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ヨハネのパトモス経験とその意義

序説 3. ヨハネのパトモス経験とその意義・・礼拝との関わりの中で

(1) ヨハネのバトモスでの礼拝

  • ヨハネはローマ帝国の迫害のゆえに、エペソに近いパトモスと呼ばれる島にいた。当時、この島は有名な場所ではなかった。エーゲ海に浮かぶギリシャの孤島パトモスは、わずか6平方キロメートルの寂しい流刑地であった。そこにイエスはヨハネを訪れてくださったのである。このことは、たとえ私たちがどれほど見捨てられた場所にいたとしても、あるいは混乱、失望、拒絶と呼ばれる孤島にいたとしても、イエスはあなたを見捨てることなく、訪れてくださる方である。
  • ヨハネはこう記している。「私は、主の日に御霊に感じ、私の後ろにラッパの音のような大きな声を聞いた」(1章10節)と。このことは何を意味するだろうか。ヨハネのその身体は確かに流刑地に送られ、ローマ帝国の圧制の下に置かれている。しかしヨハネは「主の日」に、つまりヨハネが週の初めの日に一人で礼拝していた時に、彼は自分の置かれた環境を越えて、御霊の領域に入ったのである。このことは、私たちがどれほど絶望的な状態にあったとしても、神を礼拝するならばその現状に縛られることなく、御霊の領域に引き上げられることができることを意味する。そして天の門は対して広く開けられ、新しい啓示を受けることができる。これは単なる積極思考や感情的な高揚を超えた経験である。

(2) バトモス経験の意義

  • ヨハネは礼拝の中で栄光に輝く主を見た。イエスはご自身を「常にいまし、昔いまし、後に来られる方」であることをヨハネに示し、さらに「アルファーであり、オメガである」と語られた。イエスこそ最初からおられた方、私たちの信仰の創始者であり、完成者であられる方、創造主であると同時に、すべてを完結される方である。このことは私たちにとって何を意味するだろうか。それは、私たちの人生に絶望的な状況が訪れ、「私の人生はもう終わりだ」とつぶやくようなことがあったとしても、イエスは「まだあなたの書物は完結していない」と語ってくださっているのである。主は、主の方法で私たちの書物を完結してくださる。何というすばらしい希望が与えられていることか、ヨハネはその希望の幻をパトモスで与えられたのである。
  • 主に祝福される者は、ヨハネのみならず、だれでもこのパトモス経験に導かれることを心に留めよう。孤独の経験、あるいは「夜の経験」は、真に神と出会う最高のチャンスである。ヤコブにしても、パウロにしても、そして、ヨハネにしてもしかりである。

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