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ヨハネの福音書の「復活後の顕現」の意味するところ

瞑想のための予備知識

7. ヨハネの福音書における「復活後の顕現」の意味するところ

はじめに

  • 共観福音書とヨハネの福音書とでは、イエスの受難の取り上げ方が異なっていることを書きました。⇒〔参照〕
  • 同じく、イエスの復活(よみがえり)の取り上げ方も共観福音書とヨハネの福音書とでは視点が異なってます。そもそも共観とは、何に対して共観となっているのかと言えば、ヨハネの福音書とは異なるという意味で、マタイ、マルコ、ルカとが共通した見方をしているということです。共観福音書とヨハネの福音書との明確な違い、その違いは同じ事実を異なった視点から見ているということです。どちらも大切なのですが、ただ、その相違点を私たちが正しく理解しているかどうかという点が大切です。

1. 共観福音書に見られる共通した表現

  • 御使いによる告知ー「ここにはおられません。よみがえられたのです。」

    マルコ16:6
    「あの方はよみがえられました。ここ(墓)にはおられません。」
    マタイ28:6
    「ここにはおられません。前から行っておられたように、よみがえられたのです。」
    ルカ 24:6
    「ここにはおられません。よみがえられたのです。・・思い出しなさい。」

  • 「人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえられなければならない。」とイエスは繰り返し言われました。しかしイエスが死んで、弟子たちはすっかり失望落胆してしまったのです。ですから、ルカの福音書ではエマオの途上にある二人の弟子に「キリストは、必ず、苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入る」ことを聖書全体の中で説き明かされたのでした。つまり、苦難の後に必ずよみがえることを聖書によって悟らせたのです。
  • 共観福音書においては、イエスの復活に対する弟子たちの不信仰が前提となっています。ですから共観福音書では弟子たちよりも女性たちに「よみがえりの事実」が告知されるかたちとなっています。
  • ところが、ヨハネの福音書では共観福音書が共通に記しているような表現がありません。
  • ヨハネでもマグダラのマリヤが一人でイエスの墓に行ったように記されています。そしてイエスの姿が見えないのを知って弟子たちにそのことを告げます。ペテロと(おさらく)ヨハネがイエスの墓を確認して、イエスが復活したことを確信します。それまでは彼らも復活するという聖書の預言をよく理解していなかったようです。
  • ヨハネ福音書の場合は、共観福音書のように御使いの告知ではなく、復活されたイエスご自身がマグダラのマリヤに現われて、次のように言われました。
    ヨハネ20:17
    「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のみもとに上っていないからです。」
    ここで強調されていることは、わたしはまだ父のもとに上っていない」ということです。つまり。ヨハネの福音書においては、復活の事実はイエスが父のもとに帰る(上る)通過点でしかないということです。
  • 復活の事実それ自体よりも、復活後、父のところに上って御座に着き、聖霊を遣わすことが重要視されています。ですからこの視点でヨハネは復活後のイエスの顕現を見ています。まずは、マグダラのマリヤに「神である父のもとに上る」ということを弟子たちにつげるように言います。そのあとに、復活のイエスは弟子たちに現われて「聖霊を受けよ」と語られます。父と子から遣わされる聖霊を受けることによって、御子を信じるすべての者が永遠のいのちを与えられることになるからです。ヨハネにおいては、復活の出来事は確かに重要な出来事であるにもかわらず、永遠のいのちが賦与されるための通過点としての出来事として捉えられているということです。共観福音書がこぞって強調する「ここにはおられません。よみがえられました」との宣言は、ヨハネの福音書においては当然のことであって、そのあとに続く事柄の方に重点が移っているように思います。おそらくそこに、最後の福音書としてヨハネの福音書が書き記されなければならなかった歴史的必然性があるように思います。
  • 神の賜物である聖霊、御子が御父にお願いをして与えられる「もうひとりの助け主」、この方の到来によって、はじてめ新たな神とのかかわりが与えられるのです。つまり、神を無限に知り続けるという愛のかかわり、つまり、永遠のいのちです。そこにヨハネの強調点があります。そしてこのことは最後の晩餐の中でイエスは繰り返し弟子たちに語られたことだったのです。

2. トマスとペテロに対する顕現

  • 復活されたイエスがマグダラのマリヤに言われたこと。その後に、イエスが弟子たちのところに入ってこられて「聖霊を受けよ」と言われたこと。そして弟子のトマスのところに来られて「見ないで信じる者は幸いである」と言われたこと。みなつながりを持っています。特に、トマスに対する取り扱いは重要です。なぜなら、その後の時代のキリスト者は見ないで信じる者となるからです。トマスも他の弟子たちも、マグダラのマリヤも、そしてペテロもヨハネも、みな「見て、信じた」のです。「見て、喜んだ」のです。「見ないで信じる者は幸いである」とは、やがてイエスが昇天されて人々の目には見えなくなくことを前提として語っておられるのです。
  • 最後のペテロに対しては、イエスは彼に「わたしを愛するか」と3度訪ねておられます。イエスの言う「愛する(アガペー)」とは「死ぬ」ことを意味します。そうした愛をもって主はペテロに「わたしを愛するか」と尋ねておられるのです。しかし、ペテロはイエスの言う「アガペー」の愛で愛することをためらいました。かつて主を裏切ってしまったことがあったからだと思います。しかしそんなペテロに対して、イエスは彼がやがて主のために殉教することを予告します。殉教とは、主を真に愛していなければとてもできないことです。そうした愛のかかわりをペテロが主に対してやがて聖霊によって持つことをイエスは予告されたのです。しかしそのためには、イエスが父のもとに上る必要があります。天に帰られて、父のもとから聖霊を遣わされるときにはじめて「キリストの証人」となることができるからです。上から与えられる力としての聖霊は、主のために、殉教する力が天から賦与されるということです。そんな愛がペテロのうちに培われることをイエスは予告していたのです。

むすび

  • ヨハネの福音書においては、復活はイエスが天の父のもとへ帰られる通過点でしかありません。天と地を結ぶ真の栄光はイエスが御父の右の座に座してから現されるのです。ヨハネの福音書における復活後のイエスのいくつかの顕現はすべてそのことを射程において記されているように思います。ですから、マグダラのマリヤに対する顕現、弟子たちへの顕現、トマスへの顕現、そしてペテロへの顕現はすべてつながっているのです。
    画像の説明
  • ヨハネの福音書が書かれた時代には、すでにキリスト者に対する迫害が始まっていました。異端との戦いもはじまっていました。そうした戦いをくぐり抜けるためには、御子イエスとの愛のかかわりをしっかりと築き、目に見えずとも、御座におられるイエスの御名の力に支えられて、この世にあって神に従う決意が求められていたのです。
  • 今も、私たちには神の右に着座されたイエスは「イエスの御名」というすべてにまさる名を与えられています。この方が今も弟子たちのためにとりなしておられるだけでなく、聖霊によって神が共に私たちのうちに住むという生きた現実をあかしする力を与えておられるのです。「わたしを愛するか」という主の問いかけは、殉教の覚悟こそこの世における神に対する愛の究極のあかしであることを諭されているように思います。主への愛の永遠のいのちとが、私を通してあかしされることを願います。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスはご自分の前に置かれた喜びのゆえに(岩波訳注「喜びという代償があったので)、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の前に着座されました。」

(ヘブル12:2)


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