、その理由については一切、聖書は記していません。しかし王が最も信頼する忠臣であったことは間違いありません。
  • それゆえ、王の家来たちはこのハマンに対して「ひざをかがめてひれ伏しました。」、王がそうすることを命じたようです(2、3節)。ところがこの「ハマン」に対してただ一人、ハマンの前にひざをかがめてひれ伏さない者がおりました。その人物こそユダヤ人の「モルデカイ」でした。ハマンは自分に対して身をかがめて、ひれ伏そうとしないモルデカイを見て「憤りに満たされた」(新改訳)「怒りに満たされた」(口語訳)「腹を立てた」(新共同訳)のでした。

「憤りに満たされた」(新改訳)ことばは「憤り、怒り」という名詞と「満ちた」という「アーレー」の二つの言葉からなっています。/名詞の「憤り」は「ヘーマー」(חֵמָה)ですが、エステル記では、王とハマンがその「ヘーマー」の主体となって使われています。前者の王の怒りは前王妃ワシェテとユダヤ人を絶滅させようとしたハマンに対してですが、後者のハマンの怒りは二回共ハマンです。この名詞の「ヘーマー」が聖書で最初に使われている箇所は創世記27章44節です。その箇所はエサウが弟のヤコブによって長子の権利を奪われた後の「激しい怒り」といえば、その様子を思い描くことができるはずです。動詞の「ハーマー」(הָמָה)は、「騒ぎ立てる、荒々しくする、吠えたける」という意味です。動詞からも名詞の「ヘーマー」が想像できます。王の憤りも、ハマンの憤りもそのような怒りでした。


2. ハマンに対して、ひれ伏そうとはしなかったモルデカイ

  • 王の家来たちがみん、-な、ハマンに対してひざをかがめてひれ伏したにもかかわらず、モルデカイだけはそうしませんでした。王の家来たちはモルデカイに対して「あなたはなぜ、王の命令にそむくのか」と言っているます。ハマンに対する礼拝は王の命令ですから、そうしないことは王に背くことにもなります。
  • ここで「ひれ伏す」と訳された動詞のヘブル語は「ハーヴァー」(חָוָה)です。本来は「かがむ」「ひれ伏す」と意味ですが、ここでは強意形のピットパエル態が使われています。それは自らの意志で「礼拝する、身を投げ出す、敬意を払う」ことを意味します。そうした逆の真意が含まれる敬拝の拒絶が、ハマンをして、激しい憤りに満たされたのでした。それゆえ、ハマンはペルシア王国中のすべてのユダヤ人を根絶やしにしようとしたのです。
  • ハマンはユダヤ人を絶滅させる日を先に決めようとしてくじを投げ、そのくじが第十二の月、すなわち「アダルの月」に当たりました。そこで王に対する説得を試みました。王への説得の内容が8~9節に記されています。それによれば、説得の要点は以下の三点ですが、その裏にあるハマンの真意は述べられていません。

    ①ユダヤ人の法令はどの民訴とも違っていて、それを遵守するために、王の法令を守っていないこと。
    ⇒ここでハマンは自分自身の名誉が傷つけられたことは一言も語っていません。

    ②彼らをそのままにしておくことは、王のためにならないこと。
    ⇒ここでもハマン自身にとっても益にならないとは一言も述べていません。

    ③この仕事の責任をハマン自身が全面的に負うということ。
    ⇒ここではハマンは自分が全責任を取ることを明言することによって、ユダヤ人に対する完全な主導権を握ろうとしています。

  • ハマンの説得に王はそれを受け入れたために、第一の月(今日の3~4月頃)の13日に書記官が召集され、各州のリーダーたちへの命令が公文書という形で国中に送られました。それには、第十二の月(今日の2~3月頃) 、すなわち、アダルの月の13日の当日に「すべてのユダヤ人を根絶やしにして、彼らの家財をかすめ奪え」という命令が行使されるというものでした。猶予は、わずか王の承認をもらってから11ヶ月しかありませんでした。公文書が発布されたとき、ペルシアの首都シェシャンの町は混乱に陥りました。

3. 内村鑑三の不敬事件

  • モルデカイが王とハマンに対する不敬事件を起こしたように、日本でも、内村鑑三が不敬事件を起こしています。内村がその事件を起こしたのは、1891年(明治24年)、内村30歳の時です。その二年前の28歳で結婚し、翌年、第一高等中学校の嘱託教員となります。そしてその翌年にこの事件を起こしました。事件を起こしたというと、内村が悪いことをしたということになってしまいますが、この真相はこうです(これ以降は「事件」という言い方をせず、「出来事」という言い方をします)。
  • 1891年の10月には教育勅語が、天皇の名において発布されました。翌年の1月9日に行われた教育勅語の奉読式において内村が最敬礼をしなかったことで、同僚や生徒から反国家的行為として非難され、社会問題にもされました。内村としてはキリスト信仰による良心からの不敬でしたが、この出来事によって内村は体調を崩したため、2月に依願解嘱しています。そして不幸なことに、4月に彼の妻が死去しています。この信仰の試練の出来事は内村鑑三の信仰をさらに強め、より聖書研究に向かわせていったのです。


2013.11.26


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