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ヨシュアの訣別説教(1) 「十分に気をつけて」

18. ヨシュアの訣別説教(1) 「十分に気をつけて」

【聖書箇所】 23章1節~16節

はじめに

  • 「モーセの従者」と言われたヨシュアは、その生涯の終わりにおいても、「モーセの従者」にふさわして仕方で訣別説教を23章と24章において語っています。23章で語っていることは、まさにモーセの訣別説教として語った申命記のエッセンスです。ヨシュアは次の世代に対して、モーセがすでに語った最も重要なことを語ったのです。

1. 23章のキーワードは「十分に気をつけて」

  • 11節をいろいろな翻訳を比較してみたいと思います。

    (1) 新改訳
    「あなたがたは、十分気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。」
    (2) 新共同訳
    「だから、あなたたちも心を込めて、あなたたちの神、主を愛しなさい。」
    (3) フランシスコ会訳
    「だから、あなたたちも、心を込めて、あたたちの神ヤーウェを愛するように。」
    (4) 関根訳
    「君たちの神、ヤハヴェを愛するために心をつくさなければならない。」
    (5) 岩波訳
    「あなたがたは、あなたがた自身のために、心して、あたながたの神ヤーウェを愛するように注意しなければならない。」

  • ヘブル語原文では 最初に「シャーマル」(שָׁמַר)の二ファル形があります。本来、「守る、見張る、気をつける」という意味ですか、受動態(二ファル)2人称複数で「あなたがたは気をつけて、注意して」という意味です。「シャーマル」の頭に接続詞がついているので、新共同訳とフランシスコ会訳は「だから」と訳しています。その次に「十分に」と訳される「メオッド」(מְאֹד)という副詞が来ます。「メオッド」(מְאֹד)「非常に、大いに」という意味です。そしてその次に原文には前置詞「レ」(לְ)付きで「あなたがたのネフェシュのために」という言葉が来ます。「ネフェシュ」(נֶפֶשׁ)は旧約ではきわめて重要なことばです。人の(その本質を含めた)存在そのものを意味しますので、岩波訳は「ネフェシュ」(נֶפֶשׁ)を「あなたがた自身のために」と訳しています。
  • これら三つの語彙、すなわち、
    ①「シャーマル」(שָׁמַר)
    ②「メオッド」(מְאֹד)
    ③「ネフェシュ」(נֶפֶשׁ)
    これらをすべて訳しているのは岩波訳のみということになります。

しかも注意をうながす理由は、「あなたがたの神、主を愛するため」です。そのために「あなたがたのネフェシュに十分な注意を払わなければならない」とヨシュアは語っているのです。単に「心を尽くす」とするだけでは抽象的と言わざるを得ません。なぜなら、私たちのネフェシュというものを知り、それに対して十分な注意を払うことによってはじめて主を愛することができるからです。

2. 「ネフェシュ」とは

  • ここで「ネフェシュ」(נֶפֶשׁ)について思いを巡らす必要があります。「ネフェシュ」とは、神によって創造された「生き物、息のあるもの」を意味します(創世記1:20, 21, 24, 30)。人間も土のちりで形造られ、その鼻にいのちの息を吹きこまれたことによって、生きる者となった」とありますが(創世記2:7)、その生きる者はすべての必要を神から与えられることによって生きる存在という意味です。人間は生まれてから死ぬまで必要の塊(かたまり)です。
  • 人間の必要を求めるすべての心の衝動(神を求めるという良い欲望も自分中心的な悪い欲望も含めて)は神によって与えられたものです。人の心にある衝動、あるいは心の渇きは神によって満たされるとき、それは健全であり、真の意味で「いのち」を持った存在とされます。ところが私たちは「いのち」を満たそうとするとき混同するのです。このことをイエスがルカの福音書12章で教えています。
  • ルカ12章15節の「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」と言われました。ここでいう「いのち」はギリシャ語「ゾーエー」ζωηが使われています。ところが、そのあとのたとえ話に出て来る「たましい」「いのち」ということばは「プシュケー」ψυχηということばが使われています。「いのちのことで何を食べようかと心配したりするのはやめなさい」の「いのち」も「プシュケー」です。この「プシュケー」の元になっているヘブル語が「たましい」とも「いのち」とも訳されている「ネフェシュ」なのです。
  • 「ネフェシュ」は常に渇きを満たすために常にうごめき、じっとしていない実体です。そしてこのネフェシュが満たされるとき安心するのですが、確実に満たされる保証を求めつづけるために「思い煩い」が生じるのです。神は私たちのいのちがそのような本質をもっていることを十分ご存じで、その必要を満たしたいと願っているのですが、ネフェシュはそのことになかなか気づかず、その渇きの不安のゆえに、自分の力でネフェシュを満たそうとして、ますます「思い煩う」ようになるのです。もし自分のネフェシュを満たしてくれるものであれば、なんでも神としてしまう弱さをまとっているのです。その解決策をイエスはすでに与えています。つまり、私たちのネフェシュ(たましい、いのち)を神は満たしてくださる方であることを理解するだけでなく、積極的に自ら「神の国の支配を求め続けること」で、「思い煩い」から解放されるだけでなく、神が与えてくださる賜物によってネフェシュが満たされ、真の「いのち」(ゾーエー)を持つ存在となり得ることを。
  • ヨシュアが民に、ないしは、次の世代の者たちに主を愛するためには、「あなたがたのネフェシュに十分な注意を払う」必要を教えたのには深い意味があったのです。

3. ヨシュアの勧めと警告

(1) 積極的な勧め

  • ヨシュアの勧告の積極的な面としては、モーセの律法に記されていることを断固として「守る」こと、主に「すがる」ことです。「すがる」という動詞は「ダーバク」(דָּבַק)です。「結びつく、縁を結ぶ、すがる 堅くすがる、まといつく、くっつく、くっついて離れない、心が惹かれる、そばにいる、そばから離れない」という意味です。この動詞が最初に使われている箇所は、創世記2:24「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い(united)、ふたりは一体となるのである。」にあります。神としっかりと「結び合う」ことが求められているのです。

(2) 消極的な勧め

  • 消極的な勧めとしては、カナンの異邦の民と
    ①「交わってはならない」
    ②「彼らの神の名を口にしてはならない」
    ③「誓ってはならない」
    ④「仕えてはならない」
    ⑤「拝んではならない」
  • それはネフェシュの抱えている弱さのゆえです。私たちの弱さのすべてを知った神の教える道を歩むか、あるいは自分のネフェシュを満たすものを安易に満たす道を選ぶか、その選択が迫られています。もし神の教えの道ではなく、自分のネフェシュの赴くままに生きようとするならば、神が民に恩寵として与えた「良い地」から「根絶やしにされる」ことを、二つの「滅亡用語」を使って警告しているのです。二つの「滅亡用語」のひとつは「シャーマド」שָׁמַד、もうひとつは「アーヴァド」אָבַדです。いずれもモーセが語った申命記の特愛用語です。
  • イスラエルの民はモーセとその従者であるヨシュアの語った警告のことばを無視したことで、約束の地を失い、ある者たちは滅亡して根絶やしにされたのです。私たちは歴史の警告をないがしろにしてはならないのです。

2012.4.7


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