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ヨシヤ王の治世に発見された「律法の書」

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58. ヨシヤ王の治世に発見された「律法の書」とその預言的意味

【聖書箇所】Ⅱ歴代誌 34章1節~33節

ベレーシート

  • マナセ王の生涯がバビロン捕囚においてユダの民が経験した悔い改めの型であったように、ヨシヤ王の治世に「主の宮」で「律法の書」が発見された出来事も、預言的な意味をもっているように思います。というのは、「律法の書」が発見されるという真の意味は、亡国の憂き目であるバビロン捕囚という辱しめの経験において、神の民が自ら神を尋ね求め、神を捜し求めることを通して、はじめて神と会う(神を見出す)ことを示唆しているからです。それまでないがしろにされていた「律法の書」が単に発見されたというレベルでは、神の望まれるみこころにはほど遠いからです。

1. 「ヨシヤ」という名前に隠された神のご計画

  • 「ヨシヤ」という名前のヘブル語表記は「ヨーシッヤーフー」(יֹאשִׁיָּהוּ)です。この名前の持つ意味は「主はあきらめた、失望した」です。「主は」を意味する「ヤーフー」(יָּהוּ)と「絶望する、あきらめる、失望する」を意味する「ヤーアシュ」(יָאַשׁ)が結び合わされた名前です。「主が絶望する、あきらめる」という意味の名前がヨシヤだということは驚きです。そこに神の深い秘密が隠されていますが、それを掘り出すことが、「ネーム・セオロジー」(名前の神学)の課題です。
  • ヨシヤ王はイスラエルの王(ユダの王)の中では最善の王として評価されています。ヨシヤ王が行おうとした宗教改革も評価されています。にもかかわらず、彼の名前が「主は絶望する」という意味であることは、預言的であり、神の深いご計画と密接な関係があります。つまり、その名前は、ヨシヤ王がどんなに心を尽くして改革したとしても、すでに神が良しとするレベルには到底及ぶことのできないほどの絶望的な状況にあったことを意味します。そのことを示唆する表現があります。

    (1) Ⅱ歴代誌 34章19 節
    「王は律法のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いた。」

  • このことばは、ヨシヤが「律法の書」(それは「一つの書物」とあるので、おそらく祝福と呪いが記されている申命記と考えられます)のことばを聞いたとき、真の神のみこころを知って、みことばと自分たちの霊的現実とがあまりもかけ離れていることを知って愕然としたからだと考えられます。
  • そこで、主の律法の書を発見した祭司ヒルキヤ、および王の指名した人々が女預言者フルダのもとに行って主のみこころを尋ねています。女預言者のフルダの言葉は以下に記されているものでした。

(2) Ⅱ歴代誌34章24~28節
24 【主】はこう仰せられる。見よ。わたしは、この場所とその住民の上にわざわいをもたらす。彼らがユダの王の前で読み上げた書物にしるされているすべてののろいをもたらす。
25 彼らはわたしを捨て、ほかの神々に香をたき、彼らのすべての手のわざで、わたしの怒りを引き起こすようにした。わたしの憤りはこの場所に注がれ、消えることがない。』
26 【主】に尋ねるために、あなたがたを遣わしたユダの王には、こう言わなければなりません。『あなたが聞いたことばについて、イスラエルの神、【主】は、こう仰せられます。
27 あなたが、この場所とその住民についての神のことばを聞いたとき、あなたは心を痛め、神の前にへりくだり、わたしの前にへりくだって自分の衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる。──【主】の御告げです──
28 見よ。わたしは、あなたを先祖たちのもとに集めよう。あなたは安らかに自分の墓に集められる。それで、あなたは自分の目で、わたしがこの場所とその住民にもたらすすべてのわざわいを見ることがない。』」

  • ここでは、ユダの犯した罪に対する主の憤りは消えることなく、わざわいがもたらされることは免れることはできない。しかし、ヨシヤ王の治世にはそれが起らないというものでした。それを聞いたヨシヤは民に律法教育を施し、主のことばに従うことを誓いますが、神の目にはそれは付け焼刃の如くでしかなかったのです。

2. 「律法の書」を発見するとは・・

  • 34章14節の「祭司ヒルキヤは、モーセを通して示された主の律法の書を発見した」にある「発見した」ということばの原語は「マーツァー」(מָצָא)です。「マーツァー」は「見つける」「手に入れる」「(神と)会う」という意味ですが、バビロン捕囚を預言したエレミヤ書29章13~14節には次のように記されています。

    【新改訳改訂第3版】エレミヤ書29章11~14節

    11 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──【主】の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
    12 あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。
    13 もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう(「マーツァー」(מָצָא))。
    14 わたしはあなたがたに見つけられる(「マーツァー」(מָצָא))。──【主】の御告げ──わたしは、あなたがたの繁栄を元どおりにし、わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々と、すべての場所から、あなたがたを集める。──【主】の御告げ──わたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる。」


  • 「発見する」「見つける」という意味の「マーツァー」は、狩猟感覚的な用語です。詩篇119篇162篇に「私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。」とありますが、そのためには、心を尽くして神を「捜し求める」(「バーカッシュ」בָּקַשׁ)、「尋ね求める」(「ダーラシュ」דָּרַשׁ)ための多くの集中した瞑想の時間が必要でした。その中で彼らは喜びをもたらす大きな獲物を見つけたのです。

3. 今日の教会に欠如している神を求める狩猟感覚

  • ヨシヤ王が主の宮で発見された「律法の書」を民たちに読み聞かせてそれを行うことを誓わせましたが、人の生き方はそんなことでは簡単に変えられるものではないことを歴史は語っています。キリストの教会も当然、聖書を土台として主の教えを教えていますが、みことばの中に隠されている神のみおしえの宝を、自ら捜し求めていく喜びを教えることは容易なことではありません。なぜなら、他のことに忙しすぎるからです。キリスト教会は、イェシュアについてあかしされている聖書の全体から神の秘密を見つけ出す喜びを回復する必要があります。このことは、その必要に気づかされた者でなければできません。
  • 新約における狩猟感覚をもって神を尋ね求めた人は使徒パウロです。

    新改訳改訂第3版 ピリピ書 3章12~15節

    12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
    13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
    14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
    15 ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。

  • 「パウロ」のヘブル名は「サウル」です。その名前が意味することは「(神を)尋ね求める」ということです。パウロほど神の秘密を明かされた者は他にはおりません。なぜなら、彼が心を尽くして神を求めたからです。このパウロの狩猟感覚ー「大きな獲物を見つけて喜ぶ」霊性ーを身に着けたいものです。


2014.4.23


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